「大学」について

(平成19年7月〜11月)

儒学は「修己治人」の学問だといわれている。つまり、自分自身を修める事ができる者は、人の上に立ち、人を治める事ができるという考え方が、その中心を成す。そして、自分を修めるには、道義心、道徳心の高揚が必要であると唱えているのである。修己は自分の内面への道義心の追求であり、治人は、外への道義心の発揮であり、啓蒙である。この、「大学」の最初のところで述べている学問の総仕上げとして学ぶべきものについて、「明明徳」(めいめいとく)「親民」「止至善」(ししぜん)と三つの言葉を上げているが、「明明徳」(明徳を明らかにする)が修己であり、「親民」(民を親しましむる)が治人であるということがいえよう。それが、できれば「止至善」(至善に止まる)、最高善の境地を得られるということである。
また、次に続く「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」については、「修身」を中心として「正心」以下が修己を表しており、「斉家」以上が治人を表しているのである。つまり、「修身」自分の身を修めるためには、「正心」、心を正さなくてはならない。そのためには「誠意」、意念を誠実にしなければならない。そのためには「致知」道義的判断をできなければならない。そのためには「格物」物事の道理の理解ができなければならない。それが、できて自然に身が修まれば、「斉家」、家がととのう。

   
そうすると「治国」国が治まる。そうすると「平天下」世界が平和になると述べているのである。修己と治人、一方は内へ、一方は外へと表面、相反することのように思えるが、実は一体となってこそ、すばらしい力を発揮するのである。所謂、量子論でいうところの「相補性」(相補う性質)を持つという表現ができようか。このように「大学」は、天地自然の理に即して、人間の生きる道程を明確に示し、教導することが、人々の求める平穏な社会を創ることに繋がるということを解説している、哲学であり、物理学であるということがいえよう。
「大学」は、「礼記」(五経のひとつ)の第四十二編の抜粋である。そして、儒学の世界では、孔子の弟子、曾子の書であるとされるが、真偽は定かではない。宋の時代、朱子が、教育体系を作るときに、「中庸」と同じくこの一遍を抜粋し、四書の一つ「大学」としたのは、儒学を官学として体系付けるためになくてはならないものであると考えたからであろう。最近、道義心なき事件が、頻繁に起こっているが、道義心無き者が、会社や組織、社会を引っ張っていけば、とんでもないことが起きるという実証をしているようにも思える。そういう世の中を是正するためにも、この「大学」を学ぶ意味合いは大きいものだと思う。(岩波文庫「大学・中庸」金谷 治訳注の大学(旧本)本文に沿って解説する。) 
第一章  

一、
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善(しぜん)に止まるに在り。」
最高学府での教学の在り方は、自分で身につけたすばらしい徳を世の中に広く浸透させることであり、そういうことを実践しながら、民衆が親しみ、慈しみ合うようにして、最高善の境地に止まり、それを保ち続けることである。
人間が学問を通して本当に学ばなければならないのは、通り一遍の知識ではなく、徳を磨くということであるといっているのである。今回の教育改革の中にも、「徳育」の時間をつくるということは、重要視されているが、本当は、そう改めて、行うものではないように思える。ここで、述べてあるように、特別「徳育」という時間を作らなくても、色々な学問を通じて自然、徳が身に付くようにするのが教育の本来の使命であるように思える。そうでなければ、おそらく、その時間を他の学習の時間と同一視し、面白くない、退屈な時間だと思うようになり、結局は、何の意味もないものになっていくように思える。徳を磨くには、先生も生徒も父兄も、学校と社会が一体となった環境作りが必要であるように思う。大学で言うところの、「民を親しましむる」社会の構築が必要になる。こういう視点がなければ、本当の改革はできないように思える。つまり、教育の問題は、教育の問題だけではないという視点が必要であるように思う。
そして、「最高善の境地にふみ止まるということが、学問の目的として明確になっていれば、心が定まり、心が定まれば、物事に動揺しなくなり、物事に動揺しなくなれば、安らかになり、安らかな状態であれば、物事を正しく判断することができるようになり、物事を正しく判断することができれば、学問の目的である最高善の境地に止まるということを達成できるのである。」と次に述べてある。つまり、目的が明確になっていれば、それに向かって正しい方法で努力を積み上げていくので、目的は、ぐるっと回って、時間はかかっても達成できるといっているのである。確かに、仕事でも、自分の夢でも、目的や目標が、ぼやけてくるとうまくいかないものである。目的や目標を達成するためには、そのことを鮮明に自分の頭の中でイメージし続けることができるかが重要であるように思う。もちろん、「ネバーギブアップ」の精神も必要である。
「物に本末有り、事に終始有り、先後する所を知れば則ち道に近し。」物事には、根本と末端があり、始めと終わりがある。そのことをちゃんと見据えて、何を先にして、何を後にすべきであるかということがわかるなら、それで、ほぼ、正しい道を得たことになる。
確かに、何事をやるにしても、やらなければならないことをはしょってしまい、物事が成就しなくなるということは多くある。どんなことでも、物事にはプロセスがあり、そのプロセスを経なければ物事が成り立たないのが天地自然の理である。つまり、正しい道を得た人は、天地自然の理に即して、何を最初にやり、何を最後にやるかということがわかっているので、初めから、終わりまでを俯瞰できるのであろう。そういうことができるなら、仕事も人より早く確実に実行することができるようになるであろう。もちろん、そうなるためには、場数を踏み、実力をつけるということが重要である。また、それが基本である。しかし、だからといってそれだけでは物事を成就するということはなかなかできるものではない。だから、先後を知る先人の教えを学ぶということが必要である。特に4000年、5000年という叡智を積み重ねた「易経」は、よくそのことを教えてくれる。残念ながら、最近の日本人は、この「先後する所」を知らない、あるいは知らなくなった人が多くなっているように思う。世の中を良くするには、この先後を知る人を増やすことが一番のように思う。

二、
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。」
輝かしい聖人の徳を世界中に広めて、世界を平和に導こうとした人は、その前に先ず、世界の本である、自国をよく治めた。
平和で平穏な世界を構築するためには、どうすればよいのかということについて、ここでは述べてある。最初の部分でもこれについては述べたが、重複するところもあろうが、前項とこの項が「大学」の中では、重要なポイントになるので、話しを進めていこうと考える。国の本は家族であるので、次に国を治めるには、家をととのえなければならないと述べているのである。これを「斉家」という。現在の日本は、核家族化が進み、また、それぞれの生活パターンの変化もあり、なかなか家族で一緒に過ごすということが、できなくなってきているようである。確かに国や自治体を考えるとその核を形成しているのは、家族であり、家庭である。これが、ちゃんとしていなければ、いい自治体や国を形成することはできない。教育改革でもいつも言われるのが、家庭教育のあり方である。また、家族の関係が崩壊していることを基にした多くの事件が発生しているのは周知の通りである。それでは、その家をととのえるために必要なのは、何なのかというと、それは、そこに集う個々人つまり自分自身を修める「修身」ということである。昔、道徳の時間のことを「修身」の時間と言っていた様であるが、これはそこからきているものである。今の時代でも「修身」の時間といったほうが、ピタリとくるようにも思えるがどうだろうか。いや、今の時代に必要なのはこの「修身」ということではなかろうか。儒学の基本概念である「修己治人」の具体的なことをこの項では述べてある。つまり、自分の身が修まれば、天地自然の理と呼応して、世界平和が実現できるといっているのである。今世界は、特にイスラム教圏は、多くの紛争を抱えている。米軍がここに駐留してから、3年くらいになるが、すでに米軍の死者は4000人を超えると言われている。この戦死者の数は、19世紀のアメリカの戦死者の数に匹敵するようである。更に、紛争は、恨みに恨みを重ね、激化の一途を辿っている。どう処理していこうと考えているのであろうか。ただの消耗戦は、益々、多くの犠牲者を出し、テロは、世界中を覆うようになるであろう。
世界平和の実現は自らを修めることである。特にこの紛争に関連している指導者たちが、まず、先頭をきって、自らを省みて、自らを戒め、自らを慎み、自らを修めることを行う必要があるのではないかと思うのである。他国に対して指導力を発揮するというようなことはやめにして、自国の発展をどうしていくかということに一所懸命に取り組んでいくことの方が、今は重要なのではないだろうか。この市場経済の基軸もアメリカ一辺倒からEUの発展やロシア、中国、インドなどの台頭により、大きく変わろうとしているこの重要な時期に他国に干渉するような余裕はあるのであろうか。この「大学」の教えを彼の指導者たちに教育したいくらいである。
さて、それでは、身を修める「修身」のためにはどうすればよいのであろうか。それは、先ず、心を正すことであると述べてある。そして、心を正すためには、自分の意念を誠実にすることであるとなるのである。この紛争の指導者たちのこれを始めたときの意念は何だったのであろうか。本当にテロ撲滅のため、大量化学兵器撤収のためやったのであれば、テロは逆に世界中に広がり、大量化学兵器はなかったのであるから、自分の意念を誠実にしてみれば、必要のない戦いであるということになり、即刻戦いを止めるということになるのではなかろうか。

 
また、そうではなく中東へのエネルギー拠点の確保、統治ということでやったのであれば、これだけの犠牲を出しているのであるから、自分の意念を誠実にしてみれば、他の平和的交渉を進めていくことの重要性がわかるのではないだろうか。そうすれば、心正しい行動ができるようになり、自らも修めることができるようになり、紛争も終局へ向かうのではあるまいか。そんなに難しいことではないように思えるがどうであろうか。そして、この意念を誠実にするために必要なことは、道義的判断を十分に押し究めることが必要であると次に述べてある。
この紛争にかかわっている国の宗教は、キリスト教とイスラム教である。この二つの宗教に道義や道徳という言葉は、存在しないのであろうか。それは、とんでもないことである。どちらの宗教も道義や道徳の塊のようなものであるように思える(イスラム教については、あまり良く知らないが)。ただ、それが、キリストやアラーといった偶像に向けられているのであろう。それゆえ、相容れないものが出てくるということは、否めない。だから、お互いに拒絶しあうのであろう。しかし、人類の平和や幸福を願うという点では一緒であるはずである(それがなければ宗教とはいえない)。その点で道義的判断をすれば、問題はないように思える。つまり、次に述べてある。道義的判断を十分に押し究めるために必要なことは、物事の道理を理解するということである。物事の道理については、前述もしたように一見相反するものが、実は、相補うものであるということの理解が必要になるのである。陰と陽、善と悪、静と動、そういう一見相反するように見えるものが、実は、一体となって世の中を形成している。前述もしたように量子論で言うところの「相補性」である。このことを理解したからこそ、現在の科学技術は発展しているのである。この観点からみれば、キリスト教もイスラム教も相反するように見えるけれども、人類の平和と幸福を願うという点では、相補っているのである。この理解があれば、その枠組みの中で道義的判断をすればよいのである。そして、意念を誠実にして、心を正しくして、身を修めることができれば、家もととのい、国も治まり、世界が平和になるのである。物事の道理の理解を行うためには、大極図に見られる「相補性」の理解が必要になるのは、今、述べた通りであるが、その原点が「易経」である。だから、宋、明代の儒学者たちは、ほとんどの人が、世の中の物事の道理の理解をするために「易経」をかなり研究して、それを実践しているのである。そう考えると、今、最先端とされる物理学の理論が、東洋では、この宋の時代から既に研究され始めていたということがいえよう。この天地自然の理の中で、時間的、空間的に自分は今どこの位置にいるのかを諮詢し、どう対処すべきかを教導してくれる「易経」は、所謂、一般に言う「占い」というものとは、一線を隔した「人生哲学の書」ということが言えようか。

三、
「天子より以て庶民に至るまで、壱(いつ)に是れ皆身を修むるを以て本と為す。その本乱れて末治まる者は否(あら)ず。」
天子から庶民に至るまで、どのような身分の者であっても、ただ一つ身を修めるということが人間の根本をなすのである。身を修めるという人間の根本のことがでたらめでその末端にある国を治めるということができていたためしはない。
それは、自分の身を修めることのできない者が、多く横行してくると国が乱れるということでもある。我々は、今、真剣にこの身を修める「修身」ということについて勉強し、取り組むべきときではないであろうか。人間というのは、前例があれば、「あの人たちもそういうことをやったのだから、これくらいのことは、許されるだろう」と勝手に自分で法則を作ってしまう傾向が強い。今、問題の政治家の(特に地方自治体に於ける)官費の使用目的の不明瞭さなどについての発端は、おそらく、これまでの慣習のなかで一般に公開されないという前提のもとに問題ないと「暗黙の了解」を得てやっていたということが原因であったろうと思う。それを誰も自分自身を修めることなく、ただ、前例にそってやってきたということであろう。官費は国民の税金で賄われているということは、誰でもよくわかっているはずである。それを考えると無駄使いはできないと思うことは当然のことであるが、国民を代表する人たちがそれをできていないというのは言語道断である。特に私するなどということは、あってはならないことである。要するに身が修まっていない人たちの集団を我々は選出しているということである。もちろん、ちゃんとしておられる方も多くいるとは思うが、そういう人を選挙では、選出することが重要であろう。身が修まっていない集団がやっている政治は推して知るべしである。ここのところを変えなければ、改革、改革といってもその利権にぶら下がろうとする人間を作り出すだけである。こういう人たちが教育改革をやっても自分たちができていないのに根本的なものができるわけがない。これからの時代を本当に良くしていこうとするならば、この「修身」ということをどんな人もそれぞれの立場に立って、とくにリーダーたる人は、理解し、身に付けていかねばならないように思う。心を正しくし、意念を誠実にし、道義的判断をでき、物事の道理をよくわきまえる人作りというのが、これからの社会の発展のためには欠かせない命題であるように思う。

「その厚かる所(べ)き者を薄くして、その薄かる所き者厚きは、未だこれ有らざるなり。」
自分が力を入れるべき根本をよくわかっていないで、末端に至るまでよくできているということはありえないことである。
例えば、前述もしたが、政治家が、人間の根本である身を修めるということに力を入れないで、国がよく治まるということはないといっているのである。あるいは、企業の経営者が人間の根本である身を修めるということに力を入れないで、企業が発展することはないといっているのである。今でこそ、コーポレートガバナンスとかコンプライアンスとか言っているが、その根本を解決するのは、手段やシステムではなく「修身」身を修めるということを実行するということであると言っているのである。身が修まれば、自然、企業も統治され、法規や内規も徹底されるということである。「修身」に努力することで、沈着冷静に判断できる性格が確立され、泰然自若とした人間性が、確立される。そうすれば、今の問題発言をしている大臣などの「軽さ」も解消されるのではなかろうか。当然、我々も「修身」を実行していく必要がある。心や気持ちを理解できない人たちが多い今のような世の中では、「修身」実行のプログラムなども作る必要があるのかもしれない。
「此れを本を知ると謂い、此れを知の至(きわ)まりと謂うなり。」身を修めるということが国を良く治めるということに繋がるということを理解し、実行して行く者が、真に根本をわきまえた者といい、このように根本を知り抜いていることを知識をきわめるというのである。人間の根本を成すのは、この「修身」身を修めるということであるということを我々は、改めて、胆に命じて、実行していく必要があろう。
大型台風が大きな被害を出したあと、すぐに大型地震が来て、更に大きな被害をもたらした。また、併発して、京都沖を震源とする地震が起きた。なかなか、身が修まらない我々に自然が怒りを現しているのかもしれない。

第二章  

一、
「所謂、その意を誠にすとは、自ら欺(あざむ)く母(な)きなり。悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くする、此れを自ら謙(こころよく)すと謂う。故に君子は必ずその独を慎しむなり。」
所謂、前章で述べた「誠意」意念を誠実にするというのは、自分で自分を欺かない、ごまかさないことである。それは、だれでも臭い匂いを嫌うように、悪いことは素直に悪いとして認め対処し、追放し、きれいな色を愛するように善いことは、素直に善いことと認め対処し、自分の内に修めるということである。そのように物事に自然に対応することが、自分自身を満ち足りた心持にさせてくれるものである。そこで、この大学を学び修身の道を求める者は、そのように、一人でいても大勢でいても、誰かが見ている、見ていないに拘わらず、自分自身の内なる意念を慎んで修めるのである。
「自ら欺く母きなり」自分で自分をごまかさないということが、この「誠意」の原点であるといっているのである。自分に都合が悪いことにあたると、人のせいにしたり、誤魔化したりして、自分に都合のいいように立ち回るのは、自分を欺いているということである。私の周りにもこういう人を見かけるが、自分自身の得になることには、敏感に反応するが、責任感が軽薄な人が多いように思える。私自身、こういう人とは、あまり一緒に仕事をしたいとは思わない。自らを欺かない人は、降りかかってくる様々な事態を自分の事とし、それを自分自身で解決していこうとするものである。そういうことを時間の無駄だとか、無理だとかは思わない。ただ、淡々とその一つ一つをこなしていくものである。そこに、人間としての強さが加算されて、堅固な人間性が形成されていくことになる。その姿を横から見ていると「陰日向なく、働いている」という言葉に換言される人物像が浮かびあがるが、これこそが、そのあとにある「慎独」、「君子は必ず其の独を慎むなり」ということを実行している人の姿であろうと考える。
次に「小人閑居(かんきょ)して不善を為し、至らざる所なし。」とある。多くの人が、人目につかない場所にいると、どうせ人に見られていないのだからと思って、普段できない悪いことをやってしまうという傾向が強いのではなかろうか。人の悪口をいったり、人を脅したり、窃盗をしたり、挙句の果てには、後先のことも考えずに殺人を犯してしまう。最近、のニュースで長崎の保険金殺人があったが、このことなどは、この言葉を表すのにふさわしい事件であるように思う。敬虔なクリスチャンであり、地方の名士であった75歳の男性が、自分の子供に1億の保険金をかけて、自分の子供殺したというのである。表では、地方の名士然としてふるまい、近隣の人たちの面倒を見、影では、数人の関係者に息子の殺人を依頼していたようである。その何年か前にもこの人物の妻が事故死して、多額の保険金をもらっているようであるが、このことにも疑いがかけられている。影にまわると、どんなことでもやってしまう典型的な例であろう。まったく次にある「その不善を?いてその善を著す」(悪事をかくして、善いところを見せようとする)という言葉がピタリとくる状況である。この人物に限らず、世の中のリーダーシップをとっていく人は、悪事を隠して、いいところだけを見せようとしてはならないということである。そうでなければ、次にあるように、「然れども、人の己を視ることその肺肝を見るが如く然れば、則ち何ぞ益せん。」(しかし、世間の人々が、そういうことを見通すのは、まるでその人の肺や肝臓を見抜くほどにも鋭いので、そんなことをしても何の役にも立たない)となるのである。だから、すぐ、ばれてしまい、公に明らかにされることになるのである。「赤城農相よ、真実を国民に伝えよ」ということである。君子はそのことをよく理解しているので、そうならないように、常に自分の意念を慎んで修めるのであると続くのである。
「曾子曰く、「十目の視る所、十手の指さす所、それ厳なるかな」と。」
曾子は言った。「いつも、周りの多くの人に見つめられている。いつも、周りの多くの人の手で指さされている。誰もいないと思うことは禁物である。だから、常に畏れ慎しむべきである。」と。
特に世の中のリーダーとしての役割についている人は、常に民衆の目が注がれているということを意識しなければならない公人であるということを忘れてはならないということである。そのことを実行するために必要なことは、自分に財産ができると家屋もその恩恵を受けてよくなるように、自分の中に修身による徳が養成されれば、外面にもそれが現れ、その徳を外に向けて発揮することができるようになるので、常に内面に誠実さを保つということにある。また、内面に誠実さを保てれば「心広ければ、体も胖なり。」、ストレスや心配事から、開放されて、体も健康になるということでもある。自分の意念を誠実にするということは、自分の健康維持のためにも必要なことである。考えてみれば、今、問題視されている人体に悪影響を及ぼす、生鮮食品や加工食品も、自分の意念を誠実にしている人たちが、生産、製造すれば、人体にいいものが作れるであろうし、環境の浄化にも繋がることにもなる。いい環境で、健康な生活をしようと思うならば、健康食品やフィットネスクラブに頼らずに、まず、自分の意念を誠実にするところから、始めるということが、必要なように思えるが、どうであろうか。

二、
詩に云う「彼の淇(き)の澳(くま)を瞻(み)るに?竹猗猗(りょくちくいい)たり。有斐(ゆか)しき君子は、切るが如く、磋(みが)くが如く、琢(う)つが如く磨(す)るが如し。瑟(しつ)たり?(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。有斐しき君子は、終(つい)に愃(わす)るべからず。」と。
詩経には、「あの淇の川の流れの曲がりくぼんだよどみを見れば、そこに緑の竹が美しく繁茂している。その風景のなかにある竹のように美しく、素晴らしい才能豊かな誠意ある君子は、あたかも細工師のように切り込んだうえに鑢をかけ、たたいた上にすり磨くように、念入りに尽きることなく修養をする。慎み深くも雅やかで、はれやかで光輝いている。だから、才能豊かな誠意ある君子は、いつまでも忘れられない。」と詠われている。
ここに、出てくるのが修行をする様を表現する言葉として使われる「切磋琢磨」という四文字熟語である。ここにも述べてあるが、細工にたとえると切と磋は成形、琢と磨は仕上げの工程のことをいうのであろうと考える。つまり、誠意を保つためには、常に切磋琢磨しておかねばならないということを言っているのであろう。そして、常に切磋琢磨していれば、慎み深くも雅やかで、晴れやかに光り輝く人間性ができてくるといっているのである。参院選も終わり、結果、自民党の惨敗で終わったわけであるが、様々な人が、敗因について述べているが、大きな原因は、民意に目を向けているようで、実際には、永田町という「村」での政策判断しかできない政府や政党への批判票であったように思う。結果、民主党が大勝利したわけであるが、それは、時代の流れを読み、民意を主体とした戦略を駆使した結果であったように思う。つまり、時代の流れをちゃんと把握した選挙戦をやれたということであろう。いつも、お話をする川嶋孝周氏は、民主党の小沢代表の指南役として、この選挙に深く関わっていたのであるが、その指導のベースは易経であり、皇極経世書である。今年は、「火地晋」の卦であり、爻が大衆を示しているので、「大衆を主とした戦略を用いれば、物事は晋む」という観点から、指導していたのであろう。話が少しそれてしまったが、民主党は、これからが大変なように思う。つまり、これからは、ここでいう才能豊かな誠意ある君子を何人育て上げることができるかが、政権を奪取し、政治で主導をとっていくためには、重要な課題であるように思うからである。今回の選挙もさることながら、今の政治家は、ほとんどといっていいくらい不遜な態度の人間が多く、ゆかしき君子などというのは、一人とも見ることはできない。誰のお陰で政治家になれたのか、その自覚が何もない。選挙の時だけ、皆さんのお陰であると都合のいいことを言う。そういうことにも、国民は、腹を立てているのであろう。首相は首相らしく、大臣は大臣らしく、なぜできないのか。それは、やはり、国民に向きあって、民意を自分の持てる誠意で受け止め、切磋琢磨しながら政策を実行していくという姿勢を持てていないからであるように思う。慎み深く雅やか、晴れやで光輝いている政治家を多く生み出していける政党や会派に国政の中心を担ってもらいたいものである。
次に、切り込んだ上に鑢をかけるというのは、人の道を学ぶということであり、たたいた上にすり磨くというのは、自らを省みて修養することである。とある。これは、切磋琢磨ということを具体的に表した言葉である。つまり、人の道とはどういうことかということを古の聖人、賢人や古典から学びながら、それを自分に当てはめて、足りないところを補足し、強化する修養を実践するということである。そして、そういう修養を実践して、「瑟たり?たり」とした人間性(慎み深く雅やかな人間性)が確立されるのである。そうなると「赫たり喧たり」(晴れやかで光輝く)の姿が自ずから外に現れてくるようになるのである。つまり、「瑟たり?たり」とは、自ら省みて、畏れかしこむことであるので、「修己」を表現しているのであり、「赫たり喧たり」とは、気高く礼儀正しい様子であるので「治人」を表現しているということになろうか。だから、このように才能豊かな誠意ある君子は、大いなる徳を備え、最高善に達することができるので、いつまでも、時代を越えて、忘れられず語り継がれていくものであるといっているのである。尭、舜、禹、文王、武王、周公旦、孔子、孟子この人たちが、何千年の時代を越えて忘れられず語り継がれているところを見ても其の通りであるように思う。
「詩に云う「於戯(ああ)、前王、忘れられず」と。君子はその賢を賢としてその親を親しみ、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。此を以て世を没(お)うるも忘れられざるなり。」

 
詩経に「ああ、前の世の王(施政者としての君子)たちのことは忘れられない。」と詠われている。それは、施政者としての君子が賢者を賢者として取立て敬い、近親の者は近親の者として親愛し、私欲に走ることなく、けじめをつけていたので、国がよく治まっていたこともあり、一般民衆は、そういう治世の中で自分たちの楽しみを楽しみとして素直に受け入れられ、そういう治世の中で働くことで得る利益を自分たちの利益として、素直に受けられる世の中であったからである。だから、このように才能豊かな誠意ある君子はいつの時代になっても忘れられないのである。という、(この訳文とは少し違うが)表現にしたほうがよいと私は考える。
こういう君子が施政者であるならば、私利私欲に走らないので、安心して税金も払えるであろうし、年金も払えるのではなかろうか。要するにここでいう自分たちの「利を利として」受け入れられるならば、税金や年金など、当然、払うものはしっかり払うという体制が確立されるのではなかろうか。どうも、年金制度や税制を改革するために必要なのは、システムの改善や制度の革新ではなくて、人心を一新させるというところから始めるのがよさそうに思うが、どうだろうか。考えてみれば、明治新政府は素人の集団であったわけであるが、あれだけのことをやってのけたわけである。人材がいない、経験が少ないなどという、これまでの政治がさも立派だったということを前提にしたことを言わないで、思い切って、才能豊かな誠意ある君子たちを政党や会派に関わらず、自選、多選問わず、広く公募して、人選し、登用して、政治にあたらせたらどうであろうか。永田町という村社会の中で2世、3世という、その中だけで通用するような人選をするのはやめにしなければ、何も変わらないような気がしてならない。

三、
「康誥(こうこう)に曰わく、「克(よ)く徳を明らかにす」と。大甲に曰わく、「天の明命を顧(おも)い=iただ)す」と。帝典に曰わく、「克く峻徳を明らかにす」と。皆自ら明らかにするなり。」
書経の康誥編では「周の始祖であられる文王様は、その徳を世の中に輝かされた」といわれている。同じく大甲編では、「殷の始祖であられる湯王様は、天から輝かしい命を降され、それを順受し、正しく実行された」といわれている。同じく帝典編では「尭帝様は、偉大なるその徳を見事に世の中に輝かされた」といわれている。これらはすべて、自らが自らの徳を世の中に輝かせたことを言ったものである。
尭帝は中国の始祖であり、湯王は、中国殷の時代の始祖であり、文王は、中国周の時代の始祖である。これらの人はいずれも聖人とされている。ちなみに一番古い王朝である夏の始祖は禹であるといわれている。もちろん禹も聖人とされている。禹は君主の徳や木、火、土、金、水の五行や農業などを正しく整えることを以て、国家を構築していったといわれてる。このことを前王の舜に話したことは書経のなかに述べてあり、それに答えて舜がいった言葉が「地、平らぎ、天、成る。」であり、これが、わが国の今の元号、平成の語源である。五行は宇宙万物の構成要素を表しており、この基本的な考え方をつくったのも禹だといわれている。このあたりについては、話が長くなりそうなので別の機会に話せればと思う。「地、平らぎ、天、成る。」つまり、平穏な世界を構築するためには(平成の時代を構築するためには)、明徳をもったリーダーが必要であり、天地自然の理に適った行動や情操が必要であり、産業の育成をすることが必要であるということである。ここで強く言っているのは、トップリーダーたるものは、自ら進んでその明徳を世の中のために輝かせなければならない。本当にそれが実行できれば、皆にとって快適な世の中が構築されるということである。
「湯の盤の銘に曰わく、「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」と。康誥に曰わく、「新たなる民を作(おこ)せ」と。詩に曰わく、「周は旧邦なりと雖も、その命は維(こ)れ新たなり」と。是の故に君子はその極を用いざる所なし。」
湯王の水盤の銘文には「まことに日に新しくなって、毎日毎日、新しくなって、更に日を重ねるごとに新しくなれ」とある。書経の康誥編では「常に活気のある新しい民衆を育てよ」といわれている。詩経の大雅・文王編では「周は昔からの国ではあるが、王朝として天命が降されたのは、まだ、新しい」とうたわれている。そういうことであるので君子は、私的でも、公的でもどのような場合も常に新しくなることを求めて最高善に沿って行動するのである。と述べてある。
「日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」というのは、人間、毎日毎日、一瞬一瞬が大切であるので、気を抜かずに毎時、毎日、心身を磨き、新たな気持ちで物事に対応していかねばならないという意味である。惰性は禁物であるということである。今の安倍内閣は、人心一新を以て組閣したわけであるが、みっともない大臣の失言、放言の収拾もできずに、参院選を経て、また、ここで、人心一新をしなければならなくなった。これまでの組閣の考え方を一新して、「日に新たに」なれる人材を登用していただきたいものだと思う。それができなければ、この内閣は短命で終わり、世間でいわれているように、民主党を中心とする野党に解散総選挙を迫られ、衆院選では、大敗北するように思えてならない。安倍首相が「民意は天意である」ということを真摯に受け止めることができなければ、敗北は見えているように思う。また、「周は旧邦なりと雖も、その命は維れ新たなり」の維新は、明治維新の「維新」である。ただ、革新して新たな国体ができるという意味ではなくて、歴史ある国家の中で、新政を実行するために、それを実行する朝廷に天命が降ったという意味である。平成にしても、維新にしてもわが国の歴史にかかわりの深い言葉は、このように、四書五経からの出典が多い。
「詩に云う、「邦畿(ほうき)千里、維れ民の止まる所」と。詩に云う、「緡蛮(めんばん)たる黄鳥は丘隅に止まる」と。子曰く、「止まるに於てはその止まる所を知る。人を以てして鳥に如かざるべけんや」と。」
詩経に書いてあるように、「国の四方千里、これがそこに住まう民衆の止まるべき所である。」と。また、「愛らしい鶯は丘の隅に止まる」ともうたわれている。孔子は「鶯でさえ止まるについては、一定の止まるべき所をわきまえている。人でありながら鳥にも及ばないということでいいのであろうか。」と言われた。と述べている。
最近は、この止まるべきところを知らない人が多いようである。つまり、「分をわきまえる」ということである。自分の置かれた立場で、何をなすべきかということをわからない人が多いように思える。北海道の名産品「白い恋人」が、賞味期限切れの商品を販売していたことを告発され、全商品撤去、操業停止ということになった。社長の話を聞けば、10年も前から、同様のことをやっていたらしい。お菓子の製造業者たるもの、人の口に入るものをごまかしてはいけないというのは、お菓子の製造業者としての分である。売れ残りを製造年月日を改ざんして、店頭に並べるなどは、日頃の社長の消費者を見ない、高慢さがすけて見えるようである。どんなに社会的にえらくなろうとも、お金持ちになろうとも、増長せずに、お菓子の製造業者としての本分を忘れてはならない。同様のことが、他でも色々と行われていることは、周知の通りである。そして、いずれも自らはもちろんのこと、社会に大きな損出をもたらす結果になっている。次に文王について書いてあるが、文王は自分の本分をわきまえていた人であったらしい。人の上に立つ君主としては仁愛の徳を以て民衆を教導し、人の臣下としては、敬慎の徳を以てそれに従い、人の子としては孝行の徳を以て両親に使え、人の父としては慈愛の徳を以て子供たちに接し、民衆との交際では信義の徳を以てコミュニケーションをはかり、それを基準として行動していたというのである。もちろん、こういうことは、意念が誠実でなければできないことでもある。なかなか、ここまでの人物はいなさそうであるが、リーダーとしての本分、部下としての本分、子としての本分、父親、母親としての本分、友人や仲間と交わる時の本分、この機会にもう一度見直してみる必要もあるのではなかろうか。

四、
「子曰く、「訟を聞くは吾れも猶お人のごときなり。必ずや訟なからしめんか」と。情(誠)なき者にはその辞(ことば)を尽くすを得ざらしめ、大いに民の志(こころ)を畏れしむ。此れを本を知ると謂うなり。」
孔子は「訟事を聞いたり、それを裁いたりすることについては、自分も他の人と変わることはない。ただ、違うところは、訟事を無くさせることだ。」といわれた。誠実でない者には、虚偽の申し立てなどで巧妙に論陣を張っても無駄だと悟らせて、軽々に訟を起こさせないように、誠実に何事も取り組むように、民衆の心を強く引き締めるよう教導していくのである。このように、意念を誠実にすることに努めるのを根本をわきまえた者というのである。と述べてある。
この第二章は、「誠意」について述べてあるが、この「大学」の中には「致知・格物」についての項目はない。朱子が書いた「大学章句」の中には、「致知・格物」について述べてあるところがあるので(103P・伝 第五章補伝)一度読んでおくといいと思う。「致知・格物」については、朱子以後も様々な儒者の見解が出てくるが、私は、朱子の「物に格(いた)りて、知に致る」という見解よりも、王陽明の「物を格(ただ)して、知に致る」という見解のほうが、ピタリとくると思っている。物の理というものは、その物を見て、知恵や知識をあるだけ使い、議論しあっても、なかなか、究明できないものである。むしろ、その物と一緒になって、その物の身になって考察していくとよくその物の本質が理解できるようになるものである。机上の空論ではなく、行動してみるということが如何に大切であるかと言うことである。
第三章  

「所謂、身を脩むはその心を正すに在りとは、身に忿?(ふんち)するところ有るときは、則ちその正を得ず、恐懼(きょうく)するところ有るときは、則ちその正を得ず、好楽するところ有るときは、則ちその正を得ず、憂患するところ有るときは、則ちその正を得ず。」
前述のように、わが身をよく修めるには、その心を正すことだという意味は、例えば、自分自身で腹が立ち、怒り心頭の状態のときは、自分自身の正常さを保つことは出来ず、恐れおののく状態のときは、自分自身の正常さを保つことは出来ず、好きなことを楽しんでいるときは、自分自身の正常さを保つことは出来ず、心配事や悲しいことがあると自分自身の正常さを保つことは出来ないように、心が動揺すれば自分自身を修めることができないということである。というようなことを述べてある。
確かに人間誰しもが、怒りや恐れや楽しみや悲しみがあるときは、そのことに埋没してしまい、平常心が保てなくなり、周りの状況に関係なく、自分の思うがままに振舞うものである。最近は、この人間の動物的な感情を抑えきれないままに、色々なことを当たりかまわず強行してしまう事件が多い。先日の何のゆかりもない女性を拉致して、乱暴し、車内で素性がばれるとまずいということで、鎚で殴り、首を絞め、殺して、その死体を山中に遺棄した事件があったが、これなどは、その代表的な例といえるのではなかろうか。更に、これの共犯者である3人は、ネット上のある闇サイトで知り合ったばかりの全くの素人であるということである。このように、ある意味、人間の動物化というか、サル化というか、そういう現象がいたるところで見られるようになってきている。そして、動物化、サル化した人間が、行き着くところは、戦争ということになる。これまでの歴史の中でも、文明の究極にくると、必ず、戦争が起こっている。あるいは、現在は、ある意味、文明の極地にあるのかもしれない。世界が非常に危険な状況にあるということを様々な情報や情勢が教えてくれているのに、サル化した我々人間が、平常心を忘れ、気付いていないのかもしれない。それどころか、それに乗じて自分の欲を果たそうと、躍起になって、そういう状況に追い込もうとしているのかもしれない。こういうときこそ、心を正す、心を正常にするということが大切であるように思える。心を正常にするためには、変化する世の中を冷静に捉える姿勢とその変化に逆らわずに中正を守って、自分自身も変化していくということが大切であるように思える。中正を守って自分を変化させるために必要なことは、安定を求めるのではなく、世の中が変化していくのは当たり前のことであるので、不安定が当たり前だという視点から物事に対応していくということになろうか。ダーウインも「生き残る生物は、強いものでもなく、賢いものでもなく、変化し続けることの出来るものである。」というようなことを述べているようであるが、確かにそうであるように思う。
「心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、此れを、身を脩むるはその心を正すに在り、と謂う。」
 
心が他のこと(感情など)に捉われて、しっかり正常に定まっていないと、どんなものを見ても明確に見えず、どんな言葉や音を聴いてもはっきり聞こえず、どんなにおいしいものを食べてもその味がわからない。これでは、自分自身を修めることができようはずもない。自分自身を修めるためには、先ず自分の心を正すことだというのは、そういうことに、捉われずに物事に対処していくことである。というようなことを述べている。
確かに、他のことに捉われていると、そちらのほうに気がいってしまい、やらなければならない仕事があるのになかなか進まなかったり、行かなければならない所があるのに忘れてしまったり、友人や仕事の関係者と話をしていても上の空でほとんど話を聞いていなかったり、というようなことが多いものである。心を正すには、物事に捉われないことが必要であるということであるが、物事に捉われないようにするためにはどうすれば良いのであろうか。人間、物事に捉われてしまうと前述のように心が分散してしまって、自分の持っている本当の能力というものを発揮できなくなってくるものである。そこで必要なのは、心構え、心のスタンスである。先ず、変化する世の中に在って、今、自分がやるべきことに常に主軸をおいて、それに対応するスタンスを決めて、物事に取り組むということが重要であるということである。そして、世の中は変化するものであるという前提に立って、自分のやるべきことに対して、より深く精査して、より精度のたかいものを作り上げていくための継続力と集中力を付けるということも必要である。その結果、どんな変化にも対応できる包容力も培うことができるようになる。そうすれば、自然、人間力も養成されるので、他でどんなことが起きようとも、どんな誘惑があろうとも、心を揺らさずに臨機応変に物事に対応することができるようになるのではなかろうか。
物事に捉われるということにこういう逸話がある。「あるとき、百足が多くの足をうまく使いながら、歩いていた。それを見ていた人が、「百足さん、百足さん、あなたは、どうして、そんな多くの足を使って、そんなにうまく歩くことが出来るのか。」と問われて、今まで考えてもいない質問をされた。そのことに捉われて百足はふと考え込んでしまった。そして、考え込んでしまった百足は、そこで歩みを止めた。歩みを止めた百足は、いままで、どうして歩いていたかを忘れてしまい、歩けなくなった。歩けなくなった百足は死んでしまった。」今までの慣習の中で、何も考えることなく歩いていた百足が思ってもいなかった質問に答えることが出来なくて、今まで、どうやって歩いていたのかさえも忘れてしまって、結局は死んでしまった。質問した人が、社会的変化だとするならば、それに捉われて、答えることの出来なかった百足は、その変化に対応することが出来なくて、結局は死なざるを得なかったというようなことになろうか。物事に捉われるとそこで心が停滞してしまい、先に進まなくなるのである。そして、心が停滞してしまうと、心が正常に機能しなくなり、人間の進化も進展もそこで停滞してしまうということになるわけである。心を正すということは、世の中の変化に常に対応できる心をつくるということでもある。

第四章  

「所謂その家を斉(ととの)うるはその身を修むるに在りとは、人はその親愛する所に之(お)いて譬(かたよ)り、その賤悪する所に之いて譬り、その畏敬する所に之いて譬り、その哀矜する所に之いて譬り、その敖惰する所に之いて譬る。故に好みてもその悪を知り、悪(にく)みてもその美を知る者は、天下に鮮(すくな)し。」
前のところで述べた「その家を和合させるため要因は、わが身を修めるというところにある」ということについては、次の通りである。人はその親しみ愛するものに没頭して偏った行動をし、自分の賤しみ、憎しむものに捉われて偏った行動をし、自分の恐れ敬うものにひかれて偏った行動をし、自分が哀れむものに溺れて偏った行動をし、自分の見下すものに捉われて偏った行動をするものである。自分の好きな人や物であってもその短所を知り、自分の嫌いな人や物であってもその長所を理解するという公正な判断ができる人は、世の中には少ないものである。と、述べている。
確かに、なかなか、好きなものにも、嫌いなものにも公正に判断できるという人は、いないものである。この世の中で本当に適材適所、公正な判断ができていれば、何の心配もなく生きていけるはずである。しかし、現実は、常に問題が起こらないということはない。ということは、人間の世の中は、公正さを大切にするが、実際は、公正に世の中を支配するということは難しいということでもあろう。つまり、絶対的に公正とはいえない世の中に、なるべく公正さを取り戻そうという努力を我々はし続けているということになろうか。例えば、会社の人事などに私も携わったことがあるが、いくら公正だと思える人事考査をしても、結局最終的には、それを判断する人間が、周りにいる担当者や上司、近しい人に意見を聞き決定をせざる得ないというところに落ち着くというようなこと多いからである。後になって、こうやっておけばよかったなど後悔することは、しょっちゅうである。今の内閣改造で思うのであるが、公正な判断に基いて実行するというようなことは、はじめから出来ないことである。もともとが、公正でない政治の世界の中にあって、公正さを求めるなどというのはできないということは、誰でもわかっていることであり、茶番である。それよりもそんな茶番に関わることなしに民意を反映できる政策をすぐにでも実行に移すべきではなかろうか。
また、わかっていても、それに頼らざる得ないということが多いのが今の世の中である。そのことについては、先日、日経新聞に「経済学には、不信感を抱いているが、不信感を持ちながらも経済学に頼っている」という、御茶ノ水女子大の哲学の教授のコメントがのっていた。その代表例として「経済学者は、強力な根拠を挙げ、よどみなく理路整然と説明するため、それ以外考えられないと思ってしまう。その予測がはずれたときの説明は、更に説得力に富んでいるため、やはりこの経済学者は正しいと考えてしまう。」と述べている。これと同じようなことが政治の世界や実業の世界にも多いのが現実である。つまり、論理さえ合わせれば、自分の言ったことに責任を負わなくてもいいという風潮である。こういうことをやっていると犯罪者が自己弁護をして、刑を軽減しようと自分の意見を主張したり、逆に罪も無いのに論理的説明ができないことで罪を受けたりというような現象が当たり前のようになってくるものである。世の中全般、そういうことであるとするならば、やはり、自分で公正さとか信頼度の尺度を持たなければならないということになろうか。そしてそれには、自分の尺度で実行したことなら、大恥をかいても大損しても自分のこととして処理していくという態度も必要であろう。もちろん、色々な体験の中で自分の尺度を改善していくということも必要になるように思える。おそらくここで言う「好みてもその悪を知り、悪みてもその美を知る者」になるためには、そういう努力の積み重ねと機に敏感になるということが大切であるように思う。商売には商機、政治には政機が必要なように、機に応じることの出来るものが、果てしなく成長していくように思うし、現実そうである。
 
この前文にも書いているように人間は、その感情や周りの環境によって、どうしても偏った行動をしてしまうものである。だから、世の中の将来の動向を予測することとか、公正さを保つとかは、そこに様々な人間や事象が介在するが故に難しく、常に我々の大きな課題なのであろう。その解決のためには、前述のように、機に敏感になり、機に応じられる自分を創るということが必要であるように思う。「易」は、この機を我々に教示してくれる、ひとつの大きな手段である。
「故に諺(ことわざ)にこれ有り、曰わく「人はその子の悪(みにく)きを知るなく、その苗の碩(おお)いなるを知るなし」と。此れを、身脩まらざればその家を斉うべからず、と謂う。」
そこで、諺にもそういう意味のことがあって、「人は自分の子供を愛するが故に、その欠点に気付かず、他家のことをうらやんで自分の家の苗の大きいことに気付かない」といわれている。こういうことが一身が修まらなければ、その家を和合することはできないという意味である。だから、その家を和合させるためには、まず、わが身をよく修めることだといわれるのである。と述べてある。
人間、確かに自分の身近にあるものについては、思い込みが強かったり、既成概念に捉われやすかったりして、判断を誤ることが多くあるものである。今、土曜の夜に「受験の神様」というテレビ番組があるが、子供たちが精神的に成長していく過程の中で学力もついてくるというところが面白い。親たちは、自分の子供は、自分がこれくらいだから、こんなものだろうと考えて、進学や進路を子供の意思とは関係なしに判断してしまう。しかし、自分の行きたい学校や進路に目覚めた子供たちが、自分から進んで、「受験の神様」といわれる中学生に家庭教師を依頼して、それぞれの志望校合格に向け、勉強に励むというストーリーである。その中に貫かれている主意は「自分で判断する」ということの重要さのように思う。ここでいう「その子の悪きを知るなく、その苗の碩いなるを知るなし」の親のいうことばかり聞いていると、自分の本当に目ざしたい進学や進路は得ることが出来ないぞというようなことを表現しているのではなかろうか。そして、その解決は、将に自分自身に起因することであるので自分自身で実行するしかなく、それを教導していく者の使命は、その解決策へ、より確立性の高い道標を示してあげることである。というようなことをいっているようにも思える。つまり、主体性ある自己の確立こそが、人間にとって、一番重要な課題であるということを言っているのである。そして、主体性ある自己の確立とは、ここでいう「修身」(身を修める)ということである。このストーリーでは、教導する「受験の神様」の中学生は、道標として、それぞれの子供に過去数年間のそれぞれの受験校の入試問題を示し、与えるのであるが、その時に「それぞれの学校には、それぞれの特徴があり、学校が生徒を選ぶのであり、入試問題にも必ず傾向が現れる。これを何回も理解し、憶えるまでやりなさい。」というのである。将に恐るべき中学生であるが、確かに、特に私立学校については、こういうことが言えるのではないかと思う。私の友人で、学力もそんな良い方ではなかった人物が、東京の有名私立大学に合格したときに聞いた話であるが、彼は、高校2年に志望校を決め、高校3年になってからは、他の勉強より優先して、その志望校の過去5年の入試問題を徹底的に勉強したというのである。自分の進路を明確にして、その道標に沿って努力をしていった結果、合格したのである。話が少しずれてしまったが、確かに主体性を持って、自分の進路を判断することができるなら、それに向かって、自分も責任を持って進めるし、家族や周りにいる人たちも協力を惜しまないように思える。現在は、自分でなかなか判断できない人が多いので、家族の不和から離別が起こり、挙句の果てには、殺人事件が起きたり、ニートと呼ばれる層をつくりだしたり、しているのではなかろうか。「その家を斉うるは、その身を修むるにあり」とは、そうならないための指針でもある。

第五章  

一、
「所謂、国を治むるには必ず先ずその家を斉うとは、その家に教うべからずして能(よ)く人を教うる者は、これ無し。故に君子は家を出でずして教えを国に成す。孝とは君に事うる所以なり。弟とは長に事うる所以なり。慈とは衆を使う所以なり。」
前述の国を治めるには、必ず先ずその家を和合させることであるというのは、よく自分の身を修めて、その家族を教化することも出来ないでおいて、国民に対して、立派に教化、教導することができるかというと、真にそういうことはあり得ないからである。そこで、君子ともなると、家族の教化ができているので、そのまま自分の家からでなくても、国中を立派に教化し、その影響を及ぼすことができるのである。つまり、親への孝行はそのまま主君に仕える道となり、兄への従順はそのまま先輩、上司に仕える道となり、子供に対する慈愛はそのまま民衆を使役、教導するときの道となるからである。というような意味である。
「家庭生活を安定させ、家族を立派に教導できなくて、社会に出て、立派にリーダーシップをとっていくことなどということはできない。」という、なんとも我々にとっては、耳の痛いことが述べられているわけである。しかし、よく考えてみると、家庭教育の崩壊が、最近、多くの家庭内での殺伐とした事件を起こしている原因になっているように思える。そして、更に、それが家庭内だけに収まらず、外へも悪い影響を与えることになっているようにも思える。そういうことから考えると、教育の根本は家庭教育なのかもしれない。教育改革の最初に問題点として出すべきは、制度改革より、家庭教育を、躾をどうするかということであるのではなかろうか。また、近年、確かに、家庭をちゃんとできないものが、リーダーシップをとっているケースが多いので、ちゃんとした社会的規範を教えることができないので、色々と世の中に混乱を及ぼすことになることが多いのかもしれない。そして、この人たちに一般的に言えるのは、ちゃんと家族を、人を、教化、教導したことがないので、対人関係で「間を取る」ことができない人が多いということである。特に最近の政治家や新興企業の経営者には、こういう人が多いように思える。先般、辞任した安倍総理などは、家庭がどうであるかは知らないが、「間を取る」ということが下手な代表例ではなかろうか。「間を取る」ことの下手な人は、対話をうまくできない、自分の主張を前面に押し出すという傾向が強い。そして、順調なときはいいが、悪い状況になったときは、機を逸することが多いように思う。安倍総理は、後半は常に機を逸していたように思う。そういう意味では、次期首相は、家庭生活が円満で、「間を取る」事がうまく、物事を臨機応変に対処していける人が望ましい。
話をもとに戻そう。次に「赤子を保んずるが如し」とある。民衆を治めるには、赤ん坊を慈愛をもって育てるようにすることである。という意味である。そして、そのように慈愛の心を持って、真摯に民衆に求めたならば、民衆の心に的中するとはいかないまでも大枠、いかなることも理解してもらえるであろうといっているのである。今、政界では、盛んに民意ということを言っているが、民意というのは、永田町の中にいたのではわからないということである。民衆に慈愛の心を持って、接さなければわからないということでもある。それでも100%ではないのである。このことを今の政治家の多くは忘れている。今回の総裁選にしてもそうであるが、また、永田町の論理で選出しようとしている。小泉チルドレンに至っては、自分の政治家としての職業の安定性を求めて、「小泉擁立」を図ったり、「福田擁立」に傾いたり、右往左往している姿が鼻に付く。この人たちは本当に国を思い、この国を命を賭して、いい方向へ導こうと思っているのであろうか。民衆に慈愛の心持って真摯に対応していこうと思っているのであろうか。ここにも述べてあるように、本当に民意を求め、それを政策に生かそうと思うならば、赤ん坊の育て方を学んでから、嫁に行くというような人がいないように、民衆を治めるという特別なノウハウは無いのであるから、慈愛の心を以て、民衆と接するということから始めなければならないのではなかろうか。
「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻(たんれい)なれば一国乱を作す。その機此(か)くの如し。此れを一言事を?(やぶ)り、一人国を定む、と謂う。」
一家に仁愛の徳が発揮されていれば、国中がその仁愛の徳を実践しようとして奮い立ち、一家に謙譲の徳が発揮されていれば、国中がその謙譲の徳を実践しようとして奮い立つ。だが、君主一人が不仁、不譲ででたらめであれば、国中が乱を起こすことに成る。国が治まる、乱れるの転機はこのようなところにある。君主の一言が大事を覆し、君主の一人の働きが国を安定に導くというのはこのようなことである。というような意味である。
つまり、不仁、不譲な人物を最高責任者にしてはならないということである。そして、そういう人をその地位に付けたならば、その組織や企業、あるいは国が大変混乱するということでもある。このことについては今まで何回も述べてきたと思う。
「尭・舜は天下を率いるに仁を以てして、民これに従い、桀・紂は天下を率いるに暴を以てして、民これに従えり。その令する所その好む所に反するときは、而(すなわ)ち民従わず。」
尭や舜は天下を統率するのに、自分に備わった仁愛の徳を発揮させたので、民衆はそれに従って、仁愛の徳を実践した。桀や紂は、天下を統率するのに暴力を以て強引な政治をしたので、民衆はそれに従って、暴力的で強引に物事を遂行した。しかし、君主の命令が、君主の本心から出たものでなければ、民衆は従わない。という意味である。
つまり、自分の意念と行動が一緒でなければ、結局誰もついてこないということである。本音と建前を分けて、使っていると、そんなものは、いつかは見破られるということでもある。企業を経営するにも、組織を運営するにも、もちろん、国家を運営するにも、実は、このことは非常に大切なことである。それでは、民衆を従わせるために自分の意念と行動を一緒にし、それを世の中に発揮するためには、どうすればよいのであろうか。その要点については、次に述べてある。
「是故に君子は諸(こ)れを己れに有らしめて而(しか)る后(のち)に諸れを人に求め、諸れを己れに無からしめて而る后に諸れを人に非(そし)る。」
つまり、自分に徳を積んでから、人にもその徳を求め、自分の不徳を無くしてから、人の不徳を非難する。自分でなにもしないで、自分のことは棚にあげて、人の不徳を非難するようなことはしてはいけないということであり、自分に優しく、人に厳しい人には、結局は誰もついてこないということである。
最近、仕事上で、体験したことであるが、このような人は、経営者には向いていないと感じる。そして、こういう人は、次に述べてあるように、相手を思いやるということをしないで、ただただ、一方的に相手を責めて、自分で勝手に相手を納得させたと思うものである。「自分に厳しく、人に優しく。時には、自分に厳しく、人にも厳しく。」こういう生き方が、いいリーダーの条件なのかもしれない。

 
二、
詩に云う、「桃の夭夭(ようよう)たる、その葉蓁蓁(しんしん)たり、この子于(ここ)に帰(とつ)ぐ、その家人に宜し」と。その家人に宜しくして、而る后に国人を教うべきなり。詩に云う、「兄に宜しく弟に宜し」と。兄に宜しく弟に宜しくして、而る后に国人を教うべきなり。」
詩経には「わかわかしく元気に育った桃の木、その葉は青々と茂っている。そのように見事に育った、この娘が嫁ぐことになった。嫁ぎ先の家族ともうまくいくであろう」とうたわれている。嫁ぎ先の家族とうまくいってこそ、はじめて国中の人々を教化することもできるものである。また、詩経には「兄たちと仲良く、弟たちとも仲良く」ともうたわれている。兄たちと仲良く、弟たちと仲良くして、家族が和合してこそ、はじめて国中の人々を教化することができるものである。」と述べてある。
地面に根をはり、太陽を向いてすくすくと育っている桃の木を想像してみると、それは、青々として、大元気に満ち溢れているように見えることが想像される。また、木がすくすくと育つためには、きちんと地中に根がはっていなければならない。つまり、人間としての根本的な道義、道徳がちゃんとできていなければ、人間にとって一番大切な徳性が育たないのと一緒である。徳性が育っている人間は、外からみても、他の人とは違うオーラみたいなものを放っているものである。青々として、大元気に満ち溢れている木と同じようなものである。なかには、中身とは違い、外見上は、そのように見える人もいるが、そういう人は、本当の徳性が磨かれていないので、早晩、ボロが現れるものである。ここで述べているのは、本当に小さい頃から、徳性を育て上げてきた娘であるので、他家に嫁いでも、その徳性を以て、嫁ぎ先の家族にもいい影響を与えるだろうし、いい家庭環境を築けるだろう。というようなことである。つまり、他家にいっても、そこの家族を教化できることが、そのまま、国中の人々を教化できることに繋がるといっているのである。また、その後に兄弟、睦まじく、仲良く暮らしていくことができるならば、家族が和合し、円満になるので、そのことを手本として、国中の人々を教化していけば、国がよく治まるということに繋がるということも述べているのである。
さて、近年のこの兄弟関係についてであるが、ちゃんとしているところもあると思うが、多くが劣悪な関係になっているところが多いように感じる。特に、変に親が財産や事業など継承することのできるものをもっている家族については、仲良くやっているところを見つけるのが難しいくらいである。わたしの友人のひとりが「兄弟は他人の始まり」などということをいっていたが、そういう傾向が強いように思える。この会に来ていただいている方々には、そういうことは関係無いかもしれないが、本当に私のまわりにも多い。というより、仕事柄、そういうことに直面することが多い。その時にいつも思うのが、この兄弟がもっと仲良く、それぞれの立場を思いやって、一緒になって、目標に向かってやっていけば、こんな状況には陥らないのになあということである。ここに書いてあるように、兄弟仲が悪い家庭は、家族仲が悪くなり、周りの人々を巻き込んで、少なからず悪い影響を与えるものである。それが激化すると相続問題がこじれたり、事業をやっているのであれば、その事業にも大きな悪影響を及ぼすものである。そして、終局は、財産を食いつぶすか、事業を駄目にするということに繋がることが多い。実は、兄弟仲の良し、悪しは、このように大変、大切なことなのである。もし、兄弟仲の悪い人がいれば、すぐにでも非は非として相互に認め、是正するのが運気を開く一歩でもあるように思う。
「詩に云う、「その儀?(たが)わず、是の四国を正す」と。その父子兄弟たること法(のっと)るに足りて、而る后に民これに法る。此れを、国を治むるはその家を斉うるに在り、と謂うなり。」
詩経には「君子の立てる規範には道理、道徳を違えるようなことは無く、それを以て、四方の国々を正しく導いている」とうたわれている。父としても、子としても、兄としても、弟としても、その家庭でのそれぞれのあり方が、道理、道徳に法って、十分に模範にできるものであってこそ、はじめて民衆もそれにならうのである。国を治めるには、先ず、その家を和合することだというのは、こういうことである。」と述べてある。
君子といわれる、立派な人格者の立てる規範や基準が、道理道徳に違えることなく、そして、その規範や基準を以て、それぞれの国を正しく治めるように、父、子、兄、弟としてのそれぞれの道理道徳に沿った規範や基準に法って生活をしていくことが、その家庭を和合させることに繋がる。というような意味である。家庭生活を楽しく、円満にやっていく秘訣は、父としての役割、子としての役割、兄としての役割、弟としての役割を発揮させる、つまり、親として子供に慈愛の心を以て接する、子供として親に孝行を尽くす、兄として弟を親切に教導する、弟として兄に尊敬の意を表するということである。こういうことができて初めて国を治めることができるということになる。
今、世の中を揺るがしている、大きな問題に年金問題があるが、これなどは、政府という家族が道理道徳に反するようなことをやってきたから、それに使えている官吏(公務員)の人たちが、こういう問題を起こすということも言えるのではなかろうか。舛添厚生大臣は、問題を起こした社会保険庁の職員たちに対して、極悪人のように言っているが、自分たち行政の、政府の責任については、あまり語らない。自分は最近、厚生大臣になったのだから、これまでのことは、これまでの人たちの責任であるかのような態度である。テレビを見ていると、何か、人の不幸にかこつけて、パフォーマンスをし、自分の軽い正義感を押し付けているように思える。厚生大臣の仕事は、今日何軒の不正が見つかりましたなどと、不正を暴くことではなく、(そういうことは、そういう部門に任して)いち早く、どうすれば、この年金問題を解決できるのかということを考え、回りを巻き込み、計画し、実行することである。そして、それ以前に、こうなったことは、我々、行政にも、政府にも責任があるということを真摯に受け止めて、皆が、国民の前に謝罪すべきである。こういうことから、再出発しなければ、本当に年金制度は崩壊してしまうことになるであろう。また、年金制度の崩壊は何年も前からいわれてきていたのであるが、なかなか前に進まなかったのは、国民の大切な金を預かっているという意識の低さからきたものであるように思う。
自分の身の回りの得失には敏感で、国民の得失には、あまり興味をもたない、自分の使命感や規範を持たない政治家を多く輩出してしまった我々にも当然、責任はある。だから、我々国民も、ここで挙って国をよく治めるために必要な家族の和合ということについて、もう一度真剣に考え直す必要があろう。
第六章  
 
一、
「所謂天下を平らかにするはその国を治むるに在りとは、上(かみ)老を老として而(すなわ)ち民孝に興り、上長を長として而ち民弟に興り、上弧を恤(あわれ)みて而ち民倍(そむ)かず。是を以て君子には給驕iけっく)の道あるなり。」
前述した、「世界平和を実現するためには、先ず、その国をよく治めることである。」というのは、その国の上に立つ君主が、その国にいる老人を老人として大切に処遇していると天下の万民もまた親孝行をしようとして奮い立ち、君主がその国の年長者を年長者として敬っていると天下の万民も年長者を敬おうとして奮い立ち、君主がその国の親のいない子を哀れんで助けていると、天下の万民もお互いに助け合おうとして、その国を離れようとはしなくなるからである。そのために、君子は、「給驍フ道」つまり、一定の身近にある基準を以て、広い世界を推し量る方法を持っているのである。ということを述べている。
確かに世界平和を実現するためには、それぞれの国が、自国をしっかりと統治しているかということが重要であるということはよくわかる。現在は、そうでないから、世界平和が実現できないのであろう。それについては、グローバル社会とか情報化社会とかでの、ボーダレスな情報の氾濫が大きな要因のひとつであるように思える。ボーダレスな情報は、その国やそこに住む人民のしっかりしたナショナリテイやそれに伴うパーソナリテイが形成されていればいいのであるが、そうでなければ、取捨選択を誤ってしまい個人の都合の良い情報だけを取り込んでしまう傾向が強くなる。そしてそれは、個人の私欲が大きく絡むので、必ず結果的には、まわりに迷惑や損害を与えることになる。また、そのような、私欲の部分を強く動議付けして、色々な商品をつくり、それを販売する業者が蔓延してくることにも繋がる。(円天の事件などは、その最たるものである。)要するに、よく確かめもしないで、情報に流されるという傾向が強くなるのである。このところ問題になっているサブプライムローンの問題は、一見、世界は一つという金融のグローバル化が発端となり、前述のような傾向の中で起きた問題であるということは確かである。先ず、家を持ちたいという米国の低所得者層(通常では、住宅融資のつかない層)の人々に対して、金利は少し高いけど、住宅の購入なら融資するという金融商品をつくる。その商品の仕組みは、当初は返済額は低いが後で高くなるというものである。更に、将来、地価は上昇するので、結果、返済できなくても売却すれば、返済も出来るし、少し手元にも資金が残るというようなことをセールストークとして使う。まるで十数年前の日本のバブルの時を彷彿させるような考えである。そして、この商品、利回りがいいので、他の金融商品と合わせて、投資ファンドが証券化して、それを世界の高利回りを望む投資家たちやそういう投資家を抱える金融機関に販売する。格付け会社も他のしっかりした金融商品と合わさっているので、よく確かめもせず高格付けをする。そうすると、投資家たちは、それを信用し、投資に拍車をかける。そのローンは、最初のうちは、返済もされるが、返済額が多くなるにつれて、返済が遅れたり、焦げ付きが出てくる。今年の上期には、3ヶ月以上の滞納が13.8%になっていたようであるが、米国のエコノミストや専門家は、楽観的な姿勢でいたらしい。そして、ことの起こりは、米国ではなく、フランス最大の金融機関BNPパリバの配下のファンドの凍結、廃止からであった。そして、それがドイツ、イギリスとヨーロッパ各国に伝播し、ドイツ銀行も大きな痛手を受け、イギリスの中堅銀行のノーザンロック銀行などでは、取り付け騒ぎになり、国有銀行が救済に乗り出すなどの騒動にも繋がった。もちろん、すぐにECB(欧州中央銀行)やFRB(米国連邦準備理事会)なども介入して約40兆円を越える資金を投入しているが、まだ、市場の不安感は解消されていない。わが国も例外はなく、他国に比べると被害は少ないとはいえ、日銀も1兆数千億の資金を投入している。このことは、個人の私欲の積み重ねが、こういう結果をもたらしたものであるということは、よく理解できるであろう。そして、一番の被害者は、国でも、銀行でもなく、家を持ちたいという、小さな夢を持って、このローンを利用した人々そのものである。結局、金持ちたちのマネーゲームのおもちゃにされたと言っても過言ではあるまい。そして、この損失は、リストラクチャリングによる一般雇用の減少ということにも、直接繋がる要因でもある。もちろん、米国は、救済のために金利を下げるなど、支援を打ち出しているが、どこまで、フォローできるかは疑問である。このように、グローバル化、情報化というと一見、表面、素晴らしいことのように思えるが、それぞれの国が、本当にしっかり様々な事象で統治されていないと大変なことになる。また、真実が明確に情報開示されないと他国にも迷惑をかけることになる。そういうことが原因で紛争になるということが多いのも事実である。もっといえば、自国がちゃんと統治されていないのに、他国に干渉するなどということは言語道断であるということである。私利私欲を度外視した賢者たちがそれぞれの国をよく統治し、その賢者たちが集まって、世界の安定のために行動を共にしたときに初めて世界平和(天下を平らかにすること)が実現するのであるように感じる。
話をもとに戻そう。それでは、国をよく統治するためには、どんなことが必要かというと、その国のトップリーダーが規範となって、身近な問題を道義的に解決し、その行いをもって、民衆を教導していくことであるとここでは述べているのである。次にそのために、君子は「給驍フ道」一定の身近な基準を以て、広い世界を推し量るノウハウを持っているということが述べられているのである。
「上に悪(にく)むところ、以て下を使うこと母(な)く、下に悪むところ、以て上に事つか」うること母かれ。前に悪むところ、以て後(しりえ)に先だつこと母く、後に悪むところ、以て前に従うこと母かれ。右に悪むところ、以て左に交わること母く、左に悪むところ、以て右に交わること母かれ。此れを給驍フ道と謂う。」
自分より目上の人について厭だと思うことは、そのようなことをして、目下の人を使ってはならないし、目下の人について厭だと思うことは、そのようなことをして、目上の人に使えてはならない。自分の前を行く人についてよくないと思うことは、そのようなことをして、後から来る人の前に立つはよくないし、後に来る人についてよくないと思うことは、そのようなことをして、前の人に従っていってはならない。自分の右にいる人についてよくないと思うことは、そのようなことをして、左の人に交わってはならないし、左にいる人についてよくないと思うことは、そのようなことをして、右の人に交わってはならない。こういうことを「給驍フ道」一定の身近な基準を以て、広い世界を推し量る方法というのである。と述べてある。
つまり、自分の身近にある色々な事象を体験する中で道義的判断を常に行うことが必要であるということであり、要するに、「人のふり見て、吾がふり直せ。」「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」ということを実行できるのが、トップリーダーの条件であるということである。そして、そのことが、実は、広い世界を推し量るために必要欠くべからざる基準にもなると述べているのである。また、何らかの理由を付けて、相手の了解もなしに相手のポケットに手を突っ込むようなことはするなということでもある。現在、世界の色々なところで起こっている紛争は、ほとんどが、そういうことが原因になっていることも確かである。世界平和を望むならば、周りを見て、物事に対して、道義的に判断をし、自分自身で襟を正して、それを基準として、先ず、自国をしっかり統治するということから始めなければならないということであろう。そして、そういういい点を世界に推し広めていくときに、本当の世界基準(グローバルスタンダード)は、確立されていくように思う。
「詩に云う、「楽只(たの)しき君子は、民の父母」と。民の好むことはこれを好み、民の悪むところはこれを悪む。此れをこれ民の父母と謂う。」
詩経には、「民衆を幸せにする君子は、民衆の父母である。」とうたわれている。民衆の好むことは、自分もまた統治者として、それを好み、民衆の憎むことには、自分もまた統治者として、それを憎む。このように民衆の心を推し量ることのできる統治者を「民の父母」というのである。と述べてある。
国政については、国民の意向を汲みながら、物事を決断し、行政を行うことが出来る政治家であり、企業経営においては社員の意向を汲みながら、物事を決断し、事業を発展させることのできる経営者のことである。今、自分の仕事の中で、再生が必要な様々な企業の経営者と話をする機会が多いが、ほとんどといっていいくらい、社員の意見をあまり聞かず、社員のことよりも、大変なときであるにも拘わらず、自分のことを一番に考えている経営者が多いということがいえる。もっと言えば、そういう経営者の態度であるから、会社が行き詰まるのであろう。更に言えば、経営者としての資質を持たずに経営をしている人が多いということであろう。ここで言う「民の父母」、従業員の父母の役割を果たせない、果たしていない経営者が多いということでもある。例えば、私が関係している会社の中に、100年近くの業歴を持つ会社があり、今、3代目が経営をしている会社がある。これは、この業界では、非常に多いケースであるが、ここも例外ではなく、バブル以前に計画を立てていたものが、バブル以後に実行になり、その負債の返済に行き詰まり、再生をしなければならない状態に陥ってしまったのである。ここの経営者は、自主再生をしたいと民事再生による再建の手伝いの依頼をしてきた。数年の業績を見れば、ある程度、債務カットできれば、再生ができそうであるので、話を進めることにした。そして、事業の内容に踏み込むことになった。そこで、色々な問題が出てきた。まず、この経営者は、従業員からの信頼が薄いということである。さらに姉婿が経営陣としているのであるが、兄弟仲が悪く、社内に変な派閥が出来ているということである。そして、この大変な時期に拘わらず、以前、ここの従業員であった女性と結婚して、彼女を経営陣に加えたいというのである。もちろん、本人は離婚しているので、結婚について問題はないのであるが、この時期に以前従業員だった女性を復帰させ、しかも経営陣に加えるというのである。如何に危機感がないか、如何に社員のことを考えてないかを露呈しているようなものである。ここに述べてある「民の父母」どころか、「斉家」、家族の和合もできていないのであるから、そうなるのは、当たり前であろう。こういう現実にふれるにつけ、この「大学」に述べてあることの実社会での実践が如何に重要なことであるかを改めて考えさせる。
「詩に云う、「節たる彼の南山、維(こ)れ石巌巌(がんがん)たり、赫赫(かくかく)たる師尹よ、民具(とも)に爾(なんじ)を瞻(み)る」と。国を有(たも)つ者は、以て慎しまざるべからず。辟(かたよ)るときは則ち天下の?(りく)とならん。」
詩経には「切り立ったあの南山、岩がゴツゴツとしている。その南山のように権勢を集めて、光輝いている大師の尹氏よ、民衆は皆あなたの姿をよく見ている。だから、慎まなければならない。」とうたわれている。国を治めるものは常に慎まなければならない。給驍フ道に沿わないで、自分の好みで偏ったことをしていれば、そのうち、自分が殺されて、国が滅ぶということになり、天下の戮辱(りくじょく)をこうむることになるであろう。」と述べている。
これまで何回も出てきていることであるが、人の上に立つ人は、常に下から見られているということを忘れてはならないということである。そういう緊張感や責任感がなくなると、指導方針を誤ってしまうということでもある。そうならないためには、常に現場感覚を忘れずにもっていなければならないということでもある。平安時代の末期の源平合戦では、平治の乱で勝利した平家が、やがて、武士としての現場感覚を忘れ、統治者としての緊張感をなくしたために余禄はあるのに、源氏に滅ばされるのである。幕末の鳥羽伏見の戦いでは、もちろん、軍備の影響もあったのであろうが、2倍の軍勢を持った幕府軍が、軍勢には劣る討幕軍に敗北するのは、大政奉還して統治者としての緊張感をなくし、武士として、戦略を立てる、刀を交えるという現場感覚を忘れてしまったからであろう。そして、江戸城明渡しへと繋がるのである。世界の歴史の中にも、日本の歴史の中にも、他にも多くこのようなことが見聞される。将に「国を有つ者は、以て慎しまざるべからず」である。
「詩に云う、「殷の未だ師(もろもろ)を失わざるや、克(よ)く上帝に配(かな)えり。儀(よろ)しく殷に鑒(かんが)みるべし、峻命は易からず」と。衆を得れば則ち国を得、衆を失えば則ち国を失うを道(い)うなり。」
詩経には「殷の王朝がまだ民衆から見放されなかった頃は、民衆の心がよく上帝の心にかなっていたのである。しかし、今や殷は滅びた、このような殷の状況を手本として、よく鑑みることが必要である。大なる天命を受け、国を維持するのは容易なことではない。」とうたわれている。民衆の心がよく上帝の心にかない、上帝の心が民衆の心と一体になれば、「民の父母」として、国家を保持していくことができるし、民衆の心が上帝の心にかなわず、上帝の心が民衆の心と一体にならなければ、民衆から見放されてしまって、国を滅ぼすことになるということである。」と述べてある。
つまり、国を維持、発展させるためには、常に民意との適合を模索していかなければならないということである。民意は、当然、時代の変遷によって変化していくものである。しかし、その根底にあるのは、紛れも無く、安心して暮らせることである。だから、世の中のリーダーシップをとっていく人たちの命題は常にそのことにあるということを忘れてはならない。国民が安心して暮らせるためには、従業員が安心して、仕事ができるためには、どう対処していくか。これが、政治家や経営者が背負っている使命なのである。決して、自分が安心して暮らせるためには、自分が安心して仕事をするためにでは無いのである。国民や従業員が安心して暮らせ、仕事が出来た結果、自分も安心して暮らせるし、仕事ができるのである。このように、言葉にするのは、簡単であるが、実行するとなると、そう容易なことではない。だから、「峻命は易からず」なのである。しかし、このことを踏み外さず、継続していけている国家や企業が長期に亘って存続してきているのであろうと思う。

二、
「是の故に君子は先ず徳を慎しむ。徳あれば此(ここ)に人あり、人あれば此に土(ど)あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。本を外(うと)んじて末に内(した)しめば、民を争わしめて奪うことを施(おし)うるなり。」
こういうわけであるから、君子は何よりも先に徳の涵養に努めるのである。自分の徳が充実してしていれば、必ず民衆が帰服し、集まってくる。民衆が集まってくると自然に国土が保全されるようになる。国土が保全されると、自然、財物も豊かになる。財物が豊かになると自然、売り買いが盛んになり、流通が発達する。こういうことからしても徳が根本であって、財物は末端なのである。この根本のことをなおざりにして、末端のことに力をそそげば、民衆は皆、利に走り争い、結果、利の奪い合いを教えることになる。と述べてある。
確かに国土や国家の形成はそういう流れの中で出来上がるのが自然の摂理ということがいえる。先行すべきは、人なのであろう。そして、有用な人材を集めるのに必要なことは、そのリーダーシップをとる人が、徳のある人でなければならない、ということを言っているのである。経営の3大資源としてよく言われるのは、人、物、金(現在ではそれにプラス情報とかコミュニケーションとか言われているが、)である。経営は、どれ一つが足らなくても成立しないのである。そして、これをバランス良く調整しながら、事業を遂行していくのも人なのである。我々はよく、お金がないから、お金が足りないから事業が出来ないということを言う。確かに、市場経済の中では、お金、資金、資産というものは、重要なものである。しかし、資金や資産が十分にあって、事業を始めるという人は、2代目、3代目を除いて、そう多くいるものではない。ほとんどの場合が創業する人は、無一文に近い状態から出発するものである。日本の歴代の創業者をみれば、ほとんどがそうである。ある人は、色々な仕事をして自己資金を作り、ある人はその人格を認められて、資金を出資するものが出てきて資金ができ、というように、やはり、その人の意念をその人が実践し、その人が社会に認められることにより事業は形成され、発展していくものである。これは、前述の国家や国土の形成過程とまったく同じようなものである。先ず、何事も、国造りも、会社造りも始まりは人ありきなのである。そして、更に重要なことは、そういうリーダーシップをとっていく人が徳を持っていなければ、民衆が利権を争うようになり、利権や権益の争奪戦が始まり、国家も企業も衰退してしまうことになるということである。近年、放送されているドラマや映画に出てくる政治家は、必ず、悪役であり、利権や権益のために動いているというような人物像を彷彿させるものが多いが、これは、反面、社会の風刺であり、実情であるように思える。そして、現実にそれに使えている官僚の多くも、いま、話題になっている守屋前防衛省事務次官の例を見るように利権や権益の中に身をおいて、私欲を満たしている。そして、そういう状況を見ている企業も民衆もそれに習って、利権や権益を得るということに邁進して、自分の私利私欲を満たそうとする。中には、その利権や権益をいいことに、「白い恋人」や「赤福」のように、今に始まったことでない、いつしか慣例化された状態の中で、消費者に不誠実な表示を行い、利益を貪っている企業もある。このことは、如何に現在に至るまで、君子たるリーダーシップを発揮できる国の指導者を生み出せてこなかったかの結果であり、我々も他人事ではなく、大いに深く反省しなくてはならない。これからは、ここに述べてあるように、君子の徳を持った、何が根本で、何が末端かをちゃんとわきまえたリーダーを多く輩出していくことが、大切に思える。このことは、わが国だけでなく、世界的にも言えることでもある。

   

「是の故に財聚(あつ)まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚る。是の故に言悖(もと)りて出ずれば亦た悖りて入り、貨悖りて入れば亦た悖りて出ず。」
だから、財貨や財産を得ることに努めて、それをお上の蔵に集めたりすると民衆までいきわたらなくなり、民衆は困窮するので、結果、そういう君主のところは離れて散り散りになるが、反対に、徳の涵養に努めて、財貨や財産を民衆の間に散らせて流通させるようにすると、民衆は豊かになり、元気になって、そういう君主のもとに集まってきて、離れなくなる。それと同様に道にはずれた言葉を自分から口にだすと、また、道にはずれた言葉が他人から戻ってくるように、道にはずれて手に入れた財貨は、また、道にはずれて出て行くものである。と述べてある。
民衆から集めた財貨(税金や年金、保険)は、不正無く、民衆に還元しなければならないということである。特にここのところは、これからの政治課題として、非常に重要なことでもある。つまり、国民から集めた財貨は、その出入りを明確にしなければならないということである。これまでは、ここが明確にされていなかったので、社会保険庁の問題ようなことが起こるのであろう。現在のように過大債務をかかえた財政問題をかかえているのもここのところをしっかりやってこなかったというところに原因があるように思える。財政改革については、数年前にこの順受の会でも山田方谷の時に話をしたと思うが、ありのままの財政の姿が見えないと出来ないのである。山田方谷は、この、ありのままの財政の実態を細かく精査してから、藩の財政改革に着手しているのである。このようにすると、利権や権益などというものもほとんどなくなるのである。こういう、不正できない、出来ずらい財務基盤をつくるということは、今後、わが国にとっても非常に重要なことであるように思う。最近話題のNOVAの事件に関しては、やはり、財務の不明瞭さが、その発端になっているように思える(2,3年前から、そういう話はきいていたが)。ここでいう、集めた資金を従業員や教職員、受講者に還元せずに自分の私欲のために溜め込み、そのほとんどを使っていたということが言えるのではなかろうか。最初からそうであったのか、途中で変わったのかは知らないが、この社長は、不徳極まりない君主ということが言えるのではなかろうか。会社更生法適用の寸前に自分の資財もすべて現金に変え、行方をくらましているようであるが、結局は、ここに述べてあるように道にはずれて作った資財は、道にはずれて出て行くことになるのであろう。「悪銭身につかず」とは、よく言ったものである。
「康誥に曰く「惟れ命は常に于(お)いてせず」と。善なれば則ちこれを得、不善なれば則ちこれを失うを道(い)うなり。」
書経の康誥編には「そもそも天命は普遍なものではなく、永久に安定したものでもない」と述べられている。それは、君主が徳を積んで善であるならば、民意を得て天命を得られるし、反対に財物を得ることに努めて不善であるならば、民意が離れて、天命を失うことになるということを言ったのである。と述べられている。
ここのところ、今まで、過去の慣習で当たり前のようにやられていた「暗黙の了解」が、不正、不善として、表にどんどん出てきて、その当事者たちが刑罰に処せられていることは、内部告発ということが主流であり、将に民意を得られずに天命を失った結果であるということが言えるのではなかろうか。

三、
「楚書に曰わく、「楚国には以て宝と為すものなし、唯だ善人以て宝と為す」と。
舅犯(きゅうはん)曰く、「亡人には以て宝と為すものなし、仁親以て宝と為す」と。」
楚の国の記録には「楚の国には特別に財宝というべきものはない。唯、善人こそが宝であると考えている」と述べられている。また、晋の舅犯の言葉にも「亡命中のお方(文公)には、特別に財宝というものはない。仁徳のある近親者がこそが宝であると考えている」と述べられている。つまり、人物を重んじて、財物を重んじないというのが、君子の考えであるということである。そして、人物を重要視する統治がされることが如何に民衆にとって、いいことであるかについて次に述べてある。
「秦誓(しんせい)に曰わく、「若し一个(いっか)の臣ありて、断断兮(だんだんけい)として他の技なきも、その休休焉(きゅうきゅうえん)としてそれ如(能)く容(い)るるあり。人の技あるは、己れこれを有するが若(ごと)く、人の彦聖(げんせい)なるは、その心これを好みす。啻(ただ)にその口より出だすが若くするのみならず、寔(まこと)に能くこれを容れて、以て能く我が子孫を保んずれば、黎民(れいみん)も亦た尚お利あらんかな。人の技あるは?疾(ぼうしつ)してこれを悪み、人の彦聖なるは、而ちこれに違いて通ぜざらしむ、寔に容るる能わずして、以て我が子孫を保んずる能わざれば、黎民も亦た日に殆(あや)うからんかな」と。」
書経の秦誓編には次のように述べられている。「ここに一介の臣下がいたとしよう。誠実一筋の性格で格別の技能は持っていないが、その心は寛容で広く人を受け容れる。そういう性格であるので誰かに特技があると認めると、妬みもせずに、まるで自分の特技ようにして、それを推挙、推薦して協力し、聡明で優秀な人物があれば、心からその人物を愛好する。そういう人物には、唯、口で誉めそやすだけではなく、本当にその人物をよく受け入れて、登用し、そうすることによって、自分の子孫による統治が末永く安泰にできるというのであれば、そこに暮らす、もろもろの民衆も同様の利益を受けることになるであろう。しかし、これに反して、誰かに特技あると知るや妬み疎んじて憎悪し、聡明で優秀な人物がいれば、推挙、推薦するどころか、君主に知られないように画策をする。こういう人物は受け容れず、登用することはしてはならない。こういう人物を受け容れ、登用すれば、自分の子孫による統治が末永く安泰にすることはできないことになるので、もろもろの民衆もまた利益を受けることができるどころか、危険にさらされることになるであろう。」と。
誠実で物事に寛容な人物こそ、世の中に選ばれるべき人物であるといっているのである。そして、当然、そのような人物を登用するためには、登用する本人もそういう人物でなければならないということも言っているのである。更に、そうすれば、安泰で長続きする国家を構築することができるとも言っているのである。最近、政治家も、企業家も大人物が現れてこないといわれているが、最近の世の中の風潮が、誠実で寛容な人物の登用をできない仕組みになっているというところにその原因があるように思われる。それは、国際化、分業化が促進され、それに従事できる即戦力の登用が重要視され、その人物像などは二の次になってしまっているという状況があるからである。こういう、登用が重要視されるようになると、世の中を再構築するような、構想力、構築力、人間力を持ったような人物をなかなか輩出することはできない。登用の裾野をつくる教育制度もそういう世の中での登用の実態があるので、なかなか新たな制度を構築することができないということもあるかのように思える。構想力や構築力に欠けると、常に場当たり的な行動に終始して、方向が定まらず、右往左往してしまうことになる。今の日本の外交などは将にその通りであるかのように目に映る。外交下手だというテクニックの問題ではなく、郭然とした自国の理念を明確にして対話できないということに大きな問題があるように思う。自立した国家としての日本をこれからどう導いていくのかという構想力、構築力がなければ、常に世界の情勢に流されてしまう結果になる。官僚の登用にもこの誠実さと寛容さ、ひいては、構想力と構築力というようなところに力点を置くべきではあるまいか。そうしないと、いつまでたっても、今回の防衛省の問題のような利権、権益の絡む問題は解決されないように思う。
「唯だ仁人のみ、これを放流し、諸れを四夷に迸(しりぞ)けて、与に中国を同じくせず。此れを唯だ仁人のみ能く人を愛し能く人を悪むと為す、と謂うなり。」
ただ、誠実で寛容な仁徳のある人だけが、こういう他人の善行を疎ましく思う人物をきっぱりと流罪にして追放し、四方の未開の国へ退けて、他の善良な人たちとは一緒に中国では住むことができないようにする。ただ、誠実、寛容な仁徳のある人こそが、能く人を愛することができ、能く人を憎むことができると言えるというのは、こういうことである。と述べてある。
誠実で寛容な仁徳ある人は、物事に流されず、物事の真実を見る力を兼ね備えているので、こういう人であって始めて、公平に人の処断ができるのであるということである。
「賢を見るも挙ぐる能わず、挙ぐるも先にする能わざるは、慢(おこた)るなり。不善を見るも退くる能わず、退くるも遠ざくる能わざるは、過ちなり。人の悪む所を好み、人の好む所を悪む、是れを人の性に払(もと)ると謂う。?(わざわい)必ず夫の身に逮(およ)ぶ。是の故に君子に大道あり、必ず忠信以てこれを得、驕泰(きょうたい)以てこれを失う。」
賢人を認めながら、その人物を重職に挙用することができず、挙用したとしても他の者たちより、重く用いることができないのであれば、君主として怠慢である。よくない人物であるとわかりながらそれを官位から退けることができず、退けたとしても遠ざけて関係を断ち切ることができないというのは、君主としての過失である。民衆が一般に憎む、悪事をことさらに好み、民衆が一般に好む善事をことさらに憎むという有様では、つまり、前述の「民衆の好むところは自分も好み、民衆の憎むところは自分も憎む」というようにならないのでは、それを人の本性に逆らうといい、必ず災害がその身に及ぶものである。このような理由で君子には、本性に従って進むという大道があり、立派な基準がある。そしてこれは、忠信の徳を以てこそ成功を得ることができ、驕ったり、傲慢にふるまっては失敗するということである。」
真摯に民意に耳を傾けながら、物事は実行していかなくてはならないということである。先般の安倍内閣の衰退の一因として挙げられるのが、このよくないと思いながらも、なかなか、大臣の首を切ることができなかったということではなかろうか。民意がよくないと判断するならば、即座に首を切るべきであったと思う。そうすれば、ここまで次から次へと大臣が連座することもなかったであろうにと思う。更に一人の命さえも亡くしているのである。君主、首長の判断というのは、このように、人が命を落とすくらい厳しいものであるということを再認識せねばならないと思う。いつも思うが、やはり、世の中のトップリーダーとなるべき人は、帝王学としてのこの「大学」を始めとする古典の勉強はするべきであり、欠かせないものではなかろうか。その中には、世の中を良くするための多くの指針があり、良質な判断の材料があるからである。

四、
「財を生ずるに大道あり。これを生ずる者衆(おお)く、これを食らう者寡(すく)なく、これを為(つく)る者疾(と)く、これを用うる者舒(ゆるや)かなれば、則ち財は恒に足る。仁者は財を以て身を発し、不仁者は身を以て財を発す。未だ上仁を好みて下義を好まざる者は有らざるなり。未だ義を好みて其の事の終えざる者は有らざるなり。未だ府庫の財其の財に非ざる者は有らざるなり。」
国の経済を豊かにするためには、よるべきしっかりした立派な規準がある。生産活動に従事する人が多くて、生産活動に従事しなくて、ただ食べるだけの人は少なく、生産性が高くて、消費することがゆっくりであれば、国の経済はいつも豊かで盛んである。仁徳を備えた君主はこの規準を大切にして財政を行うので、ここで得た財物を利用することによって、わが身を高めていく。しかし、仁徳のない君主は、逆にわが身に財物を蓄えようとして、財物を利用することはなく、自分の私欲を果たそうとする。そもそも上に立つ君主が仁政を好んで行っているのに、下にいる民衆がそれに呼応せず道義の実践に向かおうともしないということは、あったためしがない。そういうふうに民衆が道義を実践して、本業に精を出しているのに、国の経済活動が盛んに成し遂げられないということも、あったためしがない。こういう状況であれば、お上の蔵にいっぱい集められた財物が、いつのまにか、かすめとられて、なくなったということもめったにないものである。と、述べている。
仁政とは、大学の最初に述べられているように「明明徳」「親民」そして「止至善」を旨とした政治である。そういう政治が行われているならば、経済活動は盛んになり、人民は豊かになるということである。また、そういう政治を行う君主は、集まった財物を有効に使う術を知っているので、益々、経済活動を盛んにするということである。もちろん、決して私することなどはないということでもある。そういう、お上であれば、公金を掠め取るような官吏はでてこないということでもある。前述もしたが、ここで、思い浮かぶのは、社会保険庁のことである。社会保険庁の問題は、社会保険庁だけの問題ではなく、そういう体質を作っている厚生省ひいては行政の問題であるということである。そしてそれは、今だけの問題ではなく、過去の累積から来るものであり、今はそれを反映させているに過ぎないということでもある。今は、過去も将来も含めて今なのである。だから今、間髪を入れずに将来のための体制作りをしなければならないのである。その解決のために毎日、毎日、歩を進めていかねばならないのである。それなのに、国会は空転し、重要法案の成立も出来ない状態である。本当に国のことを考えるならば、このような状況をいち早く打破しなければならない。それが、行政の本旨であり、政治家の使命でもあるはずである。党利党略などというのは、除外視して、今すぐ、行政の長は、決断をしなければならないと考える。会期延長しても、次から次にでる法案とは関係のない余計な問題が多くあるのであるから、今後も国会が空転するのは、目に見えている。解散総選挙で、民意を問い、仁徳のある新たなリーダーシップを取れる人物を推挙して、行政に当たらせることが、今は一番重要なことのように思える。
「孟献子曰わく、「馬乗を畜(やしな)えば鶏豚を察せず。伐冰(ばっぴょう)の家には牛羊を畜わず。百乗の家には聚斂(しゅうれん)の臣を畜わず。其の聚斂の臣あらんよりは、寧ろ盗臣あらん」と。此れを、国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す、と謂うなり。」
魯の国の賢人、孟献子は次のように述べた。「馬を乗り物として買えるような身分ともなれば、もはや、鶏や豚を養うことに気を使ったりすることはない。葬儀や祖先の祭りに氷室から切り出した氷を使えるような使える家柄ともなれば、もはや牛や羊を飼ったりすることはない。それと同様に領地を持って、戦車百台を出せる家柄では、領民から厳しく重税を取り立てるような家臣をおいたりはしない。きびしく重税を取り立てる家臣がいるくらいであれば、むしろ、盗みを働く家臣がいるほうがまだましである。その方が、まだ、被害は少ないからである。」国にとっては、財物を得る利益が本当の利益ではなく、道義を遵守することこそ本当の利益である。ということはこういうことである。と述べている。
それぞれの身分や家柄に合った生活をすることが大切で私服を肥やすために、財物を溜め込むようなことをしてはならない。だから、そこそこの財産を持っている国が、国の発展のためだといって、簡単に国民に重税を課してはならない。国を発展させるために、財利のみを増やすことが目的化されているようであるが、その前に、自前でやれることが何かないのか真剣に議論し、実行しなければならない。そうでなく、増税するだけであれば、人心は乱れ、国に大きな禍をもたらすことになる。つまり、財利を主眼として国家運営すると、必ず、どこかで破綻が訪れる。そして、それは、多くの国民に悪影響を及ぼすことになるからである。前述もしたが利を多くとろうとした関連業者や投資家の思惑だけが先行したサブプライムローンの破綻などは、そのいい例である。そのことは国を越えて、色々な企業や人に悪影響を及ぼしており、未だに解決できないでいる。そうならないためには、人の道である道義という観点から、財産の出入りを見直し、ありのままの姿を把握し、本当に何を主眼にするのが国民のためになるのか、国の発展につながるのかという観点から収支を考えていく必要がある。というようなことを言っているのである。鑑みるに、ただ、予算不足を解消するための増税、国債の発行というのであれば、いつまで経っても、わが国の財政上の悪循環は続くように思えるがどうであろうか。
「国家に長として財用を務むる者は、必ず小人を自(用)う。彼はこれよしと為(おも)えるも、小人をして国家を為めしむれば?害(さいがい)並び至る。善き者ありと雖も、亦たこれを如何ともするなきなり。此れを、国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す、と謂うなり。」
国家の首長として財政に力を入れる者は、必ず、つまらない人間を腹心として登用するものである。彼の首長は、この人間を優秀で有能であると思っているが、つまらない人間に国家の財政を治めさせると、天災や人害が次々に起こるものである。たとえ、他にすばらしい人間がいたとしても、もはや、どうすることもできないものでもある。国にとっては財物を得る利益が本当の利益ではなく、道義を遵守することこそが本当の利益である。というのは、このことを言っているのである。と述べてある。
ここで言う小人とは、財利の得失には、詳しく頭がまわるが、物事を大極的、道義的に判断する能力には欠ける人物とでも表現できようか。こういう人を国家運営のための重職につけてはならないと言っているのである。また、前述のように、そういう人物に国家運営の一端を担わせると、財利の得失ばかりを主眼とし、無理な運用をするので、必ず、どこかで財政が破綻することになり、周りの多くに悪影響を及ぼすとも言っているのである。
「国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す。」そもそも、お金というのは、人が物を作り、それを流通させるための手段として作られたものである。だから、通貨というのであろう。その、手段としてのお金が、本体である人も物も通さずに一人歩きを始めたら、大変なことになるのは必定である。現在はその傾向が強い世の中でもある。だからこそ、その使い道に道義という枠をはめて、見ていくのが必要なことに思える。



以上で「大学」を終了する。この本(岩波書店・大学中庸・金谷 治 訳注)には、他に
「大学章句」「中庸」「中庸章句」なども掲載されているので、是非、一読していただきたい。特に、来年の後半は「中庸」を勉強するので、予習をしていただければと思う。