貞観政要について

(平成25年1月―6月)  

「貞観政要」は中国の唐の時代の太宗の治世について述べられている書である。中国の唐代といえば、300年くらい続いており、中国の歴代の王朝の中でも、その長さも突出しているが、その政治制度や文化や学問や芸術も、他国に、特に東洋の諸国に多くの影響を与えている。わが国に於いても、奈良、平安時代の文化は、唐のそういう国際的総合文化に影響を受けているところが大きい。その当時では、稀な一大文化国家を唐王朝は、構築していたのである。そういう意味では唐の太宗は傑出した大政治家であったということが言えよう。この太宗の治世の時代(627年〜649年)の年号を貞観といい、「貞観の治」と言うのである。
「貞観政要」は太宗の没後50年くらいのころ、唐代一流の歴史家である呉競が十巻四十篇に編纂したものである。また、この書が編纂された背景には、唐室の復位、再興の願いがこめられている。よく知られる則天武后の専横政治である。高宗の皇后である武后が晩年、高宗が中風になったので、政治を決裁するようになり、高宗の死後も幼少の中宗や睿宗を天子に立てて、政治の実権をにぎり、嗣聖7年(690年)には、遂に自らが帝位につき国号を「周」に改めた。そして、武氏一族は専横を極めて、抵抗するものには、厳罰を処したり、滅ぼしたりして、遂に唐の宗室を殺害したりもした。唐室は滅亡の危機に瀕した。がしかし、幸いにも則天武后の老病に乗じて、宰相の張柬之が中宗を復位させて、唐王朝を恢復させた(705年)。このころ、史館に入り、国史の編修に携わっていた呉競は、太宗の治世のことをよく知っていたので、中宗の復位を喜び、唐室の中興を期待して、太宗貞観の盛政を欽慕して、中宗の政道の亀鑑とする意図で「貞観政要」を撰録して上進したのである。しかし、あまりにも凡庸である中宗には中興など完遂できるわけも無く、その皇后である韋氏に政治を牛耳られ、今度は韋氏一族の専横を招き、遂には弑せられることになる。しかし、その後、玄宗の世を迎え、源乾曜、張嘉貞の両相によって、この書の価値を認められ、天下後世の規範となるように改編して上進されることになった。そして、この書が世の中に公表されることになったのである。
太宗が在位していた24年間に唐の国家の基盤は確立されたといっても間違いではなかろう。それは、聡明であり、部下の諫言もよく聞き、文武両道の君主であった太宗であったから成し得たのであろう。そういう太宗の基盤作りがあったからこそ途中難事が様々あっても300年の長きに亘って王朝を維持することができたのである。隋末の群雄と戦って、それらを平定したという武門に秀でた戦略家であったということは当然のことであるが、帝位に就いてから、幾多の人材を登用して、房玄齢、杜如晦、魏徴などの賢臣を得て、また、彼らの忌憚の無い声を聞き入れて、国体の基盤を確立させていったのである。彼らとの問答については、この書の中に様々描かれている。また、よく臣下からの諫言を受け入れ、太宗自身も明確な判断をし、指針を臣下に命じていることなどもよく描かれている。更に、治国の方針として、儒教の精神を尊重し、学業優秀の上に政治の条質をよく知る者を重用もした。そして、学者に「五経正義」を作らせて学問の標準として、人心の収攬に努め、窮乏を救い、無実の罪を明らかにして、国家のために一身を投げ打った者を賞することを怠らなかった。太宗は常に最善の君主であらねばならぬと、努力して已まなかったのである。
「貞観政要」は、中国においては、歴代の王朝に尊崇され続けたことは当然であるが、わが国においてもそれを尊崇する治世者が多くいたのもまた事実である。わが国には桓武天皇の世(800年頃)には、渡来していたものと思われ、王朝時代の菅原家、藤原南家、大江家、清原家などの儒臣の家では、家伝の秘本とされ、朝廷において、進講されていった。また、武家の世にあっても、北条氏、足利氏、徳川氏と政治の要衝にあった者は、ほとんどこの書を尊崇し、政治の参考にしていたと言われている。中でも源頼朝の妻、北条政子は、菅原為長に命じて、この書を和訳させ、愛読した。そのこともあり、北条家は代々この書を重んじている。北条政子が愛読していたということは、源頼朝の影響によるものが大きいと考える。また、僧侶である道元や日蓮も法話などに引用していることから、これを尊崇していたものと思われる。
更に徳川家康は「貞観政要」を愛読、尊崇し、藤原惺窩に命じて講義させ、足利学校に命じて、「貞観政要」を開版させている。家康はこの書を以て、天下の経営や治世の策を考え、徳川300年の世を実現させたといっても過言ではあるまい。
今回は、原田種成氏という「貞観政要」研究の第一人者といわれた人の書かれた明徳出版社の「貞観政要」を参考資料として、世の中の指導者、リーダーのあるべき姿を勉強していきたいと思う。

   
 君主としての心構え  
 
貞観の初め、太宗、侍臣に謂いて曰く「君たるの道は、必ず須く先ず百姓を存すべし。若し百姓を損じて以てその身に奉ずるは、猶お脛(はぎ)を割きて以て腹に啖(くらわ)すが如し。腹飽きて身斃る。若し天下を安んぜんとせば、必ず須く先ずその身を正しくすべし。未だ身正しくして影曲がり、上理(おさま)りて下乱るる者は有らず。朕、毎(つね)に之を思ふ。其の身を傷(やぶ)る者は、外物に在らず。皆、嗜欲に由りて、以て其の禍いを成す。若し滋味に耽(ふけ)り、嗜み、声色を玩び悦べば、欲する所已に多く、用ふる所も亦大なり。既に政事を妨げ、又、生人を擾(みだ)す。且つ復た一の非理の言を出だせば、万姓之がために解体す。怨?(えんとく)既に作(おこ)り、離叛も亦興る。朕、毎に此を思ひ、敢えて縦逸(しょういつ)せず。」と。
諫議大夫魏徴対(こた)えて曰く、「古者(いにしえ)、聖哲の主は、皆亦近く諸(これ)を身に取る。故に能く遠く諸物に体す。昔、楚、・何(せんか)を聘し、その国を理むるの要を問ふ。・何対ふるに身を修むるの術を以てす。楚王、又国を理むること如何と問ふ。・何曰く、「未だ身理まりて国乱るる者を聞かず。」と。陛下の明らかにする所は、実に古義に同じ。」と。
   
(大意)
貞観の初年に太宗が侍臣たちに言った、「君主としての道は、必ず、是非とも人民たちを憐れみ恩恵を施さなければならない。もし、重税を取り立てなどして、人民をむごく苦しめて、君主の身のぜいたくな生活にあてるのは、ちょうど自分の足の肉を割いて自分の腹に食らわすのと同じであり、満腹した時には、その身が死んでしまう。もし、天下を安泰にしようとすれば、必ず、是非とも先ず君主自身の行いを正しくしなければならない。今までに、柱がまっすぐで影が曲がり、上に立つ者が治まって下民が乱れたことがあったためしはない。私はいつもこういうことを考えている。人がその身を破壊するのは、その原因が外部から来るのではなくして、すべて、その人自身の欲望のために破壊禍いをまねくのである。もし、おいしいご馳走ばかりを食べ、音楽や女色を楽しみ好めば、欲望は限りなく多く、それに要する費用もまた莫大である。それは政事の妨げとなる上に、また、人民の生活を乱すものである。その上にまた、君主が一つでも道理にはずれた言を出だせば、万民は、そのために統一が乱れ、君主を恨みそしる声が湧き起こり、離反や謀反をするものも起こる。私はいつもこういうことを思って、決して自己の欲望のままに勝手気ままな行為はしないのである。」
魏徴がお答えして言った。「昔の聖人哲人といわれた君主は、いずれも皆、近く自分自身の身の上についてその例をとって考えました。それ故に、遠いあらゆる事物の上についても、考え及ぼして体得することができたのであります。昔、楚王が・何を招いて、彼に国を治める方法の要点を問いました。すると、・何は、その身を修める方法について答えました。そこで楚王は重ねて国を治めることはどのようにしたら良いのかと問うた。すると・何が言った、「今まで君主の身が修まって国が乱れた例を聞いたことはありません。」と。陛下が明らかになされたことは、古人の考えと全く同じであります。」

将に修己知人である。己を修めて、人を治めるのである。己が修まらない者に人を治めることはできないということである。己を修めることができずに人を治めれば、それはそう時間がかからないうちに瓦解するということになる。己を修めずに国を治めれば、その国は破滅の道をたどるのである。
翻って、これからの日本の行く末はどうなるのであろう。安部新政権は、経済成長をその基軸に置き、政策を実行していこうとしている。確かに、経済を成長させる為には、物価を上げ基調にする、円安を促進する、株価を上げるということは必要である。そして、それにより国民は経済的には少し豊かになるではあろう。また、リストラや経費削減に国民は疲れているということもあり、そう望んでいるとも思う。しかし、この政策は一歩誤れば、借金を増やし、国体を危うくすることにもなるということを忘れてはならない。一時の幸福を追求するための、自己満足の政策であってはならないということである。長期的な慧眼を以て、政策は推進していかねばならないということでもある。そのためには、安部首相は、己を修めるという修行をもっとするべきであると思う。そして、太宗のように、周りの多くの本物の賢者の意見、諫言を聞く耳を持って、政策に反映させる必要があるように思う。これからのわが国の本当の安寧を考えるならば、太宗に倣うことである。洒落ではないが、「政権には、本物の聖賢が必要」である。易経繋辞伝に曰く「 安くして危ふきを忘れず。存して亡ぶるを忘れず。治まりて乱るるを忘れず。」を心すべきである。
昨年末、私の本を進呈させていただいた方から、「松田さんは儒学の勉強をされているというが、儒学の根本精神は何か。」と問われて、即座に「修己治人です。」と答えた。更に「修己治人とは、どういうことですか。」と問われたので、「儒学の教本の中に四書五経というのがありますが、その「大学」という書物の中にその回答は述べられております。修己とは、つまり、修身、自分の身を修めるということです。そのための自分の内への修行が「正心」「誠意」「致知」「格物」ということになります。つまり、修己、修身するためには、まず、「心を正さなければならない。」そして、「意念を誠実にしなければならない。」そして、「道義的判断を即座にすることができるようにならなければならない。」更にそのためには「物事の道理を理解し、善を為し、悪を去らなければならない。」ということです。この修行が成就すれば、それが外に発揮され、「斉家」、家庭が整い、「治国」国が平穏に治められ、そうすれば、「平天下」世の中が平和になるということになります。なかなか難しい修行ではありますが、今の治世者たちに求められることであるように思われます。」と答えた。修己と治人、一つは内へ一つは外へとベクトルは相反する方向に向かっているが、これが一体にできれば中庸を保てるのである。
太宗は、この「修己治人」を国家安寧のために、その統治の方法として、実践していったといっても過言ではあるまい。また、このことを実践し、成就させるために、数多くの人材の登用をして、その人たちの話に耳を傾け、自分を省察しながら、国家安寧のための政治を実践していったのである。

 創業と守勢とはどちらが困難か  
 
 貞観十年、太宗、侍臣に謂いて曰く、「帝王の業、草創と守文と孰れか難き。」と。尚書左僕射(しょうしょさぼくや)房玄齢、対(こた)へて曰く、「天地草昧にして、群雄競ひ起こる。攻め破りて乃(すなわ)ち降し、戦ひ勝ちて乃ち尅つ。此れに由りて之を言へば、草創を難しと為す。」と。
魏徴対へて曰く、「帝王の起こるや、必ず衰乱を承(う)け、彼の昏狡を覆し、百姓、推すを楽しみ、四海命に帰す。天授け、人与ふ。乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸す。百姓は静を欲すれども、?役(ようえき)休まず。百姓凋残すれども、侈務息まず。国の衰弊は、恒に此れによりて起こる。斯れを以て言へば、守文則ち難し。」と。
太宗曰く、「玄齢は、昔、我に従って天下を定め、備に艱苦を嘗め、万死を出でて一生に遇えり。草創の難きを見る所以なり。魏徴は、我れと天下を安んじ、驕逸の端を生ぜば、必ず危亡の地を践まんことを慮る。守文の難きを見る所以なり。今、草創の難きは既に以(すで)に往けり。守文の難きは、当に公等と之を慎まんことを思うべし。」と。

   
(大意)
貞観十年に太宗が侍臣たちに言った。「帝王の事業の中で、創業と守成どちらが困難であろうか。」房玄齢がお答えして言った。「国家創業の当時には、天下が乱れ、群雄が各地に割拠しており、それらの強敵を攻撃して打ち破っては降参させ、戦争に勝って、やっと打ち平らげました。こういう命がけの困難な点から申しますれば、創業が困難だと思います。」
 魏徴がお答えしていった。「帝王が起こるときは、必ず前代の極度に衰え乱れたあとを受け、かの愚かでずるいやつを打ち破り、人民たちは、そういう混乱した世を平定してくれた人を天子として推し戴くのを心から楽しみ、天下の万民がなつき従います。だから、帝王となることは、天が授け人民が与えたもので、それは困難なものとは思われません。しかしながら、帝王の地位を得てしまった後は、何事も自己の思うとおりになるため、志向が勝手気ままになります。人民たちは、長い戦乱の後に、やっと平和が到来したので、安静な生活を希望しているのに、城郭や宮殿その他を営造する土木工事のために駆り出される労役がやむことなく、人民たちは、へとへとに弱り果てていても、帝王の贅沢な仕事は休止することがありません。国が衰えて破滅するのは、常にこういう原因から起こります。この点からいいますれば、完成されたものを維持していくというほうが困難でございます。」
 太宗が言った。「房玄齢は、その昔、私に従って天下を平定し、十二分に艱難辛苦を経験し、ほとんど死ぬべき危急の場合を逃れて、かろうじて助かったというような目に出会っている。かれは、創業の困難を、実際に見ているからである。魏徴のほうは、私とともに天下を安定させ、わがままかってや驕り高ぶる心が少しでもおこれば、必ず危険滅亡の場面に出会うであろうことを心配している。かれは、現状維持がいかに困難かを、よく見ているからである。しかし、今は、創業の困難は、もはや過ぎ去ってしまった。守成の困難のほうは、当然、おんみらといっしょに、よく慎んでいこうということを思わねばならない。

攻撃と防御、どちらが大切であるかということはよくいわれることである。もちろん、どちらも大切である。しかし、攻撃をしなければならないときに防御にまわれば、敗退を招く。逆もまた真である。要するに攻防のバランス感覚とその時の現場を把握する能力、つまり、機を見る能力が必要になる。
今回の衆議院議員選挙を見るに政権与党としての防御、守備、守成をちゃんと作り上げない内に民主党は惨敗を喫したように思う。要するに、民主党としての内への努力がなされないままに、自民党にしてやられたということになろうか。その一番の原因は、党首や幹部たちの党内を考えるというよりは、自己主張、自己誇示をしたいがための多くのパフォーマンスに起因していると思える。内への力と外への力の入れ方のバランス感覚の欠如である。つまり、攻防の機を理解していないからではなかろうかと思うのである。つまり、それは、党首としての幹部としての責任感の欠如でもある。これは、企業についても同様であるので、我々も充分に注意しなければならないことである。
それに比べれば太宗は攻防の機をよく理解している君主であったということができよう。「攻撃は最大の防御なり」という言葉があるが、それは内にいつでも攻撃できる大きな力を貯えているからできることである。また、すぐに、力を貯えることのできる備えがあるからできることである。貯えや備えがないのに攻撃ばかりしているなら、そう時間を置かずに力尽き惨敗を喫するのである。太宗は今は、貯えや備えをする時期であるということを理解しているのである。だから、両方とも必要であるといいながら、今は守成が重要であるとしているのである。太宗は時期や物事の機微をよく理解している人であったように思う。
物事に、勝負に勝つ、勝利するためには、相手の虚をつくことが重要であるが、これは、攻撃側にも防御側にも等分にあるものである。だから、勝利する者はおそらく攻防一体、攻守一体となっているのであるように思う。つまり、いつでも、どこでも自然に虚をつくことのできる状態にでき、そういう状況を創れることが勝利に導くためのポイントであるといえよう。そのためには、常日頃の鍛錬、訓練が大切である。常日頃の鍛錬や訓練なしに勝利を得ることなどできない。肉体の修養も心の修養も存分にしなければならないということである。
太宗はおそらく、これに近い感覚を持っていた人物であったように思う。だから、あの群雄割拠の中で勝利し、君主になった後は、内部体制の確立に力を入れるということが、自然にできたのであろうと考える。そして、それが、唐代300年継続のための礎になったのであるように思う。

 王珪の意見を用いて学問のある者を抜擢した  
 
貞観二年、太宗、黄門侍郎王珪に問ひて曰く、「近代の君臣、国を理むること、多く前古より劣れるは、何ぞや。」と。対えて曰く、「古(いにしえ)の帝王の政を為すは、皆、志、清静を尚(たっと)び、百姓を以て心と為す。近代は則ち惟だ百姓を損じて、以て其の欲に適はしめ、其の任用する所の大臣、復た経術の士に非ず。漢家の宰相は、一経に精通せざるは無し。朝廷に若し擬事あれば、皆、経を引いて決定す。是れに由りて、人、礼教を知り、理、太平を致せり。近代は武を重んじて儒を軽んじ、或は、参(まじ)ふるに法律を以てす。儒行既に虧(か)け、淳風大いに壊(やぶ)る。」と。太宗深くその言を然りとす。此れ自(よ)り百官中、学業優良にして、兼ねて政体を識る者は、多く其の階品を進め、累(しき)りに遷擢を加ふ。

   
(大意)
貞観二年に、太宗が王珪に問うた、「近代(六朝や隋をさす)の君臣の国の治め方が、前古(周、漢などをさす)より劣っているのは、如何なる理由によるのであろうか」
王珪はお答えしていった、「昔の帝王が政治をするには、すべて、その志は、清静を尊び、ぜいたくのための壮麗な宮殿の建設や、征服欲のための無用の戦争を開くようなことはなく、平和な生活を営みたいと願う人民の心と同じ心を持っていました。しかし、近世の帝王は、ただ重い租税を取り立てたり、労役や戦争に駆り出して人民を痛め損なって、自己の欲望を満足させ、その任用した大臣も儒学の素養のある人物ではありません。漢代の宰相は、一つの経書に精通していない者はございませんでした。それ故、もし、朝廷に政治上の擬事があった場合には、すべて、その専門として学んだ経書を引用し、それを拠りどころとして決定しました。その結果、国民は礼儀正しい教えを知り、政治は太平の世を作りだしました。しかし、近世は、武を重んじて儒学を軽んじ、中には法律によって、国民を厳しく取り締まる方法を取り入れているものもあります。孔子の教えによる道徳の行いはなくなり、人情が厚い良い風習は、すっかり破壊されてしまいました。」太宗は、王珪の意見に強く賛成し、それから以後は、百官の中で、学業が優れ、民は愛し、いたわるべきであるという政治の本質をよく知る者があれば、数多く、その官位を進め、たて続けに抜擢した。

国家の運営も会社の経営もそうであるが、そこに携わる人をどう教導していくかということは大きな課題である。そして、その是非が、その国家の継続、発展、その企業の継続、発展に繋がっていくということは、まぎれもない事実である。
太宗は早くから、国家の継続、発展のために必要なことは、そこに存在する人(国民)そのものであるということを見抜き、そのためには、その人々(国民)をどう教導していくべきかを考えていたのである。 そして、国家の運営に必要な人材作りのために、また、平穏で安心な経世のために儒学を主流とした政治体系を構築していったのである。儒学を中心とした国家の体系作りをするということは、天地自然の道理、人間の道理、物事の道理を明らかにし、国を統治していくことであるから、法律や行政にも、人倫道徳を重要視する政策がとられていったように思う。今の中国とは、まるっきり違う政策がとられていたように思う。つまり、今の中国は表向き儒家、本音は法家、兵家の国ということが言えるのではなかろうか。そういう意味では、日本の方が儒家的、儒学的国家ということがいえるのではなかろうか。
この太宗の政策を取り入れ実行していったのが、源頼朝であり、足利尊氏であり、徳川家康であったということがいえよう。日本においては、武家社会の到来と同時に太宗の政策が大きく花開いたということがいえよう。それは、大乱の後に継続的に君臨するためには欠かせない政策でもある。特に徳川家康は、国家の体系作りの為に儒学(朱子学)をその中心にすえたところなどは、太宗に倣っているということがいえる。そして、それが武家から庶民にいたるまでの教育の根幹となり、260年も続く、日本文化を大いに発展させた、太平の世の中を構築していったのである。もっといえば、この根幹の教育があったからこそ、明治維新以降もいち早く西欧の列強国とも肩を並べられるような存在になったということもいえる。
さて、近代はどうであろうか。システム化、合理化、効率化などが叫ばれるようになって久しいが、その犠牲になっているのは、紛れも無く人そのものである。国家が、企業が覇権を得るための戦いで、いつも犠牲になるのは人である。そして、それは富を一部に集中させ、二極化などという世の中を構築させることになる。働き盛りの若者の就業先を少なくしている。高度成長期のように大抵の人が描いた、車を買い、家を建てなどの将来の生活設計さえもできなくしている。このアベノミクスでどう変わるかはわからないが、継続的な政策が打てない限り、太宗や徳川家康のような国家の体系作りができない限り、なかなか今の現状からは、抜けきれるものでは無さそうである。目指すところは富の配分が適正にでき、様々な分野で発展、進展できる世の中を構築することである。また、近江商人のいう「三方善し」、「売り手善し、買い手善し、世間善し」の経済発展ができる世の中を構築することでもある。この辺りを我々はもう一度考え直す時期にきているのではあるまいか。
 詔勅に対して臣下の諌めがないのを不満とし、諌めを怠るなと詰責した
 
 貞観三年、太宗、侍臣に謂いて曰く、「中書・門下は、機要の司なり。才を擢(ぬき)んで居らしめ、委任実に重し。詔勅如し便ならざる有らば、皆、須く執論すべし。此来(このごろ)、惟だ旨に阿り情に順ふを覚ゆ。唯唯(いい)として苟過し、遂に一言の諫争する者無し。豈に是れ道理ならんや。若し惟だ詔勅に諸し、文書を行うのみならば、人誰か堪えざらん。何ぞ簡択して以て相委付するを煩はさんや。今自り詔勅に穏便ならざる有るを疑はば、必ず須く執言すべし。妄りに畏懼(いく)すること有り、知りて寝黙するを得ること無かれ。」と。房玄齢等、叩頭(こうとう)して血を出だす。
   
(大意)
 貞観三年に、太宗が侍臣たちにいった、「中書省と門下省とは、国家の重要な政務を司る官署である。それゆえ、才能のある人物を抜擢して居らせ、その任せておる任務は実に重いものである。もし詔勅によろしくないことがあれば、誰もが強く自説を主張して、徹底的に論議しなければならない。このごろは、ただ、天子の仰せにへつらい、天子の気持ちに従順であるだけのような感じがする。はいはいと言って、いいかげんにめくら判を押して通過させ、結局、一言も諌めをするものがいない。天子の詔勅に誤りや不備な点が少しもなく、臣下が諌める必要が全然ないなどという道理があるはずがない。もし、ただ、詔勅に署名し、文書を公布するだけならば、誰にでもできることである。その程度のことに、どうして、多くの中からすぐれた人物を抜擢して重要な政務を任せるという手数をかける必要があろうか。今から後、詔勅に穏便でないところがありそうだという疑いがあったならば、必ず、自己の意見を主張して上言しなければならない。むやみやたらに、恐れはばかり、欠点を知っていながら黙っていることがあってはならないぞよ」房玄齢は、恐れ入り、叩頭して深くその怠慢を謝罪した。

 現代の企業社会の中ではよく見られる光景であるが、常に上司の社長の目を気にしながら仕事をするということである。特にオーナー経営の会社では、社長が絶対の権限を持つ場合が多い。というか、そういう企業風土に自然なっていってしまうという傾向が強い。つまり、世間や部下を見るよりは、社長ばかりを見るという風潮になってしまうのである。そして、誰も責任をとらないということになる。事業が順調に進んでいる場合はこれでいいのであるが、また、そのオーナーのカリスマ性が発揮されているうちはいいが、そのオーナーが亡くなったり、挫折したりするとその企業は破綻するということになりかねない。企業は継続されてこそ、社会的にも経済的にも意味があるのであるから、そこのところを履き違えないようにしなければならない。国家の運営もしかりであり、独善的な、自己の利益だけを追求するような政策を行えば、国家の存続さえも危ぶまれる。
 太宗は、そのことをよく理解していたのである。国家の存続を図るためには、人民が平和で豊かな暮らしを続けるためには、独善は絶対にしてはならないということを過去の治世からよく学んでいたのである。それにしても、唐という国家を本格的に作り上げた本人が独善に陥ることなく、このようなことを堂々と部下に進言するということは、太宗という人は、本当に中国の歴代の君主の中でも稀な存在であるように思う。例えば、自分が難関を乗り越えて、企業を立ち上げたとき、また、その企業が大きな収益を上げることができるようになったとき、果たして、太宗のように考えられる人が何人いるだろうか。口では従業員皆のための会社だといいながら、実際は、私服を肥やしていたなどという例は多くあることである。もちろん、それ相応の利益を得ることは当然であるが、ついつい行き過ぎてしまう傾向が強くなるように思う。国家を企業を存続させるためには、側近に常に諫言してくれる人物を置いて、虚心坦懐に意見をぶつけ合わせて、政策を決定、実行するということが必要であるということである。

 君は舟であり人民は水と同じである  
 
 貞観六年、上、侍臣に謂ひて曰く、「朕、古の帝王を看るに、盛あり衰あること、猶ほ朝の暮あるがごとし。皆、其の耳目を蔽ふが為に、時政の得失を知らず。忠正なる者は言はず、邪諂(じゃてん)なる者は日に進む。既に過失を見ず、滅亡に至る所以なり。朕、既に九重(きゅうちょう)にあり、尽くは天下の事を見ること能はず。故に之を卿等に布き、以て朕の耳目と為す。天下無事、四海安寧なるを以て、便ち意に存せざること莫れ。書に曰く、「愛す可きは君に非ずや。畏る可きは人に非ずや。」と。天子は道有れば則ち人推して主と為す。無道なれば則ち人棄てて用ひず。誠に畏る可きなり。」と。魏徴対へて曰く、「古より、国を失ふの主は、皆、安きに居りて危ふきを忘れ、理に処りて乱を忘るるを為す。長久なる能はざる所以なり。今、陛下、富、天下を有ち、内外清晏なるも、能く心を治道に留め、常に深きに臨み薄きを履むが如くならば、国家の暦数、自然に霊長ならん。臣又聞く「古語に云ふ、君は舟なり、人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す。」と。陛下、以て畏る可しと為す。誠に聖旨の如し。」と。
   
(大意)
 貞観六年に、太宗が侍臣にいった、「昔の帝王をよく観察するに、その盛があれば衰があることは、朝があれば日暮れがあると同様である。その衰亡するのは皆、臣下が君主の耳や目をおおいくらまして、民衆の困窮も、辺地の反乱も、外敵の侵入も、少しも知らせず、そのため、君主は、時の政治において、どうやったらよいのか、どうしたら悪いのか、ということについて全く知ることがない。そして、忠正の者は、君主の太平ムードに浸っている気嫌を損ずるのを畏れたり、あるいは、君主から煙たがられて、そうした事実について言わず、心がねじけて、おべっかいのうまい者ばかりが、日増しに君主のそばに接近している。そのようにして君主自身が政治上の過失を見ることがないのだから、国家が滅亡するようになってしまうのは当然である。自分は、宮中の奥深くに居るようになってしまっているから、天下の出来事のすべてを知り尽くすことはできない。それゆえ、その任務をあなた方に分担させ、私の耳や目の代わりとしているのである。今、天下は無事で、世の中は安寧であるからといって、気にかけずに安易に思ってはならないぞよ。書経に「君が徳をもって人民を愛すれば、民もまた君を敬愛する。君が無道であれば民は離反するから、恐るべきものである」という語がある。天子というものは立派な道徳をもっていれば、人民は推し戴いて君主とする。ところが、無道であれば、人民はその地位を奪って捨てて用いない。ほんとうに恐るべきものである。」
 魏徴は、それに答えていった、「昔から、国を失った君主は、皆すべて国が安らかなときに、危険であったときのことを忘れてしまい、治まっているときに、乱れていたときのことを忘れてしまっている。それが国家を長久にできない理由であります。今、陛下は、その富は天下のすべてを保有し、国の内外が清平で安泰でありながらも、御心を政治のあり方に留められ、常に深い淵に望み、薄い氷を踏むように、びくびくと用心深く畏れ慎んでおられるから、わが国家が存続する年数は自然に、国威が輝いて長久になるでありましょう。私はまたこういうことを聞いております。「古語に、君主は舟であり、人民は水である。水は舟を浮かべ載せることができるものであるが、一方また舟を転覆させるものである。」と。陛下は人民というものは恐るべきものであるとお考えになっておられますが、まことに陛下のお考えの通りであります。」

 上に立つ者の心がけ、心構えとして、もっていなければならないことである。その国家や企業を転覆させるのは、実は、そこにいる国民や従業員であるということである。だから、常に上に立つ者、特にトップといわれる人々は、国民や従業員の意向や情報を知り、理解する必要があるということである。そして、大所高所にたって、様々な決断をしなければならない。ただ、自分勝手に決断し、様々な事を実行していけば、国民や従業員との乖離の差が大きくなり、「裸の王様」になるということである。そして、それは、必ず、その国家や企業の破滅に繋がっていくものである。こういうことには、誰でもなる可能性があるので充分に注意しなければならない。
 今回の衆議院選挙での民主党の大幅な敗退もそのようなところに原因あったのではないかと思うのである。国民を見ているようで見ていない、党内での覇権争いにだけ終始している、党首や幹部の個人的なパフォーマンスが多いなど、他にも色々あるが、そういうことが総じて、国民の期待を裏切り、国民の反発を買うカタチになったのであろうと思うのである。先の選挙では大勝利した民主党が、今回は、国民の信頼を失ったがために、大きく敗退したのである。まさに「君は舟なり。人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す。」である。また、一昨年に各地で起こった独裁国、独裁社会の崩壊も、その国の人民が蜂起して、その主体となって実行されたものである。他の国の人民ではなく、その独裁者に仕えていた人民が行ったのである。
 ここで魏徴が言うように、太宗は「安くして危ふきを忘れず。存して亡ぶるを忘れず。治まりて乱るるを忘れず。」という易経繋辞伝にあるこの言葉をよく理解して、実践していたということがいえよう。また、詩経にあるように「戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むがごとき」慎重な姿勢で政治に当たっていたということがいえよう。また、そうしてこそ人民の信頼を得、長きに亘る安定した国家の運営ができると確信していたのでもあろう。唐代300年の統治は貞観の治が、その礎になっているのである。しかし、それもいつしか箍がはずれて、国民の信頼を失っていく、永遠に続かないというのもまた天地自然の道理ではある。

 大乱の後こそ道義心に基ずく政治を行うべきである  
 
 貞観七年、太宗、秘書魏徴と、従容として、古よりの治政の得失を論ず。因りて曰く、「当今大乱の後、造次に治を致すべからず。」と。徴曰く、「然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕逸す。驕逸すれば則ち乱を思ふ。乱を思えば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち治を思ふ。治を思へば則ち教え易し。然らば則ち乱後の治め易きこと、猶ほ飢人の食し易きがごときなり。」と。太宗曰く、「「善人、邦を為(おさ)むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去る。」と。大乱の後、将に理を致すを求めんとす。寧(なん)ぞ造次にして望む可けんや。」と。
 徴曰く、「此れは常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施さば、上下、心を同じくし、人の応ずること響きの如し。疾くせずして速やかに、朞月にして化すべし。信に難しと為さず。三年にして功成すも、猶ほ其の晩きを謂(おも)ふ。」と。
太宗以て然りと為す。
封徳?(ほうとくい)等対えて曰く、「三代の後、人漸(ようや)く澆訛す。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑(まじ)ふ。皆、治まらんことを欲すれども能はざればなり。豈に治を能くすれども欲せざるならんや。魏徴は書生にして、時務を識らず。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん。」と。
徴曰く、「五帝三王は、人を易へずして治む。帝道を行へば則ち帝たり。王道を行へば則ち王たり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤(しゆう)と七十余戦し、其の乱るること甚だし。既に勝つのい後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱り、??(せんぎょく)、之を征す。既に克つの後、その治を失わず。桀、暴虐を為して、湯之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王之を伐つ。成王の代、亦太平を致せり。若し、人漸く澆訛にして、純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや。」と。徳?等、以て之を難ずる無し。然れども咸(みな)以て不可なりと為す。
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間にして、海内康寧なり。因りて群臣に謂っていわく、「貞観の初め、人皆、異論して云ふ、「当今は必ず帝道王道を行う可からず。」と。惟だ魏徴のみ、我に勧む。既に其の言に従ふに、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧にして、遠戎賓服するを得たり。突厥は、古より以来、常に中国の勍敵(けいてき)たり。今、酋長並びに刀を帯びて宿衛し、部落皆衣冠を襲(かさ)ぬ。我をして干戈を動かさずして、数年の間に、遂に此に至らしめしは、皆、魏徴の力なり。」と。
顧みて徴謂ひて曰く、「玉、美質ありと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値(あ)はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てするを労して、朕の功業をして此に至らしむ。公も亦良工と為すに足るのみ。唯、恨むらくは封徳?をして之を見しむるを得ざることを。」と。徴、再拝して曰く、「匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下の盛徳の加ふる所にして、実に群下の力に非ず。臣、ただ身、明世に逢ふを喜ぶのみ。敢えて天の功を貪らず。」と。太宗曰く、「朕能く卿に任じ、卿委ぬる所に称(かな)ふ。其の功独り朕のみに在らんや。卿何ぞ煩はしく飾譲するや。」と。
   
(大意)
貞観七年に、太宗が魏徴と、ゆったりくつろぎながら、古来からの政治の得失について論議した。そのとき太宗が言った、「当今は、隋末の大乱の後で、民心は荒廃しているから、すぐには平和な治まった世を作り出すことはできない。」
すると魏徴はいった、「そうではありません。およそ人は、安楽の状態におれば、わがまま気ままになります。わがまま気ままになれば、何か事あれかしと乱を思うようになります。乱を思うようになれば、治めることは困難であります。生命の危険が迫り困窮している状態にあれば、いつ死ぬかもしれないと心配します。死ぬことを心配すれば、治まった平和の世になればよいと思います。平和に治まることを思えば、教えやすいものであります。ですから、乱後の民衆が治め易いのは、飢えた人がどんなものでも食べるのと同じであります。」
太宗がいった、「論語の中で、孔子が「善良な人が国を治めると、百年もすれば、不善人の残虐な行為を制圧し、殺伐な風習を去る」といっているではないか、大乱の後によく治まった世を作り出すことを求めようとすることは、どうして急速に望むことができようか。」
 魏徴がいうには、「この論語の語は、普通の平凡人についていったもので、聖哲の場合ではありません。陛下のような聖哲の天子が教化を行ったならば、上下の者が一心になり、民衆が上の教化に応ずることは、響きが声に応ずるように、速やかに反応が現れます。格別に急がさずとも迅速になり、満一ヵ年で教化することができます。ですから、ほんとうに困難ではありません。三年で成功しても、それでも遅いと思うくらいです。」それを聞いて太宗は、魏徴の意見をもっともしごくだと考えた。
 ところが封徳?が答えて言うには、「夏・殷・周の三代の以後は、人間の心が、しだいしだいに軽薄で真心がなくなって来ています。ですから、秦の政治は、専ら法律だけを用いて、厳重に民衆を取り締まり、漢の政治は、君主の徳による王道だけではなく、武力、権力による覇道を混ぜ用いています。これらは皆、治まった平和の世の出現を希望したけれども、人の心から真心が失せていたために、それができなかったのであります。どうして、平和に治めることができるのでありながら、平和の世の出現を希望しなかったのでありましょうや。魏徴は単なる読書人で、世間知らずの机上の空論を唱える学者であり、当世の時局における適切な政務についてはわかってはいません。もし、魏徴の説く意見をご信用になられますと、恐らくは国家を敗乱することになりましょう。」
 魏徴がいった、「昔の五帝三王は前の悪い時代の人民を残らず取り替えて治めたものではありません。帝道を行えば帝となり、王道を行えば王となりました。その時に人民を教化する、そのやり方のいかんにあるだけであります。昔、黄帝は乱をなす蚩尤と七十余度も戦い、その当時の乱れは甚だしいものでした。しかし、戦争に打ち勝った後は、たやすく太平の世を作り出しました。九黎が道徳を乱したので、??がそれを征伐しました。しかし、打ち勝った後は、治まった世を作り出すのに失敗しませんでした。夏の桀王は暴虐をしたので、湯は桀王を放逐しました。そして、湯の在世中に太平の世が作り出されました。殷の紂王は無道をなしたので、周の武王が征伐しました。武王の跡を継いだ成王の世もまた、太平の世ができました。もし、封徳?らのいうように、古代から人間は、しだいしだいに人情が薄く真心がなくなっていくもので、太古の純朴には返らないというのならば、五帝三王の世から千年も二千年も経った今の世になっては、人間はきっと、化け物になっているべきはずあります。どうして、とても教化などできましょうや。」
 封徳?らは、魏徴の筋が通った意見を論駁することはできなかった。しかしながら、皆、心の中では魏徴の考えを不可であると思っていた。
 太宗は魏徴の意見に、いたく共鳴し、常に、仁義道徳をもって政治を行うことを怠らなかった。その結果、数年の間で国内は極めて平安に治まった。そこで群臣たちにいった、「貞観の初年に、人々は皆、異論を唱えて、「当今の世には、必ず帝道王道というような、道徳や人格を重んずる政治を行うことはできません。法律や権力で、びしびしと取り締まらねば、こんな荒んだ人民たちは治められません」といった。そのとき、魏徴だけは、私に仁義道徳を主とする、人間の善意を信頼する政治を行うことを勧めた。その言に従った結果、数年を経過しないうちに、中国の内部は安寧になり、遠い異民族までも、先方から服従して来るようになった。その上、突厥という種族は古来から、いつも中国に対して強敵であった。ところが、今は、突厥の酋長たちが、そろって刀を腰に帯びて宮中に宿衛し、突厥の部落では、中国の風俗に感化されて、すべて中国の衣装を身につけている。私に、少しも武器を用いることなくして、数年の中に、このような平和な状態を作り出すようにしてくれたのは、すべて魏徴の力である。」
 魏徴の方を、振り向いていうには、「宝玉というものは、立派な素質があっても、石の間にあって、良工によって磨かれるということがなければ、瓦や小石と区別がない。もし、良工に出会って磨かれれば、万代までの宝物となる。私には美質はないけれども、あなたによって切磋琢磨された。あなたが、私の人格を仁義によって引き締め、道徳によって広めた骨折りのお陰で、私の天子としての功業をこのようにさせてくれた。してみれば、あなたもまた、良工としての価値がある。ただ、残念なことには、あのとき反対を唱えていた封徳?に、この状態を見させることができないことである。」
 魏徴は再拝して、太宗のおほめの言を辞退していった、「匈奴が破滅し、天下が平安になったのは、自然に陛下の盛徳が国の内外に加わったからによるものでありまして、実にわれわれ臣下たちの力ではありません。私はただ、わが身が、かくも明天子の治められる世に生まれ合わせたことを喜びとするだけであります。どうして、天子のご功績を、わがものとして貪りましょうや。」
 太宗がいうには、「私は、あなたを信任することができ、あなたは、また私の信任にぴったりとよくかなったのである。だから、その功は、ただ私だけのものであり得ようか。あなたは、どうして、そんな面倒くさく、表面を飾って遠慮するのか。すなおに私の賛辞をうけるべきである。」

戦乱の後の治国についての問答である。確かに、大きな被害を出し、多くの仲間の死を見ながら、戦いに勝って、国を治めようと考えるときに常人は、これ以上の被害が出ることを心配したり、反抗勢力の出現を心配したりして、刑罰を重くしたり、重税を課したりして、まず、厳しく人民の統制、国の統制を図ろうとする傾向が強くなるものである。しかし、よく考えると、戦乱で大きな被害や損害を受けた人民が、更に、また、厳しい統制の差配をされると、かえって反発心を起こす原因になるということがいえるのではなかろうか。戦乱が終われば、人民は平和を渇望するものでもある。すぐに、豊かになるということよりも、継続的な平和を望むものであろう。将に魏徴の言うとおりであるように思う。    継続的な平和を維持するためには、まず、仁義道徳を主体とした人民の良心に訴えかける政策が必要になる。そして、それに則って、教育や法律、行政の仕組みを考え、国家の体系を構築していくことになる。太宗は、魏徴の意見を取り入れながら、儒学を中心とした国家の体系を構築して行ったのである。そして、平和存続、平和維持のための国家体系作りを行った結果、何年もしないうちに国家が治まり、周りの反抗していた民族までが帰属してくるということになったのである。その結果として、平和で豊かな国家の構築ができるということになる。
企業においてもその通りであるように思う。企業を大変な痛みを伴って、再生した後は、その企業が存続するための政策を打っていかなくてはならない。そうすることが、再生に当たって、迷惑をかけた金融機関や取引先、一般の株主に対する責務でもある。どうしても再生したあとは、新たなガバナンスやコンプライアンスが必要になると考えがちであるが、そこから出発するのは間違いであるように思う。これから、安定して、継続できる企業にするためにはどうすればよいのかという所から出発しなければ、本末転倒になる。そして、企業存続のための政策が構築された段階で、企業理念、就業規則、人事制度、組織などをその政策に則って考え、決定し、実行していくことになる。再生の為に疲労困憊している従業員に新たな厳しい規則だけをぶつけるのでは、大きな反発をかい、せっかく再生できたのに、ずっと停滞が続くという結果に終わってしまい、また、再生のやり直しをしなければならないということになりかねない。自然に従業員がやる気をもって社業に集中できる環境作りこそが重要である。日本にも多くの法的手段を使って再生した企業があるが、果たしてその内の何社が継続できているのであろうか。企業にとって大切なのは、そこにいる人なのである。これを活性化させることが、長期に存続できる企業構築のための要点である。これを忘れてはならない。
わたしの知り合いの社長(わたしの著書の良き理解者でもあるが)で、「良知経営」ということを標榜して、その経営理念にしている人がいるが、将に継続的な企業構築の為には(本人にいわせると永遠に続く企業構築)間違いない企業理念であるように思う。従業員の自主性、主体性を重んじた、従業員の心の底にある良心を重んじた経営こそが理想的な経営であるように思う。今後、どうなっていくかが楽しみである。

 明君と良臣との出会いは太平の基である  
 
 貞観元年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、「正主、邪臣に任ずれば、理を致す能はず。正臣、邪主に事ふれば、亦、理を致す能はず。惟だ、君臣相遇ふこと、魚水に同じき有れば、則ち海内、安かる可し。朕、不明なりと雖も、幸いに諸公数々(しばしば)相匡救す。冀(こいねがわ)くは直言?議(こうぎ)に憑(よ)りて、天下を太平に致さん。」と。
 諫議大夫王珪対へて曰く、「臣聞く、「木、縄に従へば則ち正しく、君、諫に従へば則ち聖なり。」と。故に古は聖主には、必ず諍臣(そうしん)七人有り。言ひて用ひらざれば、則ち相継ぐに死を以てす。陛下、聖慮を開き、芻蕘(すうじょう)を納る。愚臣、不諱(ふき)の朝に処る。実に其の狂瞽(きょうこ)をツクさんことを願ふ。」と。
 太宗、善しと称し、詔して令し、是より宰相入内して、国計を平章(ぺんしょう)するときには、必ず諫官をして随ひ入りて、政事を聞くに預かり、関説する所有らしめ、必ず、己を虚しくして之を納る。
   
(大意)
貞観元年に、太宗が侍臣たちにいった、「正しい君主が邪悪な臣を信任するときには、平和に治まった世を作り出すことはできない。また、忠正の臣が邪悪な君に仕えるときにも、また、よく治まった世を作り出せない。明君と良臣とが、うまく際会することが、魚と水との関係同様に、親密であるならば、国内は平安になることができる。私は、愚かな者であるけれども、幸いに諸公たちが、私の欠陥を正して危険を救ってくれている。どうか、諸公たちの遠慮の無い直言と骨っぷしのある強硬な議論とによって、天下の太平を実現したいものである。」
 諫議大夫の王珪が太宗の言に答えていった、「私は、こういう言葉を聞いています「どんな曲がった木でも墨縄に従って切れば、まっすぐになり、どんな君主でも諌めに従えば、聖となる」と。それ故、昔の優れた君主には、必ず君を諌める役目の臣が七人いました。そして、諌めの言葉が、用いられなければ、その上は死んでも諌めました。ところが、陛下は、すぐれた御心を開いて、身分の卑しい者の言葉も採用なされております。愚かな私は、忌みはばからずに直言できる朝廷に居りますからには、ほんとうに、間違いだらけの、でたらめな意見ではございますが、その全力を尽したいものと願っております。」
 太宗は王珪の言を、よろしいとおほめになり、詔勅を発令し、これから後は、宰相が宮中に参内して、国家の政策について処理をするときには、必ず諫官もいっしょに参内させて、政事聞くに参与させ、その意見を申し述べることができるようにさせ、必ず、心にわだかまりを持たずに、諫官の意見を聞き入れた。

 ここに述べてあるような「魚水の交わり」ができる友人が果たして自分に何人いるだろうかと考えた時に、そう多くいるものではなく、なかなかそういう人物には出会わないというのが私の実感である。「魚水の交わり」ができるということは、お互いに虚心坦懐でなければならない、また、感性や識見(識見とは知識、見識、胆識のこと)が合うということも重要な要素である。太宗は諫官をどのような基準で選んでいたかは知らないが、この「魚水の交わり」ができる人物こそが諫官になる素養があるものと考えていたのではなかろうか。「貞観政要」からみると、魏徴や王珪はその代表的な人物であろう。
 わが国にも江戸時代の中期後半にこのような「魚水の交わり」を記した「水雲問答」という文献がある。それは、平戸藩主、松浦清山候が読んだ本の研究をまとめて著した「甲子夜話」という書物の中に収められている学問や政治に関する問答集の中にある安中藩主 板倉勝尚候と幕府大学頭 林述斎師との問答である。お互いを墨水漁翁(林)、白雲山人(板倉)と呼んだところから、「水雲問答」となったのであろう。その白雲山人が次のような文章(詠懐)を記している。

東窓 涼月白し 倦鳥(けんちょう)前林に赴く
洒落 濂渓の意 従容(しょうよう)明道の襟
功は論ず三代の業 詩は就(な)す六朝の吟
断金の友に非ずんば いかでか心事の深きを談(かた)らん

これは中国宋代の儒学者であり、宋学の祖といわれる周濂渓とその弟子程明道との師弟関係について述べたものである。洒洒落落で屈託の無い朗らかな濂渓の意に、ゆったりと従容する明道の心。そして、理想の世の中とは、こうあらねばならないと悠然として語り合う。これこそが「断金の友」であるというような意味である。「断金の友」とは心を同じくすれば、金でもスパッと切れるほどの力を持てる友ということである。易経繋辞伝に「二人心を同じうすれば、その利、金を断ず」とある。そういう「魚水の交わり」ができる友であり、師弟関係であるということを板倉勝尚候は述べたかったのであろう。「水雲問答」についてはPHP文庫、「先哲が説く 指導者の条件」(安岡正篤著)を読まれると良い。
 太宗は、こういう「断金の友」を諫官として持つことが、国を治めるためには、最重要なことであるということを認識していたのであろう。そして、その正しい諫言により、国民と心を同じくすれば、どんな難解なことでも解決できるものとも考えていたのであろう。そして、何よりも大切なことは「断金の友」であり続けるということである。
 先日、ある会社の元役員と話をしていたが、彼は「断金の友」であり続けることの難しさをとうとうと述べていた。その会社の社長と「断金の友」として、会社を盛り立てて、優良企業に仕立てあげたのであるが、そうなると同時に、社長が急にその人の意見を聞かなくなり、逆に社長に意見をするものを遠ざけ始め、ヨイショするものだけを自分の近くに置き始めたというのである。その会社は数年も経たず倒産することになるのであるが、国家も企業もその長が自分自身を過信して、「断金の友」を遠ざけ、諫言を聞かなくなるところから崩壊が始まるということは、時代は変わっても変わらないことであるように思う。
明君と良臣が「魚水の交わり」をできる体制を作ることが、国家や企業を存続、発展させるために必要であるということを再認識して、国家運営や会社経営を行っていくことが、その成長に繋がっていくことになると考える。

 君主を諌めることはまことに至難である  
 
貞観十五年、太宗、魏徴に問ひて曰く、「此來(このごろ)、朝臣、都(すべ)て事を論ぜざるは、何ぞや。」と。徴対へて曰く、「陛下、心を虚しくして採納す。誠に宜しく言者有るべし。然れども古人云ふ「未だ信ぜられずして諌むれば、則ち謂ひて己を謗(そし)ると為す。信ぜられて諫めれば、則ち謂ひて之を尸祿と為す。」と。但だ人の才器は、各々同じからざる有り。懦弱(だじゃく)の人は、忠直を懐けども言ふこと能はず。疎遠の人は、信ぜられんことを恐れて言ふことを得ず。祿を懐(おも)ふ人は、身に便ならざらんことを慮りて敢えて言はず。相与に緘黙(かんもく)し、俛仰(ふぎょう)して日を過ごす所以なり。」と。
太宗曰く、「誠に卿の言の如し。朕、毎に之を思ふ。人臣、諫めんと欲すれば、輒(すなわ)ち死亡の禍を懼る。夫(か)の鼎?(ていかく)に赴き、白刃を冒(おか)すと、亦、何ぞ異ならんや。故に忠貞の臣は、誠を竭(つ)くさんことを欲せざる者には非ず。敢えて誠を竭す者は、乃ち是れ極めて難し、禹が昌言を拝せし所以は、豈に此れが為ならずや。朕、今、懐抱を開いて、諫諍を納る。卿等、?懼(ふく)を労して、遂に極言せざること無かれ。」と。 
   
(大意)
貞観十五年に、太宗が魏徴に問うて言った、「近頃は、朝廷に仕える臣下たちが、誰も意見を言わないのは、どうしてであろうか」魏徴が答えて言った、「陛下は、公平無私な御心で臣下の意見を採納していらっしゃる。ですから、本当に、意見を申し上げる者があってしかるべきであります。しかし、古人はこういっています、「未だ充分に信用されていないのに諫めれば、聞く方に自分の悪口を言っているのだといわれます。また、信用されていながら諫めないのは祿盗人といわれます。」と。ただ、人の才能というものは、各人が同じではありません。いくじがない人は、忠直の心を持ちながらも言うことができません。親密でない人は、信用されないであろうことを心配して言うことができません。官職地位を大事に思っている人は、うっかりしたことを言えば、わが身のためにならないであろうことを考えて、言おうとはいたしません。どれもこれも皆、口を閉じて黙っていて、上役や多数の人たちにさからわずに同調して、その日その日を過ごしている理由であります。」
 太宗がいううには、「本当にあなたの言葉のとおりである。自分はいつもこのことを考えている。人臣というものは、君主を諫めようとすれば、いつでも、君主の怒りに触れて殺される危険を恐れるものである。それは、罪人とされて釜ゆでの刑に赴き、敵の大軍の中に突入するのと、いったいどこに相違があろうか。それ故、真心がある正しい臣は、誠意を尽して諫めようとすることを欲しない者ではないのである。が、しかし、進んで誠意を尽くす者は、それこそ非常に得がたいのである。昔、禹王が、道理にかなった正しい言葉を受けた時には、敬意を表して拝したという理由は、なんとこういう理由からではなかろうか。自分は、今、胸の中を大きく開いて、臣下の遠慮ない諫めを受け入れている。あなた方は、おじけ恐れることに、いらぬ心を使い、その結果、思ったままを遠慮なく言うことをしない、ということがないようにせよ。」

 太宗は、常に胸襟を開いて臣下の諫言を聞く用意をしているというのである。しかし、それは個人の私利私欲や他人を批判するものではあってはならず、禹王の例があるように国のためを思い、人民のためを思った道理に適ったものでなくてはならないということである。諫言をするにもそれ相応の教養とそれに裏付けされた体験とが必要になるということでもあろう。教養や体験もなく諫言するのであれば、それは諫言というよりも批判ということになろうか。最近は、この批判を諫言だと勘違いする人が多くなっているように思う。特に企業社会で見られるのが、自分の立場を有利にするためや自分の私利私欲を全うさせるために対立者や邪魔者を不利の立場に追い込むために社長に意見するというようなことである。その社長が、太宗のように諫言であるか、批判であるかを見極められる人物であれば問題は無いのであるが、大抵の場合は、仕組まれた意見を鵜呑みにする場合が多い。これは社長としての資質の問題でもあるが、そういう企業社会の中で育ってきたものには、それを判断する教養や体験が少ない、足りないということがいえるのではなかろうか。私自身も企業人であるときに、この批判により、多くの災難に合っているので、尚更、よくわかる。
 政治家も企業経営者も世の中のリーダーシップをとっていく人物に今一番かけているのは、こういうことも含めた帝王学であるように思う。そういう意味では、この「貞観政要」などは、帝王学の教本として、大きく役に立つものであろうように思う。
 また、逆に本当に諫言しようと思っても、周りの目があったり、個人の生活があったりして、なかなか、できるものではないということがあるのも確かである。これを言うことにより、他人を窮地に追い込むのではないか、ただの悪口と誤解されるのではないか、そのことで、自分に非がかかってくるのではないかなどと考えてしまって諫言をしそびれるということである。しかし、本当に国のため、国民のためを思い、会社のため、従業員のためを思うのであれば、そして、ちゃんと道理に適うことであれば、身を捨ててでも諫言しなければならないように思う。そして、実はこのような実行が、国家や企業を変えていくきっかけになる場合が多いのもまた、事実である。その時、すぐに理解されなくても、一定の時間を経て、理解されるようになるということでもある。NHKの大河ドラマ「八重の桜」で佐久間象山が、周りが「攘夷」を唱えているときに、「開国論」を唱えて、「攘夷派」に殺害される場面があったが、その数年の後に「尊王攘夷」から「尊王開国」へと大きく世論が変わっていくというようなことも一つの代表的な例であろう。太宗が言うように決死の覚悟で、誠意をもって、諫言してくれることに対して、誰が、心を動かさないでおれようか、ということである。そういうことに対して、心を動かされないような君主であれば、早晩、その国家は、企業は破滅することになるということでもある。

 善をなせば栄え悪をなせば滅びる  
 
 貞観六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、「朕聞く、周秦の初め、天下を得たるは、其の事、異ならず。然れども、周は即ち惟善是れ務め、功を積み徳を累(かさ)ぬ。能く七百の基を保ちし所以なり。秦は乃ち其の奢淫を恣(ほしいまま)にし、好んで刑罰を行ひ、二世に過ぎずして滅ぶ。豈に善を為す者は、複祚(ふくそ)延長にして、悪を為す者は、降年永からざるに非ずや。」と
 朕又聞く、「桀紂は帝王なり。匹夫を以て之に比すれば、則ち以て辱と為す。顔閔は匹夫なり。帝王を以て之に比すれば、則ち以て栄と為す。此れ亦帝王の深恥なり。朕、毎に此の事を将(もっ)て、以て?戒(かんかい)と為すも、常に逮(およば)ずして人の笑ふ所と為らんことを恐る。」と。
 魏徴曰く、「臣聞く。「魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、「人、好く忘るる者有り。宅を移して、乃ち其の妻を忘る。」と。孔子曰く、「又、好く忘るること此れよりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘る。」と。願はくは陛下、毎に此の如きを慮りと為すを作(な)さば、後人の笑を免るるに庶(ちか)からんのみ。」と。
   
(大意)
貞観六年に太宗が侍臣に語っていった、「自分が聞いているところによると、周王朝も秦帝国もその初めに興って天下を得たという事実には、格別の違いがない。しかしながら、周は、ただ善を行うを努め、功と徳とを積み重ねた。それが七百年も長く王朝が続くことができた基礎を築いた理由である。秦の場合は、程度を過ぎた贅沢放題をやり、刑罰を行うことを好み、わずかに、二世にすぎないで滅亡した。なんと、善を行う者は、その幸福を受けることが長く、悪を行う者は、その寿命が短いではないか。」
自分はまたこういう話も聞いている、「桀や紂は、帝王である。しかし、地位も身分もない男に、お前は桀紂のような男だといえば、それを恥辱だと思う。また、顔氏や閔氏は、地位も身分もないただの男である。しかし、帝王に向かって、あなたは顔・閔のようなお方だといえば、それを栄誉だと思う、という話がある。これはまた、帝王たる者として深く恥ずべきことである。自分はこのことをもって、自己の手本とし戒めとしているが、いつも、古代の聖王には及ばすして、世間の人に笑われるのではなかろうか、ということを恐れ心配している。」
魏徴がいった、「私はこういう話を聞いております、「昔、魯の哀公が孔子に語っていった、「世間には、物忘れのひどい人もいるもので、家を移転したとき、事もあろうに、その妻を置き忘れてしまった者がいる。」と。それを聞いて孔子がいった、「世間には物忘れということではそれよりもひどい者があります。私が昔の桀紂という君主の行いを見ますところ、それは、妻どころか、自分自身を忘れていたために、身を滅ぼしたものであります。」と。どうか陛下は、いつも、こういうような話があるということを、よく念慮に置いておられたならば、たぶん、後世の人から笑われることから免れることができましょう。」

魯の哀公と孔子との会話にあるように、自分自身の本質を忘れてしまって、その時の流れの中で仕事をしてしまう、つまり、周りに流されて、自分自身の主体性を持たずに仕事をしてしまうということはよくあることである(利欲が絡む場合も多くある)。そして、こういう仕事は、あとで必ず後悔することになる。更にこういう仕事は、あとで修復するにも多くの時間がかかるものである。ひどいことになると、自分自身がその仕事の中で埋没してしまい破滅してしまうということにもなりかねない。
思い起こせば、あのバブルといわれていた時代、そのような現象が多くのところで見られたように思う。その後のITバブルの時代もそうであるが、傲慢奢侈を尽して、最後に残るのは、破綻であり、はっと我に返ったときには時既に遅しということになる(もちろん、そうならない人もいるが)。そういうことになるのであるが繰り返してしまう。私自身を振り返っても、あの時代は、その流れが当たり前だとおもっていた観がある。片方では、このまま、こういう状況が続くはずはないと思っているのであるが、その状況の中に流されているのである。そういう意味では皆、誰もが桀王や紂王の要素を持っているということがいえるように思う。だから、太宗は、世間から桀王や紂王のようだと見られないように、常に自分を律していたのであろう。いつでも傲慢奢侈を尽せる立場に太宗はいるのであるが、やらない。あるいは、そういう傾向を少しでも察したら、諫官に意見を求めたり、直言させたりする。太宗は常に自分自身を照らす鏡を持っていたように思う。殷の湯王も自分の毎日顔を洗う石盤に「苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなれ」と刻してあるものを読んで治世に務めたといわれているが、毎日毎日、前日に溜まった垢や穢れをきれいに落として執務に臨んだのである。毎日毎日、善進していくことを心がけていたということであろう。これもまた、自分自身を照らす鏡を持っていたということになろう。そして、太宗がいうようにこの善進こそが長期にわたる王朝の体系を作り上げることになるのである。そして、善進するためには、これまでも述べてきたが、自分の心を照らす鏡が必要ということになる。自分の心を照らす鏡とは、これまでも勉強してきた王陽明のいう「良知」ということになろうか。自分自身が自然に生まれながらに持っている「内なる神」であり、「仏性」であり、「明徳」である。これを発揮させることができれば、善進できるのである。そして、この「良知」こそが人間の主体性を支える大きな力に成り得るものであるように思う。つまり、主体性を持つためには、常にこの「良知」を発揮させることが必要であるということである。
また、「良知」は、天地自然の道理、それは人間の道理でもあるが、それらに繋がっているものであるので、それらと連動して、世の中の善循環を始動させる役割も務めるのである。そして、善循環が形成されれば、長く平安な世の中が継続するということにもなるのである。太宗が求めている世界観というのは、こういうところにあったのではないかとも思う。

 賞罰を明らかにし、肉親すらも特別に扱わない  
 
 貞観元年、中書令房玄齢を封じて?国公と為し、兵部尚書杜如晦を蔡国公と為し、吏部尚書長孫無忌を、斉国公と為し。並びに第一等と為し、実封は千三百戸なり。皇従父淮安王神通、上言すらく、「義旗初めて起こるや、臣、兵を率ゐて先ず至れり。今、房玄齢、杜如晦等、刀筆の人、功、第一に居る。臣、窃(ひそか)に服せず。」と。太宗曰く、「国家の大事は、惟だ賞と罰とのみ。若し、賞、其の労に当たれば、功無き者自ずから退く。罰、其の罪に当たれば、悪を為す者戒懼す。則ち賞罰は軽々しく行うべからざるを知る。今、勲(いさおし)を計りて賞を行ふ。玄齢等は、帷幄(いあく)に籌謀(ちゅうぼう)し、社稷を画定するの功有り。漢の蕭何(しょうか)が、馬に汗すること無しと雖も、蹤(しょう)を指さし轂(こく)を推す。故に功、第一に居るを得る所以なり。叔父は国に於いて至親なり。誠に愛惜する所無し。但だ私に縁りて濫に勲臣と賞を同じく可からざるを以てなり。」と。
是れに由りて諸功臣自ら相謂ひて曰く、「陛下、至公を以て賞を行ひ、其の親に私せず。吾が属何ぞ妄りに訴ふ可けんや。」と。
 初め高祖、宗正の籍を挙げ、弟姪(ていてつ)・再従・三従の孩童已上、王に封ぜらるる者数十人なり。是の日に至りて、太宗、群臣に謂ひて曰く、「両漢より已降、惟だ子及び兄弟のみを封ず。其の疏遠なる者は、大功有ること漢の賈・沢の如きに非ざれば、並びに封を受くることを得ず。若し一切、王に封じ、多く力役を給せば、乃ち是れ万姓を労苦せしめて、以て己の親属を養うなり。」と。是に於いて、宗室の先に郡王に封ぜられ、其の間に功無き者は、皆降して県公と為す。
   
(大意)
貞観元年に、唐朝の創業に功労のあった房玄齢を?国公に、杜如晦を蔡国公に、長孫無忌を斉国公に封じ、共に勲功第一等とし、その実際の食邑は千三百戸であった。それに対して、太宗の叔父、淮安王神通は不平を申しあげて言った、「隋末に高祖が太原において義軍の旗を挙げたとき、私は部下の兵を引き連れて、真っ先に到着いたしました。ところが、今、陛下の褒賞を見ますと、房玄齢や杜如晦等は、ただ、文書を司る役人であり、私のように命を賭けて戦ったものではありません。それなのに、その功が第一に居るのは、私は失礼ながら承服できません。」太宗がいうには、「国家に最大重要事は、ただ、賞と罰とだけである。もし、賞がその功労によく相当していれば、功のない者は自然と引き下がる。罰がその罪によく相当していれば、悪を行う者は、戒め恐れるものである。だから、賞罰というものは、軽々しく行ってはならないものだということがよく判る。今、私は、勲功を計って賞を行ったのである。玄齢等は、戦場での功は無いが、戦争の際には、大将の本営で策略をめぐらし、乱後には、国家経営のための方策を確立したという功績がある。漢の高祖の三傑の一人である蕭何は、戦場での軍功は無いけれども、戦時には後方から指令を発し、戦後には、漢の高祖を天子に推載した。だから、その功が漢朝において第一にいる理由である。叔父どのは、わが唐の国家にとって、もっとも近親である。だから、真実、褒賞を与えるのに、物惜しみすることは少しもない。ただ、個人的な縁故によって、やたらに、勲功のある臣と賞を同じくしてはならないからである。」
 この事実を知って、多くの功臣たちは、自分たちで言い合って言った、「陛下は、この上もない公平なやり方で賞を行い、その親族にも、えこひいきをしなかった。我々は、どうして、やたらに不平を訴えることができようか」
 初め唐の高祖は、皇族の属籍にあるものを、ひろいあげ、弟や姪・いとこ・みいとこたちの、ごく幼いもの以上の、王に封ぜられた者が数十人もあった。この日になって、太宗は、群臣たちに言った、「前後漢より以降、ただ、子と兄弟だけを王に封じた。その疎遠の者は、漢の賈・沢のように大功があるのでなければ、皆、王に封ぜられることができなかった。もし、遠い親族までも残らず王に封じ、それらに多くの労役者を給付すれば、これこそ万民を労苦させ、自己の親族を養うことになる」そこで皇族の中で、先に郡王に封ぜられ、その以後、格別の功労のないものは、皆、郡公に格下げをした。

 太宗は本当に公平な君主であったように思う。しかし、たいていの場合、自分が天下をとったり、会社や組織や団体のトップになったりすると、自分の周りにいる親族とか、自分に近しい者、自分の言うことを聞く者とかを重要な地位に据えるものである。その人物に大した勲功は無くてでも、そうしたがるものである。そうした人物が本当に実力をもっているのであれば問題はないのであるが、これがまた、実力がないが故に、変に高慢に振舞ったり、高圧な態度で人に処するのである。そして、こういう人物もまた、自分の言うことを聞く人間を近くに置くものである。このことが所謂、派閥というものを形成させていくのである。こういうことを繰り返していくと、不正が常に行われるようになり、その国や会社、組織などは大きく衰退していくことになる。太宗は国家草創の期に際して、こういうことも過去の事例からよく勉強し、理解していたように思う。
 私の知り合いにも、ある会社の社長の座についたと同時に、本当にこの人が社長になる以前と同一人物であるのかと思うくらい豹変した人がいた。先ず、自分の言うことを聞く人間、自分をヨイショする人間を中心に重要ポストにつけ、自分に諫言する人間や前社長の重鎮を一掃したのである。更に、金融機関や他企業から出向してきている人間を排除したのである。自分に都合のいい体制を作り上げて、それでも業績をあげることができればいいのであるが、最初は良かったのであるが、その後、内部からの不満がつのり、従業員から突き上げをくうようになり、それに伴って、従業員のやる気が衰え、大きく業績を落として行ったのである。そして、結果的には、解任ということになったのである。会社は誰のものであるのかということを認識せずに経営を行った結果であろう。会社は従業員のものであり、それを支える株主や資金を提供してくれる投資家のものであり、社長は、それをうまくコントロールしながら、会社の継続と発展、業績のアップを図る先導役に過ぎないのである。つまり、社長という役割を全うすることが重要なのである。そして、それを全うするためには、ここに述べてあるように、会社のために本当に役立っている者を引き立て、賞を与え、会社の弊害になっている者は罰するということを公平さを以て実行することである。そうすることによって、公正な人事も行われるようになり、やる気の喚起も行われるようになり、その結果、業績も確実に向上していくのである。
また、国家の運営も同じである。自分に諫言してくれたり、善事については、協力してくれたり、あるときは喧々諤々と論争をしたりと、本当に国家のためを真剣に思って行動している側近と共に、国民の為に国家を真から発展させていくことを旨に、最良の選択をしながら、世の中を先導し、コントロールしていくことが首相の役割であるように思う。自分の名声や党利党略のために、その場限りの政策を推し進めることは、間違っても首相としてやってはならないことである。

 臣下は君主の礼遇に報いるものである  
 
 貞観十一年、上、侍臣に謂ひて曰く、「狄人、衛の懿公を殺し、尽く其の肉を食らひ、独り其の肝を留む。懿公の臣弘演、天を呼んで大哭し、自ら其の肝を出だして、懿公の肝を其の腹中に内る。今、此の人を覓(もと)むるも、恐らくは得可からざらん。」と。特進 魏徴対へて曰く、「君の之を待つに在るのみ。昔、豫譲、智伯の為めに讎(あだ)を報い、趙攘?子(ちょうじょうし)を刺さんと欲す。攘子、執(とら)へて之を獲、譲に謂ひて曰く、「子は昔、范・中行氏に事へざりしや。智伯尽く之を滅ぼす。子、乃ち質を智伯に委し、為めに讎(あだ)を報いざりき。今、智伯の為めに讎を報ゆるは、何ぞや。」と。譲答えて曰く、「臣、昔、范・中行に事ふ。中行は衆人を以て我を遇せり。我、衆人を以て之に報いたり。智伯は国士を以て我を遇せり。我、国士を以て之に報ゆ。」と。君の之を礼するに在るのみ。何ぞ其れ人無しと為さんや。」と。
   
(大意)
 貞観十一年に、太宗が侍臣たちに言った、「昔、狄人が衛の懿公を殺し、その肉を食い尽くして、ただ、その肝だけを残しておいた。懿公の臣の弘演は、天に叫んで大声で泣き、自分の身体を剖(さ)いてその肝を取り出し、懿公の肝を、その腹に入れたという話がある。今の世に、このような忠烈の臣を求めようとしてもたぶん不可能であろう。」魏徴がお答えして言った、「それは、君主が臣下をどのように待遇するかによるものであります。昔、晋の豫譲は智伯のために復讐を志し、趙攘子を刺そうとした。攘子は、自分を殺そうとしてつけ狙っている豫譲を捕らえ、豫譲に言った、「あなたは以前に、范氏・中行氏に仕えていたではないか。智伯はその両氏とも滅ぼしてしまった。それなのに、あなたは、智伯に仕官し、滅ぼされた范氏・中行氏のために復讐をしなかった。今、智伯のために復讐をするは、いかなるわけであるのか。」と。豫譲が答えて言った、「私は以前に范・中行氏に仕えていました。しかし、両氏とも、普通の臣下として私を待遇していました。だから、私は、他の臣下と同様な程度にご恩返しをしました。ところが、智伯は、私を国士として待遇してくれました。ですから私は、国士としてのご恩返しをするのです。」と。こういう話がございます。ですから、主君が、平素どのように臣下を礼遇しているかということに原因があるのであります。忠烈な部下が現れるか否かという責任は、君主が臣下の人物をよく見抜いて、優秀な臣にはそれに相当する礼遇をすることが何よりも肝要であります。どうして弘演のような人物が得られないといえましょうや。」

 何とも辛辣な魏徴の意見である。確かに、企業においても「うちには人材がいないのですよ。」という話はよく聞くことである。また、社長自ら、「もう少し、ちゃんとした人材は我が社には、いないのか。」などということもある。これでは、益々、人材は育たないし集まらない。いくらいい素材があっても、育てるという環境がなければ、人材とはなり得ないのである。ここで言う、忠烈な部下を作るためには、その人の人となりを見抜き、適所に配属させ、その上で、それに応じた礼遇をすることが必要である。
 私の知り合いにこういう人がいる。自分の事業が暗礁に乗り上げて、耐乏生活を余儀なくされている時に、前職の社長から声がかかり、それなりの待遇でその会社に迎え入れられた。大変な時に、将に救いの神が手を差し伸べてくれたのである。その人は、その時、命を賭してでも、その会社に、その社長に貢献したいと思ったのである。そういう意識も幸いしてか様々なことにチャレンジして、その会社の業績向上に大いなる貢献を果たせたのである。しかし、その会社には、大きな負債があり、その負債を返済するまでの業績の向上は見込めず、事業の売却をせざる得なくなったのである。キャッシュフローは充分にあるのであるが、負債が多すぎてそうせざる得なくなった。そして、会社を法的整理することになったのである。当然のことながら、経営者は株主責任、経営者責任をとわれて、退任することになったのである。そういう状況になったとき、その人は、自分が社内で立ち上げようとしていた新規事業をその会社から切り離し、個人で会社を設立し、経営を始めることにして、その恩ある経営者を相談役として受け入れたのである。会社経営は最初のうちは大変難儀をしていたが、その人の努力と時宜を得た事業が功を奏し、いい業績をあげるようになったのである。そして、その恩ある経営者を会長に据えて、今でも会社を続けている。稀な例ではあるが、国士として迎えられた者が、国士としての恩返しをした、いい事例である。
 トップに立つ人間が忠烈な人材を育てるということは、ある意味、命がけであり、その命がけの決意に、答えられる人材を採用し、採用したからには、それなりの役職と責任を持たせるということができなければならない。そうすれば、その人物も命がけで、その社長に会社に尽すものであるように思う。こういう、マンツーマンの魂と魂のぶつかり合いを通じて、真からの心の繋がりをつくることが忠烈な人材を作るために必須なことであるように思う。だから、トップに立つ人間は、人物を見抜く力を持たなければならない。また、そういう人物を周りに何を言われようが、後押しする胆力を持たねばならない。中途半端な人材登用、人材育成なら、やる必要はない。それは、逆にその会社の衰退を招く。

 戴冑が法を守って太宗を諫めた  
 
 貞観元年、吏部尚書長孫無忌、嘗て召されて内に入り、佩刀を解かずして、東上の閤門(こうもん)に入る。出でて後、監門校尉始めて覚る。尚書右僕射封徳?議す。以(おも)ふに、監門校尉の覚らざるは、罪、死に当す。無忌の誤りて刀を帯びて入るは、徒二年、罰銅二十斤と。太宗、之に従ふ。大理少卿戴冑、駁して曰く、「校尉の覚らざると、無忌の帯入と、同じく誤りと為すのみ。臣子の尊極に於ける、誤と称するを得ず。律に准ずるに云はく、「供御の湯薬・飲食・舟船・誤て法の如くせざる者は皆死す。」と。陛下、若し其の功を録せば、憲司の決する所に非ず。若し当(まさ)に法に拠るべくんば、罰銅は未だ衷を得たりと為さず。」と。太宗曰く、「法は朕一人の法に非ず。乃ち天下の法なり。豈に無忌が国の親戚なるを以て、便ち法を撓(たわ)めんと欲するを得んや。」と。更に議定めしむ。徳?、議を執ること初めの如し。太宗、将に徳?の議に従はんとす。冑、又、駁奏して曰く、「校尉は無忌に縁りて以て罪を致す。法に於いて当に軽かるべし。若し其の過誤を論ぜば、則ち情たること一なり。而るに生死頓(とみ)に殊なれり。敢えて以て固く請ふ。」と。
太宗、乃ち校尉の死を免(ゆる)す。
是の時、朝廷盛んに選挙を開く。或は階資を詐偽する者有り。太宗、其れをして自首せしむ。首せずんば、罪、死に至らんと。俄かにして詐偽する者有りて、事洩る。戴冑、法に拠り流に断じて以て之を奏す。太宗曰く、「朕、勅を下し、首せざる者は死せんと。今、断ずること流に従ふ。是れ天下に示すに不信を以てするなり。」と。冑曰く、「陛下、当即に之を殺さば、臣が及ぶ所に非ず。既に所司に付さば、臣、敢えて法を虧かず。」と。
太宗曰く、「卿自ら法を守り、而して朕をして信を失はしむるか。」と。冑曰く、「法は国家の大信を天下に布く所以なり。言は、当時の喜怒の発する所なるのみ。陛下、一言の忿を発して、之を殺すを許し、既に不可なるを知りて、之を法にゥ(お)く。此れ乃ち小忿を忍びて大信を存するなり。若し忿りに順ひて信に違ふは、臣砒窃に陛下の為めに之を惜しむ。」と。太宗曰く、「法、失ふ所有れば卿能く之を正す。朕、何ぞ憂えんや。」と。
   
(大意)
貞観元年に、長孫無忌が、あるとき太宗のお召しを受けて宮中に参内した。法規では、佩刀をはずして入るべきを、うっかりして刀を腰につけたまま参内した。そして、宮中から退出した後になって、宮殿の御門を警衛している武官が、はじめて気付いた。それが問題となり、その処分をいかにすべきかを評議したとき、封徳?の意見は、「監門校尉が、長孫無忌が帯刀のまま参内するのを気付かなかった職務怠慢の罪は、死刑に相当する。長孫無忌が誤って刀を帯びたままに宮中に入った罪は、徒刑二年、罰として納める銅が二十斤がよろしい。」と。太宗はその意見に従うことにした。そのとき、司法次官の戴冑が、封徳?の意見に反対していった、「監門校尉が気付かなかったのと長孫無忌がうっかりして帯刀のままで参内したのとは、どちらも誤りであることは同じである。臣下が天子に対する場合においては、誤りということは許されず、それは言い訳としては通らないものである。法律を適応するに、「天子に奉る、お茶・飲食物や舟を、誤って法に定めてあるようにしないものは皆死刑である」とあります。もし、陛下が長孫無忌の国家における勲功を、おとりあげになり、特別な処置をなされるならば、私たち司法官が決定する問題ではありません。しかし、もし、法律によって処断しようとなされるならば、罰銅というのは、適当であるとはいえません。」太宗が言った、「法というものは、天子である私一人のための法ではない。それは、天下万民のための法である。どうして、長孫無忌が国家の親戚、皇后の兄であるという理由によって、簡単に法律を曲げようとすることができようか。」重ねて協議して決定するようにさせた。封徳?は、当初の自己の意見を固執して変えようとはしなかった。そこで、太宗は封徳?の意見に従おうとした。戴冑はまたもや、反対意見を申し上げて言った、「監門校尉は、長孫無忌がうっかりして帯刀のまま参内したことが原因となって罪を引き起こしたのである。ですから、法律の適用において、当然軽くなければなりません。もし、その過誤ということを問題にすれば、事情は同一であります。それなのに、一方は生き、一方だけが死罪にされるという、非常な相違があります。どうしても、校尉の罪を軽くしてやることを固く御願いいたします。」
太宗はそこで校尉の死罪を免除してやった。
このころ、国家創建の時にあたっていたので、朝廷では盛んに官吏の選抜登用の道を開いた。そのとき、中には前朝における階級と資格とを詐称するものがあった。太宗は、詐称した者には、それを自首させ、もし、自首しないで露見したならば、死罪にするであろうと公言した。ところが、間もなく、階資を詐称する者があり、その事実が明らかとなった。そのとき戴冑は、法律の規定に基き、流罪と判決して奏上した。すると、太宗が言った、「私が勅命を出して、自首して出ない者は死罪にすると言った。それなのに、今、あなたの断罪は流刑に従っている。これでは、天下の人々に私が嘘を言ったことになり、不信を示すことになるのである。」戴冑が言った、「陛下が、即座にその人間をお殺しになるならば、私にどうなることでもございません。しかし、係りの役人に引き渡された以上は、私は絶対に法律の規定を欠くことはできません。」
太宗が言った、「あなた自身は法律を忠実に守り、そして、私に国民の信用を失わせるようにさせるのであるか。」戴冑が言った、「法律というものは、国家が大なる信義を天下に公布しているところのものであります。しかし、言葉というものは、ただ、その時の喜怒の感情によって発したものであります。陛下が嘘をつくものがある事実に対して、一言の怒りを発して、詐偽者を殺すことを許し、その後、それが宜しくないということを知った上で、これを法律の規定によって処置なされる。これこそ、小さい怒りを我慢して、大きい信義を失わずに保存するものであります。もし、お怒りのままに従って、国家の法律を守るという信義に違反することは、私は、恐れながら陛下のために、それを甚だ惜しみます。」その言を聞き、太宗は言った、「私が法律に違うところがあれば、あなたは、それを正してくれる。私は法律の施行において、何も心配する必要がない。」

太宗の言は、君主であるので、ある意味絶対であるのであるが、その言が主観や喜怒から出たものであれば、それは、国民には理解されないし、公正な判断ができなくなる。だから、そこに法律というものがあり、それを遵守することにより、司法が機能するということである。君主であれば、独裁者でなくても自分の意見そのものが法であると思いがちになり、そういうことを実行するようになる。この後、唐代でも則天武后などの専横政治がなされる時期があるのであるが、そう長くは続かない。秦の始皇帝にしても隋の煬帝にしても独裁色が強い国作りでは、国家は短命に終わる。そういうことも、太宗は意識し、理解していたのであろう。だから戴冑の諫言も理解し、怒りにまかせて言った勅命も反省できるのである。また、それは、太平の世が長く続くようにとの太宗の意念の表れでもあろう。それにしても、この戴冑という人は、勇気ある人であるということが言えよう。自分の職務に忠実であり、司法と行政の分離ということを明確にすることでこそ、公平な裁断ができるということを認識しているのである。そして、処断が間違いだとすれば、君主にも意見を言うという司法官の鏡のような人物である。
私もそうであるが、人間誰しも、自分がその時の感情で言って、後で引っ込みがつかなくなることがある。そして、意外とその時言ったことは、後に禍根を残す場合が多い。特にリーダーたる人間は、言葉には充分気を付けねばならない。また、自分が言ったことが間違いであると気付いたり、実行できなければ、率直にあやまるしかない。そういうときに客観的な判断材料として、大きくは法律があったり、小さくは社内規定があったり、組織や地域での決め事があったりするのである。もちろん、この客観的な判断材料は、公平でなくてはならない。そして、その公平さを保つためには、時代の変動や状況の変化と伴に一部改定は余儀なくされるものであるように思う。不変の判断材料があるとすれば、それは、天地自然の道理であり、人間の道理であろう。この天地自然の道理、人間の道理をふまえて、その時の治世者が時代に応じて策定するのが法律であるようにも思う。法律は人間が作るものであるから、完全ではない、だから、様々な見解が生まれてくる。そして、それは判例というものを大切にする傾向を強くする。一方、天地自然の道理、人間の道理は、不変であり、完成されているものでもある。だから、法律を策定する場合には、これを基調にすべきであるように思う。つまり、法の上に道(道理)があるということを忘れてはならないように思うのである。もっと極端なことを言えば、天地自然の道理、人間の道理が民衆に完全に浸透している世の中を作ることができれば、法律などは、ほとんどいらないということでもある。太宗は、おそらく、そういう理想国家を作りたいと思っていたのではなかろうか。
最近、憲法改正が叫ばれるようになった。前からあった議論ではあるが、それが顕在化してきたのである。今回の参院選の争点となりそうであるが、憲法を改正するのであれば、決して治世者の都合重視のものではなく、末長く国民に喜ばれ継承されるものにするために、是非、この道、道理(天地自然の道理であり、人間の道理)を基調にし、これに則ったものにしてもらいたいものである。

 失敗はみな利益に目がくらむことから起こると戒めた  
 
 貞観十六年、太宗、侍臣に謂いて曰く、「古人云ふ、「鳥林に棲むも、猶ほ其の高からざらんことを恐れて、復た木末に巣くふ。魚、泉に蔵(かく)るるも、猶ほ其の深からざらんことを恐れて、復た其の下に窟穴す。然れども人の獲(う)る所と為る者は皆、餌を貪るに由るが故なり。」と。今、人臣、任を受けて、高位に居り、厚禄を食む。当に須く忠正を履み、公清を蹈むべし。則ち災害無く、長く富貴を守らん。古人云ふ、「禍福は門無し、惟だ人の召く所のみ。」と。然らば其の身を陥るるは、皆、財利を貪冒(たんぼう)するが為なり。夫の魚鳥と、何を以て異ならんや。卿等、宜しく此の語を思ひ、用て?誡と為すべし。」と
   
(大意)
 貞観十六年に、太宗が侍臣たちを戒めて言った、「古人の言に、「鳥は林に棲んでいるが、それでもなお、その木の高くないのを恐れて、更にまた木の高い梢に巣を造る。魚は水中に隠れているが、それでもなお、その水の深くないことを恐れて、更にまた奥底の洞穴に住んでいる。それにもかかわらず、人間に捕らえられるようになるのは、皆、餌を貪り食うからである。」とある。今、臣下たちは、任命されて高い地位におり、多くの俸給を受けている。そうであるからには、是非ともまじめで正しい道を実行し、公明で潔白な生き方を踏み行うべきである。そうすれば、災いや失敗もなく、長く富や地位を守ることができるであろう。昔の人は次のように言っている、「災いや幸福は、どの家に来るという予約はないのだ。ただ、その人の行為によって招かれてやってくるものだ。」と。それだから、わが身を災いの穴へと落とし込む者は、みな財産や利益を欲深く貪るからである。そんなことでは、あの魚や鳥と、どこに違いがあるだろうか。御身たちは、充分にこの言葉を味わって戒めとするがよいぞよ」

 皆さんも欲を持ったが故に失敗したということは、今までの人生の中でもそこそこあるのではなかろうか。ここでいう欲とは私利私欲のことであるが、また、その欲をうまくとらえて、その隙にうまい話を持ちかけられて、詐欺にあうということも多くあるように思う。世の中にはそのような詐欺が横行しているのも実情である。そして、この詐欺というものは、実証しずらいものでもある。更に、それにより、大きな損失を被ることになる。大きな損失を被るとそれを取り返すためにまた、無理を重ねていくと、そこには、破滅が待っているだけである。「積善の家には必ず余慶あり。」であるから、自分の今の生活を足るものとして、善行を積み重ねていくことが一番のそういうことに会わない解決策であるように思う。
 私もこの一年の間に詐欺に巻き込まれているので、自分を大きく反省しなければならない立場である。特別大きな利益を得ようと思っていたわけではないのであるが、企業の存続がかなり難しくなっているところにタイミングよく来た話であり、しかも、とりあえず、ある名のあるM&A会社の紹介であったので、取り組みを始めたのである。そういうこともあって、うまい話ではあるが、実現性も高い話であるように見受けたので、契約をすることにしたのである。そのM&A会社から「本人も金はあるが、バックにしっかりしたスポンサーがついている。」と聞いていたので、ある程度、会社の経営も任すことにしたのである。しかし、数ヶ月経って、経営の実情もこちらに入ってこなくなり、資金つくりのためにその経営を任せている人物が奔走しているなどの情報を聞くにつれ、何か違和感を感じていた矢先に、現場の方から、経営実態についての訴えがあったのである。それによると、仮払金や借入金で会社からかなりの金を引っ張り出しており、自分で勝手に始めた新規事業にも会社の金をつぎ込んでいたのである。しかも、私に対しては緘口令をしいていたのである。これを知った私は、実情を確認するために現場に行き、本人を問い詰めた。そして、予想以上に大きな損害を被っていることがわかった。そうすると、その後1週間の内に本人と音信不通になってしまったのである。そういう状況下、再度、私自身が代表者に返り咲いて、経営をすることにしたのである(それしか道はなかったということでもある)。経営に復帰したのであるが、その時は、その会社は、既に破産状態にあった。そして、今、協力をしてくれる方々の力を得て、どん底からの脱出の途中である。
このような全てがいい方向に向いていくという話には、その対応してくれる人物を自分がよく理解して、知っているのでなければ、絶対にのってはならないということでもある。心の隙をついてくるのが、詐欺師の常套手段である。このことをある人に話すと「あなたは、東洋思想の勉強会などをやっているのに、それでも、そういう事件にひっかかるんだ。」とのことであった。私はそのとき、自分自身では欲を強く持ったという実感はないのであるが、確かにどこかに何らかの欲心はあったのであろうと思う。私自身大きく反省し、改めねばならないことである。太宗の言にあるように「禍福は門無し、惟だ人の召く所のみ。」である。正道を進み、公明で潔白な生き方をするために、益々、修行を積んでいく必要があると実感している。

 法の適用を慎重にし、無実の罪がないようにした  
 
貞観元年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、「死する者は再び生かす可からず。法を用ふること、須く務めて寛簡を存すべし。古人云ふ、「棺を鬻(ひさ)ぐ者は、歳の疫あらんことを欲す。人を疾(にく)むには非ず。棺の售(う)るるを利するが故なるのみ。」と。今、諸司、一獄を覆理するに、必ず深刻を求め、其の考課を成さんことを欲す。今、何の法を作(な)さば、平允ならしむるを得ん。」と。諫議大夫王珪進んで曰く、「但だ公直良善の人を選び、若し獄を断ずること允当なる者には、秩を増し金を賜はば、即ち姦偽自ら息まん。」と。詔して之に従ふ。
太宗又曰く、「古者(いにしえ)、獄を断ずるには、必ず三槐、九棘の官に訊(と)ふ。今、三公、九卿は、即ち其の職なり。今自り、大辟の罪は、皆、宰相、中書、門下の四品(しほん)以上、及び尚書・九卿をして之を議せしめん。此の如くならば、庶(こいねがわ)くは冤濫を免れん。」と。是れ由り四年に至るまで、死刑を断ずること天下に二十九人のみ、幾(ほとん)ど刑措くを致せり。
   
(大意)
 貞観元年に、太宗が侍臣たちにいった、「一度死んだ者は、二度と生かすことはできない。だから、法律を用いるには、是非とも、大まかで、細かくこせこせしないように心がけて努力すべきである。古人の言葉に、「棺を売る者は、その年に流行病がはやるようにと願う。それは人を憎むからではない。棺が売れることを利益と考えるからである。」と。今、多くの司法官たちは、一つの裁判を審理するこきに、必ず、ひどくきびしい取調べを求め、司法官として好成績をあげようと思っている。今、どういう方法を取ったならば、司法官に、公平で適切な裁判をさせることができるであろうか。」王珪が進み出て言った、「ただ、公平正直で心がけの良い人を選んで司法官とし、もし、裁判のさばきがよく道理に適っている者には、俸給を増したり、黄金を下賜なされたならば、よこしまで偽りをする者が、自然となくなりましょう。」太宗は詔を出して、この王珪の意見に従った。
 太宗はまた言った、「昔の裁判をさばくには、必ず三公や朝廷の重臣に問い正した。今の三公と九卿とは、昔のその職に該当するものである。今日から、死刑の罪は、すべて宰相と中書省・門下省の四品以上の高官及び尚書と九卿とに命じて、死罪の可否を評議させよう。このようにすれば、たぶん無実の罪によって死刑に処せられる者を、なくすことができるであろう。」そのようにしてから四年になるまでの間に、死罪の断罪をくだしたものが、天下中でわずかに二十九人だけであり、ほとんど、刑罰を実施することがないと同様の状態にまでなった。

 自分の立場や地位の中でそれを維持するために、また、それ以上の立場や地位を得ようとして、無理して、物事を断行するということは、世の中にはよくあることである。これは、否定することはできないが、これが過ぎれば、周りに害を及ぼすことになる。特にここに述べられているように、人の生死にかかわるような仕事をしているのであれば特に気を付けねばならない。人の生死を決定するために、個人的な欲望を行使してはならないということである。自分の立場や地位を維持、向上させるために死罪に処するものを多くすれば、冤罪が多く出てくるのは間違いがない。
それと同じで、会社で自分の立場や地位を維持、向上させるために、無理をすれば、必ずそこには、虚実が混在して、その人物の、その仕事や業務の真実をわからなくさせてしまう。そして、周りを巻き込み、罪のない人間に罪がきせられて、退任しなくてもいい、退社しなくてもいいのにそうせざるを得なくさせる。結果、せっかくの有為な人材をその会社から排出させてしまうことになる。そして、いつも、こういう状況の時に巻き込まれるのは、一所懸命に努力を積み重ねている正義感が強く、まじめな有為な人材である。こういうことは、企業社会では今でもよくあることである。そして、それ自体が、その会社の力を削いでいくことにもなりかねない。企業力の強さというのは、有為な人材を如何に多く得、継続して仕事をしてもらえるかというところにあり、それが企業の発展に繋がるのであるから、有為な人材を排出せざるを得ないような環境を是正するということが、その企業の発展、成長を促すことになると思うのである。国についても同じであり、太宗も同じような危惧を覚えていたのであろうと考える。
特に国民の罪状の認否については、かなり、慎重にしなくてはならない。罪状の認否が個人的な意図によってなされて、善悪を混在させ、有為な人材までに罪がきせられるとするならば、そういうことが積み重なって、国民の感情を大きく逆撫でし、国民の反発から朝廷に反目し、国家の安泰を覆すようなことになり兼ねないからである。「君子は安くして危ふきを忘れず。存して亡ぶるを忘れず。治まりて、乱るるを忘れず。」である。そこで、まず、王珪がいうように司法官には、道理をよく理解し、よく通じている人材を登用し、道理に適った裁断をした者には、褒賞を与えるという制度を確立し、それを実行したのである。そして、更に、罪状の認否にについて、死罪については、朝廷の重臣たちにも評議させたのである。この国民に納得のいく慎重さこそが国家安定のためには必要なように思う。先日、橋下大阪市長、日本維新の会共同代表の「従軍慰安婦問題」についての発言などは、内容の是非は別として、慎重を欠いているとしか言いようがない。最近の政治家全般に言えることであるが、公の場所で公言することに、慎重さが足らない。「君子は言を慎む。」である。

 国家を長く保全する方策を問うた  
 
 貞観十六年、太宗、魏徴に問ひて曰く、「近古の帝王を観るに、位を伝ふる十代なる者有り、一代、両代なる者あり、亦、身に全きを得、身に生を失ふ者有り。朕、常に憂懼を懐く所以なり。或は恐る、蒼生を撫養すること其の所を得ざらんことを。或は恐る、心に驕逸を生じ、喜怒、度に過ぎんことを。然れども自ら知ること能はず。卿、朕が為めに之を言う可し。当に以て楷則と為すべし。」と。
 徴対へて曰く、「嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ。賢者は能く之を節して、度に過ぎしめず。愚者は之を縦(ほしいまま)にして、多く所を失ふに至る。陛下、聖徳玄遠にして、安きに居りて、危ふきを思ふ。豈に常情に同じからんや。然れども伏して願はくは、常に能く自ら心を制し、以て終を克(よ)くするの美を保たんことを。則ち万代永く頼(よ)らん。」と。
   
(大意)
 貞観十六年に太宗が魏徴に問うた、「近古の帝王を観察するに、帝王の位を伝えることが、十代の者もあれば、僅かに一代、二代の者もあり、中には、帝位を獲得した者自身が殺されてしまう者すらある。これが、恐れ心配する念が常に私の胸から去らないでいる理由である。もしかすると、人民たちを労わり、養うのに、その処置を誤っているのではないかと心配し、もしかすると、私の心に、勝手気ままな心が起こり、喜ぶことや怒ることが程度を過ぎ、でたらめな賞罰を行っているのではないかと心配している。しかしながら、自己のそういう点は、自分自身では、知ることができない。おんみは、私のために、そういう点を進言せよ。私は、きっと、おんみの言を手本とするぞよ。」
 魏徴がお答えして言った、「人の嗜欲や喜怒の情というものは、賢者も愚者もすべて同じで区別はありません。賢者は欲望や感情をうまく調節して、適当の程度を過ごさせず、愚者は、これを制御することができず、欲望や感情の趣くままに、勝手気ままな行動ををやり、多くはその処置をしくじる結果に至ります。陛下は、非常にすぐれた御徳が、測り知れないほど深く、かように、安寧の日にあっても、常に危機がくるであろう日のことを思っていらっしゃいます。ですから、一般の者の感情とは同じではございません。しかしながら、どうか御願いしたいことには、絶えず、ご自身で欲望や感情をうまく制御なされ、そして、有終の美を保っていただきたいと存じます。そういたしますれば、わが唐朝は万世の長きにわたって、陛下のお陰をこうむることができるでありましょう。」

 「常に能く自らの心を制す。」ことが長く王朝を続けていくための秘訣であると魏徴は述べているのである。絶えず、自分自身で欲望や感情をうまく制御することが、有終の美を飾り、万世にわたる国家を構築していくためには必要であると言っているのである。つまり、「中庸」が大切であると述べているのである。論語の巻第六・先進第十一に次のような孔子と子貢との対話がある。

 子貢問う、「師と商とは孰れか賢(まさ)れる。子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」曰く、「然らば則ち師や愈(まさ)れるか。」子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」

 子貢が孔子にお訊ねして言った。「師(子張)と商(子夏)とではどちらが優れておりますか。」孔子は言われた。「子張はゆきすぎている。子夏はゆきたりない。」それに対して子貢が問う。「それでは、子張が勝っているのですか。」それに対して孔子は言った。「ゆきすぎたのはゆきたりないのと同じようなもので、どちらも中庸を得ていない。」と。

孔子は、ゆきすぎても、ゆきたりなくてもいけない、人間にとって、大切なことは、中庸を得ることであり、それが、学問の総仕上げでもあると述べているのである。中庸については、何回か述べてきているが、過不及なく偏りのない中正の状態であり、雑多なものを包摂する調和均整の状態のことを言っている。この状態を作り、それを保つことができれば、天地自然の道理と呼応して、世の中を安定させ、万世にわたり、国家を統治していくことができるということである。
太宗は、常に緊張感を以て、国家の運営に当たっていることがこの問答からよくわかる。恒久平和な国家構築を願っているのである。
わが国でも、何回かこれまでも述べているが、今回の参議院議員選挙の争点となるのは、憲法改正の問題である。その中でも国民の権利と義務ということがひとつの大きな争点になりそうであるが、権利が強すぎても、義務が強すぎてもいけない。権利、義務共にバランスのとれたものにしなければならない。権利が強すぎると秩序の維持が難しくなる、義務が強すぎると覇権主義的になる。だから、「中庸」の精神が必要になる。様々な困難はあっても日本を国家として、ここまで、存続させているのは、まさしく、この「中庸」の精神であるように思う。恒久平和な国家を維持、存続させるために、我々はもう一度この「中庸」ということについて学ぶ必要があるように思う。

 君が暗愚で臣が諛(へつら)えば国は滅びる  
 
 貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、「明主は短を思いて益々善に、暗主は短を守りて永く愚なり。隋の煬帝は、好んで自ら矜誇(きょうこ)し、短を護り諫を拒ぎ、誠に亦実に犯忤(はんご)し難し。虞世基の敢えて直言せざるは、或は恐らくは未だ深罪と為さざらん。昔、微子は佯狂して自らを全うす。孔子、亦、其の仁を称す。煬帝殺さるるに及びて、世基は合(まさ)に同じく死すべきや否や。」と。
 杜如晦対へて曰く、「天子に諍臣有れば、無道なりと雖も、其の天下を失わず。仲尼、称す、「直なるかな史魚。邦、道有るも矢の如く、邦、道無きも矢の如し。」と。世基、豈に煬帝の無道なるを以て、諫諍を納れざるを得んや。遂に口を杜じて言ふ無く、重位に偸安(とうあん)し、又、職を辞し退を請ふこと能はざるは、則ち微子の佯狂して去ると、事理同じからず。昔、晋の恵帝・賈后(かこう)、将に愍懐太子を廃せんとす。司空、張華、竟(つい)に苦諍すること能はずして、阿隠 苟免(こうめん)す。趙王倫、兵を挙げて后を廃するに及び、使ひを遣はして華を収めしむ。華曰く、「将に太子を廃せんとするの日、是れ言ふ無きに非ず。当時、納れ用ひられず。」と。其の使曰く、「公は三公たり。太子、罪無くして廃せらる。言既に従はれずんば、何ぞ身を引いて退かざる。」と。華、辞の以て答ふる無し。遂に之を斬り、其の三族を夷(たいら)ぐ。古人云ふ、「危くして持せず、?(くつがえ)って扶(たす)けずんば、則ち将た焉んぞ彼の相を用いん。」と。故に君子は、大節に臨みて奪ふ可からざるなり。張華既に抗直して節を成すこと能はず。遜言して身を全うするに足らず。王臣の節、固(まこと)に已に堕ちたり。虞世基は位、宰輔に居り、言ふを得るの地に在り。竟に一言の諫諍なし。誠に亦合に死すべし。」と。
 太宗曰く、「公の言是なり。人君必ず忠良の輔弼を須(ま)ちて、乃ち身安く国寧(やす)きを得。煬帝は、豈に下に忠臣無く、身、過ちを聞かざるを以て、悪積り禍盈ち、滅亡斯に及ぶならずや。若し人主、行う所当らず、臣下、又、匡諌すること無く、苟くも阿順に在りて、事、皆、称美すれば、則ち、君は暗主たり、臣は諛臣たり。君暗にして、臣諛なれば、危亡遠からず。朕、今、志、君臣上下、各々至公を尽くし、共に相切磋し、以て理道を成すに在り。公等各々宜しく務めて忠?(ちゅうとう)を尽くし、朕が悪を匡救すべし。終に直言して意に忤(さから)ふを以て、輒ち相責怒せざらん。」と。
   
(大意)
 貞観二年に、太宗が侍臣たちに言った、「賢明なる君主は、自己に短所過失があることを思って、それを改めるように臣下の忠言もよく聞いて努力するから、ますます善良になり、暗愚な君主は、自信の短所過失をかばい守って、臣下の諫言を聞き入れないからいつまでも暗愚なのである。隋の煬帝は、好んで自己の才能を自慢し、その短所・過失をかばい守り、臣下の諫めを拒否したから、真実、君主の御意に逆らってまで諫めることは非常に困難であった。宰相の地位にあった虞世基が、進んで直言しなかったのは、そういう状態としては恐らく深い罪悪とならないのではあるまいか。昔、殷の微子は、紂王を諫めて用いられなかったので、にせ気違いのまねをして、自己の安全を保った。そして、孔子もまた、それを仁者だといっている。煬帝が臣下に殺されたときにおいて、虞世基も一緒に殺さなければならないものであったかどうか。」
 杜如晦がお答えして言った、「孝経に、「天子に君主の過失に対して容赦せずに激しく諫める忠臣があれば、たとい無道な天子でも、その天下を失うことがない」とあり、孔子が、「真っ正直であるなあ史魚という人物は。国に正しい道が行われているときにも、矢のように真っ正直であり、国に道が行われないときにも、身の危険などは考えずに、やはり、矢のように真っ正直であった。」と言っています。だから、虞世基は、どうして煬帝が無道な人物だからといって、臣下としての諌諍をいれないでよいということができましょうや。それなのに彼は、とうとう口を閉じて何も言わず、宰相の重い地位に、一時のがれの安楽を求めており、また、諫めが用いられないからとて、辞職して隠退を願い出ることができなかったということは、それは微子がにせ気違いとなって地位を去ったのとは、物事の道理が同じではございません。昔、西晋の恵帝と賈后とが、皇太子の愍懐太子をやめさせようとしました。そのとき、司空の張華は、結局、ねんごろに諫めることができずして、諂って事実を明らかにせず、一時のがれをしていました。のち、趙王倫が挙兵して賈后を廃したときになり、趙王は使者を派遣して張華を捕らえさせました。そのとき張華が言った、「天子と賈后とが、太子を廃しようとした日に、私は何も言わなかったわけではない。しかし、その当時、私の言がいれ用いられなかったのである」と。その使者が言った、「あなたは三公である。太子が何の罪もないのに廃せられるという状態になったとき、あなたの諫言が従われない以上は、どうしてどうして地位を引き下がって隠退しなかったのであるか」と。それに対して張華は、答える言葉がなかった。とうとう使者は彼を切り殺し、その親族まで皆殺しにしてしまいました。古人、孔子は「臣下は君主の補佐役である。その臣下が、君主の危険な時に支えず、ひっくりかえるのを助け起こさないなれば、どの点に補佐役たる相の必要があろうか」と言っています。それゆえ、立派な君子というものは、国家の大事件に直面しても、威力や利益によってその精神を動揺させることができない人物なのであります。張華は、自己の意志を曲げずしてその節操を全うすることができない上に、へりくだって、宰相の地位を退いてその身を全うすることもできませんでした。王臣たる者の節操は、ほんとうにすっかり、地に落ちたものでございます。虞世基は、その宰相の地位におり、煬帝に対して諌めをいうことのできる立場にありました。それなのに、結局、一言も君を強く諫めるということがございません。ほんとうに彼もまた煬帝と死すべきものでございます。」
 太宗が言うに、「御身の言は正しい。人君というものは、必ず忠良なる補佐の大臣の助けによって、初めて、その身は安く国家の安寧が得られるのである。隋の煬帝は、なんと、臣下に忠良の臣がなく、自身は過失を聞かないために、その悪が積み重なり禍いが充満して、滅亡するようになったのではなかろうか。もし、人君の行為が当を得ず、臣下もまた、君主の過ちを正し諫めることがなく、かりそめにも、君主の意におもねり従い、君主の行うことは、どんなことでも、ほめたたえているばかりならば、君は暗主であり、臣はおべっか使いの臣である。君が暗主で、臣がへつらい者であれば、国家の危亡は、すぐ、目前に起こる。今の私の志は、君臣上下、めいめいが最上の公平な道を尽くし、互いに戒めあって向上をはかり、そして、よき政道を完成するようでありたいと思っている。公等は、めいめい、誠意ある直言を尽くすように努力し、私の悪い点を正し救うべきである。しまいまで、直言して意に逆らったからといって、簡単に腹を立ててとがめるなどということは、しないであろうぞよ。」

 「君暗くして、臣諛すれば、危亡遠からず。」将にその通りであるように思えるが、こういうことは意外と多く社会の中で見聞することができる。現在でも、隋の煬帝のように自分の賢明さに自身を持ち、臣下の諫言、意見を一切聞かないという経営者は少なくない。確かに、経営者の手腕というのは重要なことであるが、それが、いつまでも続くということはありえないのである。時と共に周りの状況や環境は大きく変わっていく、もちろん、変わらないものもあるが、その変わるものと、変わらないものを見分けながら、うまく融合させていく企業経営をしていかなければ、長続きするものではない。そのためにも、現場をよく知っている部下の意見はよく聞かねばならない。また、部下は、上司や経営者におもねることなく、その企業の発展を促す意見を直言することが必要である。こういう、上下関係があってはじめて企業は成長発展するものでもある。そのためには、その企業内でのそういう、意見を言い合える環境作りが必要である。そうすれば、何事も前向きに取り組む意識が各自に芽生え、その意識が高まることによって業績も改善、向上していくようになる。
最近、特にこの意識というものの重要さを実感するようになった。私に限らず、個人であろうが、法人であろうが、自分で稼がねばならない仕事をしている人は、毎日毎日が勝負である。常に追われている状態である。そして、追い詰められることも多い。そういう時に、どういう意識を持つかということが重要になるのである。そこで、これ以上の努力はできないとか、あきらめるしかないという意識になってしまえば、行動も後ろ向きになってしまう。前向きの行動ができなくなると必然的に物事はうまく進まなくなる。物事がうまく進まなくなると悪循環に陥ってしまう。悪循環に陥ってしまうとしばらくの間復活することはできない。こういう悪循環を回避するために常に意識を高く、前向きに保っていく必要があるのである。悪循環に陥るのは、周りが悪いのではなく、自分自身の意識の持ち方によって決定されるのである。将に「萬化身から生ず」である。
ここで述べられている張華や虞世基には、三公や宰相としての意識が欠落していたということがいえようか。どう見ても、自分の保身しか考えていないように思える。こういう補佐役が多くいると、その国家、企業は破綻することは目に見えている。こういう補佐役をつくらないためにも君主たる者は、強権を振るって、自分の思うがままに、国家や企業を動かすようなことをしてはならないのである。

 偉大な唐王朝を建設することができたのは臣下の力のおかげである  
 
 貞観九年、太宗、公卿に謂ひて曰く、「朕、端拱無為にして、四夷咸(ことごと)く服す。豈に朕一人の致す所ならんや。実に諸公の力に頼るのみ。当に始めを善くし終わりを令(よ)くして、永く鴻業を固くし、子々孫々、逓(たが)いに相輔翼し、豊功厚利をして、来葉に施さしめ、数百年の後に、我が国史を読むものをして、鴻勲 茂業、燦然として観る可からしめんことを思うべし。豈に維だ隆周・盛漢、及び建武・永平の故事を称するのみならんや。」と。
 房玄齢進みて曰く、「臣、近古撥乱の主を観るに、皆、年四十を踰(こ)ゆ。惟だ漢の光武のみ年三十三なり。豈に陛下が年十八にして、便ち経綸を事とし、遂に天下を平らげ、二十九にして、昇りて天子と為るに如かんや。此れ則ち武、古に勝れるなり。少(わか)くして戎旅に従ひ、書を読むに暇あらず。貞観已来、手に巻を釈(す)てず、風化の本を知り、理政の源を見、之を行ふこと数年、天下大いに治まり、風移り俗変じ、子は孝に臣は忠なり。此れ又、文、古に過ぎたるなり。昔、周秦以降、戎狄内に侵す。今、戎狄稽?(じゅうてきけいそう)して、皆、臣吏と為る。此れ又、遠きを懐くること古に勝れるなり。已に此の功業有り、何ぞ始めを善くし終を慎まざるを得へけんや。」と。
   
(大意)
 貞観九年に、太宗が公卿にいった、「私は、天子の地位にいて、ただ腕組みをして何もしなかったが、四方の異民族は、残らず服従した。これはどうして、私一人の働きによるものであろうか。実に諸公たちのおかげによるものである。だから、国家創業の初めを立派にやり遂げたと同様に有終の美を全うし、永遠に、この偉大な事業を堅固に守り、子々孫々までも、互いに助け合い、偉大な功績や大きな利益を、後世に施すようにさせ、数百年の後において、我が唐朝の国史を読む者に、この唐帝国建設の偉大な功績と、文化国家としての盛大な事業とを、光り輝くばかりに見ることができるようにしたいということを思うべきである。なにもただ、盛んな周王朝や前漢や後漢の光武帝や明帝の時代の、昔の事業を称美するだけでよいであろうか。」
 房玄齢が進みでて申し上げた、「私が近古以来の乱世を治めた君主を観察いたしまするに、皆、天子となったのは、その年齢が四十歳を越えております。ただ、その中で後漢の光武帝だけが三十三歳であります。これらは、どうして、陛下が御年十八歳で、早くも天下を治めととのえる事業に全力を注がれ、ついには、天下を平定し、二十九歳で天子の位に登られたのとは、比べものになりましょうや。これは陛下の武が昔の帝王よりもすぐれているのであります。陛下はご幼少のときから戦争に従事し、読書なされるお暇がございませんでした。しかし、天子となられた貞観以来は、書籍をお手から離したことなく、常に学問読書に専心され、よい教化によって人民を善導すべきであることが政治の本源であるということをよく見抜き、道徳を重んじる政治を実行すること数年で、天下は非常によく治まり、世間の悪い風俗は一変し、子は親に孝を尽くし、臣は君に忠をつくすようになりました。これもまた、陛下の文が昔の帝王よりも、勝っているのであります。昔の周や秦以来、西方と北方との異民族は、常に中国の内部に侵入し、歴代の王朝が対策に手を焼いておりました。ところが、今はその異民族が、陛下のご威光の前にひれ伏して、すべて皆、わが唐朝の臣下となっております。これもまた、陛下の遠い異民族を懐柔する政策が、昔の帝王よりも優れ、勝っているからであります。このような偉大な功業があります以上は、どうして初めを立派にし、有終の美を完成させることができないことがございましょうや。

 太宗は、ここまで唐朝の基盤を作り上げ、興隆させたのは、決して自分の力だけではなく、臣下皆の力があってこそのものだといっているのである。それに対して房玄齢が、それは太宗の力によるものが大きいと述べている。こういう、君臣の関係があったからこそ、唐王朝は、世界に影響力をもった超大国になったのであるように思う。お互いに君を、臣下を、認め合うことが大切なのである。
 しかし、現実の社会では、何かに成功すれば、ここぞとばかりにそれは自分がやったものであるとして、世間に吹聴する者が多いのもまた事実である。仏教の言葉に「諸法無我」というのがある。これは、世の中にあるあらゆる事象は自分がやったものではないということである。もっといえば、世の中の事象で自分が一人で成し遂げたなどということは一つも無いということである。まず、自分がいまここに存在すること自体も両親があって初めて成り立っているものである。また、恩師や友人や家族、会社の上司や部下など多くの協力者の何らかの後押しを得て何事も成し遂げられるのである。これを忘れてはならないということである。こういう言葉を素直に自分に受け入れるということが大切であるように思う。そうするとそこに感謝の気持ちが表れてくることになる。この感謝に気持ち「ありがとうございます」という言葉が世の中のいい潤滑油になるのである。この感謝の気持ちがあれば、必然的にお互いの立場を理解し合えるようになり、お互いの立場を理解し合えるようになれば、自分の役割というものが見えてくる。自分の役割が自覚できれば、そのことに邁進することができる。自分の役割に邁進でき、上下一心同体となって行動できれば、如何なる局面も乗り越えて、目標、目的を達成できるようになる。これは、まさしく天地自然の道理である。天地自然の道理とは、この善循環のことをいうのである。
 太宗は臣下に感謝の気持ちを表し、房玄齢などの臣下は君主太宗に対して感謝の気持ちを持つ。この善循環があったからこそ、唐王朝は繁栄をしていったのであるように思える。また、この感謝の気持ちを永遠に持つことができれば、永遠に繁栄は続くのであろうが、そういかないのもまた、この人間社会である。しかしながら、この感謝の気持ちこそが、世の中をいい方向へ導く、善導するカギになるということは忘れてはならないように思う。
 先日、ヨットで遭難したニュースキャスターの辛坊治郎氏が、遭難の救助のために、大変な状況の中、ある意味命を賭して、協力をいただいた関係各位に対し、また、多くの国民の税金を使わしてもらったことに関して、大変な迷惑を掛けた謝罪と心からの感謝の意を表明していた。一方、言わなくてもいい従軍慰安婦問題で発言して、周りに多くの迷惑を掛けた橋下大阪市長は、自分の言ったことを肯定して、周りにいる多くの自分を支援してくれる人たちに対しても、形式的な謝罪しかしていない。この人には感謝の心があるのであろうかと疑いたくもなる。
これまでも述べてきたように、人間自分一人でできることなどは何もないのである。「ありがとうございます」という感謝の心がなければ、何事も善進しないのである。今日、今から、自分に関わるすべての人、物に対して「ありがとうございます」と声に出して言ってみようではないか。みなさん、ご清聴いただいて本当に「ありがとうございます」。