「孟子のことば」について

(平成18年7月〜11月)  
     

(1) 利益とモラルどちらが大切?

現代もこの資本主義、市場経済の世の中では、必ず企業や事業に対する利益ということを優先的に考えることが多いのは確かである。また、それを頭から否定するわけではない。それにより、本当に豊かな生活を送れるのであれば、それはそれで結構なことである。しかし、この「本当に豊かな生活」というのが、どういう生活なのかということは、規定されたためしが無いのが現状である。それは、それぞれの人の思いの中にあり、規定できないものでもあろう。しかし、一つだけいえることは、その根底には、社会的循環に添って生きている我々人類にとって、社会的循環を破壊させるようなことがあってはならないということがある。つまり、社会的循環を円滑にすることが出来ることであれば、どれだけ金儲けをしようがいいということであり、そういう状況であれば、そのお金は社会的使命の下で有効に費やされていくからである。もっと言えば、私利私欲だけのための金稼ぎは、社会的循環を滞らせる傾向が強いということでもある。だから、ここで孟子は、恵王に対して、利益ということを言われる前に仁義ということをよく考えてくださいといっているのである。そうでなければ、全民衆が皆こぞって、利益、利益と私利私欲に走り、結局は、上から下まで戦々恐々として、お互いの信頼などない世の中になり、収拾がつかなくなり、結局は国家の崩壊を招くであろうともいっているのである。また、民衆に思いやりの心と道義心を持たすことが基本であり、それができれば、利益は、あとから付いて来るものでもあるともいっているのである。現在、我々は、ここのところを皆で真剣に考えねばならないのではあるまいか。

(2) 五十歩百歩

ここに出てくる恵王のように自分のやっていることを肯定して、ここまでやっているのにどうしてこうしてくれないのかと思う人は多いように思える。自分自身も未だにそう思う時がある。しかし、よく考えてみると、ほとんどの場合が、相手に対して、自分の本当の意思が伝わっていない事が多いものである。自分の思い込みの強さから来る、人に対する依頼心とでも表現できようか。こういう思考をもって、上に立つ人は、必ず、最終的には下との信頼関係が崩れていくものである。Aという人にはBという人の悪いところをいい、Bという人にはAという人のいい加減さを話すというように、自分の中身は別として、自分を肯定し、他人を批判することばかりを行うようになると、何か大きな権力を持っているときはいいが、それがなくなると、誰も相手にしなくなるものである。独裁者の終局をみていればわかることであるが、必然的にそうなっていくものである。だから、上に立つ者は、常に目線を低くし、下の者の意見に耳を開き、自分の考えとの比較を行い、一緒になって対策を練っていくという態度が必要になるのである。つまり、上に立つということがえらいのではなく、また、絶対的にいい考えを持っているわけでもない、ただ、そういう役割をしているのだという自覚を持つことが必要である。現在の金融筋の色々な事件、事象を見るに付け、結局、上も下も同じようなことをやっているではないか。そういう意味では、上も下も五十歩百歩の時代ということが言えるのではなかろうか。前回勉強した、南洲遺訓にある「己を盡して、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」ということを常に実行するようにしたいものである。

(3) わが家の年寄りと隣の年寄り

自分の家族を大切にすることは重要なことである。そういうことを大切にできなければ、他に影響を及ぼすことも出来ない。思いやりや道義心をもって生きることが人間にとって一番大切なことである。それができれば、他に大きな影響を及ぼすことが出来る。つまり、常日頃、続けてやっている基本的なことを社会に広めていけば、大きかろうが小さかろうが、多くの人にいい影響を及ぼすことが出来るということである。現在、我々は、この小さなことをないがしろにしがちである。また、社会的分業化や社会の変遷の中で、なかなか、そういうことを出来ない、あるいは、させない時代になっているのかもしれない。たとえば、私はよく遭遇するのであるが、道端にゴミが落ちているのでそれを拾おうと思うのであるが、近くにゴミ箱がないというようなことである。オーム事件以来、テロ防止のためということでもあるのであろうが、とにかく、ゴミ箱が少なくなっている。また、清掃会社の仕事だから、汚したものもそのままでいい、とうようなこともよく耳にする。これは、自分でしないとならないことを自分でしなくなるということにも繋がる。そういう環境の中で育ったものは、それを当然のこととして受け止めるのではあるまいか。教育だけでは補えないものがそこにあるのである。そうであれば尚更、こういうことのしやすい環境や社会システムを再構築するということも必要なのではあるまいか。便利さを追求したことが、環境に悪影響を及ぼすようになり、合理性を追求した結果、逆に不合理になり、時間の効率性を追求した結果、逆にコスト増になる。そういうことも多く見聞きするようになった。もっと、人間らしく生きるということに起点を置いた社会の構築は出来ないものであろうか。その方が、より便利で、より合理的で、より効率的であるように思える。こういうことも、結局、小さく、実動していくことから始めて、一定の期間を経て、大きな輪にしていくことになるのであろうが、それでは、現状を鑑みれば、スピードが遅いように感じるのは私だけであろうか。

(4) 政治の目標は民の生活の安定

恒産と恒心、確かに、生活を成し得るための仕事があり、一定の収入がなければ、生活が出来ないので、人の道を行うということは、出来ずらいということが、一般的には言えるであろう。ここで管子の言う「衣食足りて礼節を知る」の言葉通りである。孟子は、そういうことから、宣王の仁政を行うには、どうしたらよいかの答えとして、まず、人民が飢えないように対処することが重要であると説いているわけである。つまり、皆が飯が食える国にしなければならないといっているわけである。そうすれば、人民は自然、指導者のいうことを聞くようになり、そこで、善導していくことができ、仁政が完成するということになるわけである。しかし、戦後の日本は、敗戦の淵から、なんとか、全国民が飯が食える国家にしようと努力して、経済大国にしてきたわけであるが、どうも皆が豊かになり、飯が食えるようになっても、国民を善導していこうとする根本的なことが、欠落してきたように思える。ここで、筆者の書いている「過ぎたるは、及ばざるが如し」まさにその通りである。物質的な豊かさに慣れ親しんでしまい、豊かさを数値や収入を指標として見てばかりきた結果、大切な精神的な豊かさをどこかに置き忘れてきたというのが、私の実感である。もちろん、物質的な豊かさを否定するわけではなく、それが精神的な豊かさに繋がらないというのが問題なのである。つまり、かなり、人間としてバランスを崩してしまっている人が多くなっているということではあるまいか。自殺者の数は、年々増え続け、毎年3万人以上、特に中高年層の数は増え続けている。このままの状態では、歯止めがかからないのではないかと心配になる。この状況を少しでも和らげるためには、中高年の心のケアももっと必要なのではないかとも考える。今の中高年の人たちは、一番学ばなければならないときに、高度成長を支えるための受験勉強、仕事につぐ仕事の中で余裕もなく人間の生き方などについての教導をされていない人が多いのも事実であろう。つまり、人間力が希薄なのかもしれない。色々な面で教育改革が言われてきているが、「中高年のための人間学」というようなプログラムも必要なように思える。そういう意味でのお手伝いは、我々にもできそうである。

(5) 民の憂いを自分の憂いとせよ

王道をなすための基本的な姿勢について説いている。王が人民の意いを我が意いとするところからいい治世が始まるということである。王陽明は、前に勉強した「抜本塞源論」の中で「万物一体の仁」を唱えている。その中では、「人間は天命により、それぞれに治世者は治世者としての、百姓は百姓としての、木こりは木こりとしての役目を与えられており、自分の職に邁進し、それを遂行していくのが使命であるが、イザ、誰かに何か事が起ったときには、その人の身になって、悲しいときには一緒に悲しみ、楽しいときには一緒に楽しみ、お互いに心を通じ、助け合う。」そういう治世が一番バランスのとれた人間にとって理想の社会であるといっている。このように、人のことを我がことのように考えることが人間としての本来の姿であるということが儒学の根底にはある。(そういう意味では、同じ民族であっても韓国は儒家的であり、北朝鮮は法家的であるということがいえる。)確かにこのような考えがなければ、その国は王の独裁的なものになってしまう。そして、独裁的な国家には、必ず終末が来る。それは、歴史が今までに何度となく証明している通りである。そういう意味では企業も同じである。だから、社長や重役は、偉いのではなく、その役割を負わされているのだとの自覚を持つ必要がある。もちろん、自分の役目を果たすためには嫌われ役も買って出ないといけないこともあるであろうが、常に心は自分の部下や会社全般を社員と同じ目線で見ていく必要がある。更に、消費者の思考を理解すると言うことも重要である。この間、テレビを見ていたら、地方の行政改革に成功している首長たちが異口同音にそのようなことを言っていた。企業や事業を長続きさせていくための要点はここにあるように思える。特に代表者は、ここに書いてあるように「先憂後楽」の精神が必要になると考える。

(6) 古代の老人福祉

前回の南洲遺訓の時にも十二に出てきていた、鰥寡孤獨(かんかこどく)について、書いてある。年老いて妻のない人を鰥、年老いて夫のない人を寡、年とって子供のない人を獨、幼くして父を失った人を孤と言うとのことである。若いうちは、そういうことについてはあまり気にしないが、年をとってくるとそういうことが身に沁みてくるように思える。特に現在は老人の孤独死などの現状を見るにつけ、なお一層そういう風に思う。また、身寄りがないという人たちの孤独さは、その身になってみなければわからないものでもあろう。そういう意味では、年老いて身寄りがないというのは、昔も今も自分の孤独を誰にも訴えることができない精神的に困窮した民なのであろう。前述した自殺も統計を取ったわけではないが、このような境遇の人たちが多いとも考えられる。孟子は、周の文王がそうしたようにこの四者を救うことが、仁政を行うための第一歩であるといっているのである。これからくる老齢化社会、そこに生まれてくる様々な問題、例えば、大幅な退職金支払いによる中小企業の負担増とそれによる倒産の可能性、年金支払いによる世代間の断絶、企業における技術継承の問題など、これについては、別枠で「新現役・東京仁の会」を設立して、活動を始めているが、実は、その世代の人たちだけに拘わらない、全世代で真剣に考えなければならない問題なのである。更に、老人福祉、老人介護などについてもまだ大きな問題を残しているように思える。また、ここに書いてあるように尽心上編には、文王が行った老人対策についての具体例が述べてあるとのことであるが、老人には肉食が必要であると言うところは、興味深い。ここで言う肉は、豚肉と鶏肉であるが、確かに私の小さい頃には、鹿児島では、豚や鶏を庭先で普通に飼っている家が多かったのを思い出す。そして、何か祝い事があると、その肉を祖父や祖母などの年長者に最初に出していたように思える。それは、祖父、祖母に対する尊敬の意味もあったのであろうが、健康も考えてのことであったのであろう。確かに長生きをする人は、南西諸島や沖縄に多いことを考えると、鶏肉や豚肉をよく食べる地域に多いのも納得できるように思う。老人と肉食、現在の栄養学的な感覚では、何か異質に感じるが、前述のようなことからしても必要なことであるように思える。

(7)返事に窮して話題を変える

孟子と宣王との会話であるが、自分より目下のものは良く見えるが、自分自身が良く見えていない典型的な例である。これは、また、トップリーダーが、よく起こす弊害でもある。表向きは立派なことを言うが、また、他人のことについてはよく気がつくが、結局、本気で自分自身を省みることをしないので、自分の中に何も醸成されないということでもある。この調子でやっていると、必ず自ら墓穴を掘ることになる。自分が気付かないうちに周りが崩壊していき、気付いてみると何もなかったということになる。過去に、ある有名企業の二代目オーナーが、三代目への繋ぎで、自分が推挙して、社長に就けて、陣頭指揮を取らせていた有能なトップリーダーの力量に嫉妬し、三代目への相続に不安を感じ、三代目への世襲のために、その社長を辞任に追い詰め、周りの陣容をすべて変えて、跡目をとらせたということがあった。結局、その三代目は、その後、その会社を追われるはめになり、この会社のオーナー支配は終焉することになるのである。これなどは、トップリーダーが私心を持って、自分自身を省みることをしなかった典型的な例であるように思える。だから、いつも言うようにリーダーたるものは、自分自身を省みる時間を一日に最低一回は持たなければならないのである。また、何回も述べているが、王陽明のいう「去人欲存天理」「省察克治」「事上磨錬」を実行することでもある。まず、私利私欲を去り、天地自然の理に従う姿勢を作り、常に自分を省み、その中から、これから行動することを察し、そのことの実行のためなら、如何なる事も乗り越える心構えを持ち、実行しながら、自分自身を磨き、鍛錬していくというような意味になる。これは、一般的には難しそうに思えるが、形は色々あろうが、志を以て、事業を成就させてきた、多くの人たちが実行してきたことでもある。そうすれば、自分がよく見えるようになり、このような弊害はなくなるように思う。

(8) 輿論の尊重

生殺与奪の権利をすべてといっていいくらい持っていた当時の諸侯に対して、物事の判断、決断をするには、民意がとても大切だということを孟子は論じているのである。確かに生殺与奪の権利は、その国の統治者のものではあるが、それを思うがままに振り回していたのでは、自分の統制が利くうちはいいが、そうでなくなった場合には、必ず、その統治者自身に大きな災いがふりかかるものである。近年でも独裁者といわれる人たちの末路を見ていると、最終的には民衆から、反発を受け、攻撃を受け、銃殺を始めとする刑に処されるか、国外への退去、逃亡を余儀なくされるかの結果にしかならない。何回か過去に話をしたことがあると思うが、「易」でいう「山地剥」から「地雷復」の卦への変化のようなもので、物事が駄目になるときは、下のほうから崩れて行き、物事が新たに作り上げられていく時には、下のほうから築き上げられていくというような事象として捉えればいいのではなかろうか。これは、天地自然の理なのであろう。孟子は宣王にそうならないためにはどうすればよいかということを指南しているのである。その極意は、民衆の代表である自分を自覚して、民意を反映させた、判断や決断をすることであるといっているのである。そうすれば、バランスのとれた、長続きする国体が維持されるともいっているのである。この、封建主義謳歌の時代に、民主主義を訴えているのであるから、諸侯たちに孟子の説が取り上げられなかったのも当然であったろう。しかし、これは前述のように、世の中の真理をついており、この後、多くの諸侯たちは滅亡し、それを統一した秦の始皇帝も一代でその帝国を滅亡させてしまうのである。政治家も、事業家もここのところを認識していなければ、道をあやまることになるであろう。どんな時代でも民意を反映させるということは、国や企業の発展のために不可欠な要素である。今、王子製紙の北越製紙へのTOBの問題が、毎日のように報道されているが、それは、経営陣だけの駆け引きではなく、本当にどうなったほうが、そこに勤めている人たちや消費者にとっていいのかという判断のもとに行われるべきではなかろうかと感じる。

(9)暴君は王様とは言えない

中国の歴史を見てみると、それぞれの時代、支配者が変われば上から下まですべてが、変わるというほどの大きな変革がその節目にある。そういう意味では、支配者=王ということが言える。また、そういう意味からすると、どちらかというと王道の国というよりは、覇道の国ということが言える。また、広大な国を治めるためには、それは致し方ないことだとも思う。だから、中国には、易姓革命という思想が残っているのである。それは、この章のあとの余話の中にも書いてあるが、天の意思をついで、天子になった人物の歴代続く子孫に暴君が出てくると天は別に自分の意思を継ぐ人物をたて、暴君を追放させ、その人物に天子の使命を与えるという思想である。
それに引き換え日本は、二千年以上続いている「天皇家」があり、それを「天子」として認証し、如何なる時も、それを尊重してきた。過去にそれをその時の支配者層が自分たちの都合のいいように利用してきた歴史はあったが、日本人は、それを支配者というよりは、自分たちの精神的支柱として、ずっと遵守してきたということがいえるのではなかろうか。ある意味、日本人にとって理想の家族像であり、人間像であったかのように思える。だから、時代がどう変わろうとも、これだけは、変わらなかったということが言えよう。伊勢神宮の式年遷宮などは、20年に一回いまでも、必ず行われている(戦国時代の100年間を除いて)。このことを語りだすと長くなるので、このあたりで止めることにしよう。ここで孟子が言っているのは、そういう中国的な思想からの考え方であるということが言える。しかし、このことは、日本の実質的な指導者、政治家や企業経営者などのことを言っていると考えると、いろいろなことが当てはまってくる。自分がその地位に就いたら、自分の都合でしたい放題のことをする。あるいは、最初は、おとなしくしているが、慣れてくると道義に外れたことをどんどんやってのける。そして、それを反省もせず、当然のこととしてやってしまう。こういう、政治家や企業経営者を幾人となく見てきている。また、人間はそうなりやすいので我々も反面教師としてそうならないように注意せねばならないことでもある。そういう、トップやリーダーは即刻罷免すべきであるといっているのである。孟子に言わせると天の声は、民の声ということになるのであろう。今回の長野知事選には、少しそのような兆候があったのではなかろうか。

(10)本当の勇気とはどんな勇気?

「自ら反して縮くんば、千万人と雖も、吾往かん。」という有名な言葉が出てくる。自分自身で深く反省して、正しいという確信を得たら、相手がどんなに大きくても、多くても立ち向かっていくべきであるということである。その反対に正しいという確信も持たずに立ち向かえば、一人の人間さえ倒すことができないというのである。それは、正しいという確信がもてないのは、自分になにかやましいことがあるので、いつもびくびくしていなければならないからだといっているのである。また、正しかろうが、正しくなかろうが、立ち向かっていくのは、蛮勇という。これについては、この章に孔子が子路を嗜めていることが書いてあるが、無鉄砲なことを言うのであり、ただの乱暴者にすぎないということである。ここの「自ら反して縮し」という言葉の中には、大義、正義、道義という三つの言葉が含まれている。自分自身を省みてみて、そのことが道義的なのか(ちゃんと人の道を踏んでいるのか)、世の中にとって正義なのか(不正はないか、私利私欲に偏ってないか)を判断し、それでよしとなったなら、大義、目標や目的を明確にして、そして、それに向かって「千万人と雖も吾往かん」となるのである。また、そういうプロセスを踏まなければ、これもまた、蛮勇と一緒である。そして、この正義、道義、大義の三つを常に行動の原点として、積み重ねていくことにより、「浩然の気」が涵養され、何ものにも屈することのない道徳的勇気が醸成されるといっているのである。孟子は道徳的勇気が本当の勇気であるといっているのである。最近、TOBが多くの企業間で行われるようになった。日本語に訳せば敵対的買収であるから、ある意味、有無を言わさぬ乗っ取りというような意味に思えるが、日本では、このあたりがまだ曖昧に行われている傾向が強い。いい、悪いは、別として、こういうことを実行するに当たって、考えなければならないのが、この孟子の言葉ではなかろうか。つまり、買収した後、これに関わる従業員や消費者が今より充実した生活がおくれるのか、買収動機が自社の私利私欲からだけに発してないか、今後のこの業界の発展のためにどう大きく寄与することができるのか、それを明確に描けるのか、そして、これがすべてクリアできるのであるならば、「千万人と雖も、吾往かん」の精神で行くことであろうと考える。

(11)浩然の気

前述もしたが、浩然の気についてのことが書かれている。それは、自分自身を省み、義を積み重ねることによりできる大いなる気であり、至大至剛で、天地の間に充満するくらいに広大であるといっているのである。また、義を積み重ねることに少しでも力を抜いてしまうと、その気はすぐに萎んでしまうとも言っているのである。更に、一時的に外の気を持ってきても、生成されないものでもあるともいっている。つまり、日々、大義、道義、正義を以って行動し、それを積み重ねていくことによってのみ浩然の気は、得られるものであるということである。これを得ることができれば、いかなることがあろうとも揺れず、流されない、泰然自若とした心持で常に居られ、どんな難題も解決することができるということになろう。しかし、この気は、いつまでに成就するというような限定されたものではなくて、いくらでも大きくなる無限の可能性をもったものであるということでもある。我々が、たとえば創業したとしよう、それぞれの思いがあって、創業するわけであるが、なかなか、事業が思ったように進まずに、資本金も食いつぶし、収入がなかなか入ってこない状態になったとしよう。そして、そういう状況になると何か、手近に収入を得ようと躍起になったり、資金の補填のために手軽なところから、借金をしようなどと考えて、自分の創業時の精神が失われてしまい、何をやっていたのかわからなくなってしまい最終的には挫折してしまうという傾向が強くなるように思う。そうなる場合を鑑みて、考えなければならないのが、この浩然の気の涵養ということになろう。創業時から常に、自分自身を省みて、自分の行っている仕事や日々の行動が、「義」という規範に外れてないかのチェックを行い、修正をしながら、積み重ねていく努力をしていくということを行っていれば、たとえ、資金が枯渇してきても必ず、いい道が見出されるということになる。もちろん、援助してくれる者も現れるということになる。だから、そうして来ていないのであれば、創業の原点に戻って一から始めるということである。もっといえば、そうならないのは、自分の「義」の積み重ねが足らないからである。ましてや他人や社会のせいではないのである。また、この「義」を積み重ねるためには、自立自尊の精神が必要になる。また、絶え間なく、休むことなく行動を起こしていかねばならないということでもある。こういうことを続けることができるなら確かに大きな事業に進展していくことは間違いあるまい。

(12)畑の苗を引き伸ばした人の話

目的を持ちながら、事業を遂行していくのは当然のことであるが、無理な目標を掲げたり、目標達成のために「義」に反した行動をとってはならないということである。そういうことをやっていれば、必ず、後に禍根を残すということでもある。たとえば、商工ローンやサラリーマン金融業者が顧客に対して、無理な取立てを行っていることなど社会問題になっているが実はその従業員のノルマ達成のためにやっているということが背景にあることなどを考えると、結局、無理強いは、顧客にとっても、その企業にとっても悪影響を及ぼすということがいえるのではないだろうか。政治についても、改革を旗印に本当に「義」を以って行動してきたかと考えると、非常に疑わしい面が多い。改革の食い散らしをやってきたのではないかというような気がしてならない。というか、改革といっていれば、民意を味方にできるというような風潮が蔓延しているように思える。このような現象は、後に必ず禍根を残すことになると思う。先般の長野知事選挙についても言えることであるが、田中知事も最初は、県政改革のために「義」を以って行動してきたのであろうが、いつしか、それを忘れ、県政とは関りのない他事に関与したり、勝手に住民票を移したり、パフォーマンスの割には公約が実行できていなかったりする現実を見るにつけ、有権者たちは、離れていったのであろうと考える。また、「脱ダム宣言」などで県民の意識を助長させた結果、こういうことになったように思われる。実は、改革というものは、最初から表に出るものではなく、十分な準備の下に行われるということを忘れてはならないのではないだろうか。そして、時を期して、実行されるものであるように思われる。つまり、常に自分から省みて「義」を踏みながら、納得いくまで準備して、天の時を得て実行するというようなことになろうか。現在は「改革」という言葉じりで民意を助長させているに過ぎない世の中であるように思われる。

(13)覇者と王者

覇道と王道については、昔から良く話されてきたことである。現在の市場経済中心の世界は、中国の戦国時代とは形は変わっているが、将に覇道の世界であるということがいえる。それが、大きくは国内にとどまらず、国際的な動きになってきているのが、現状である。金融や産業界でのM&A、宗教やエネルギー問題に発する地域紛争や戦闘など、将に覇道の世の中である。そういう中で王道を説くというのは、孔子や孟子のようになかなか困難なことのように思えるが、実は、王道を貫くことが国にとっても企業にとっても長期的に見て大切なことであるということに気付いている人は少ない。国や企業の成り立ちについて考えてみるとよくわかることであるが、当初は、その地域や事業で暮らすために個々人の連携を深めていき、自分のできないことを保管しあいながら集合体を形成していくわけである。その結果、国家や企業が造成されてくることになる。また、これを適切に実行していくためには、指針を明確に示したり、そこに集う人たちを誤らせないように導く人間が必要になるわけである。それがリーダーと呼ばれる人たちになるのである。要は、もともと人間社会は地域や事業を基点としているので、その中身を充実させることによってのみ発展させることができるといえるのではないであろうか。そして、中身を充実させることによって、その特性に他の地域や事業をやっている人が目をつけ、協力を依頼されたり、研修を依頼されたりしながら拡大していくということになるわけである。これは、将に王道に相通ずるものがある。つまり、大きくなるためには、地域や事業に携わる人たちの技術力や人間力を磨くということが重要であるということである。そして、これを行うことにより、確固たる基盤が造成されるため、周りの動向や環境にあまり影響されないものになるということがいえよう。また、逆に周りの動向や環境に常にフレキシブルに対応できる体制も同時に造成することができる。また、これは、そこにいる人たちをバランスよく導いていける徳あるリーダーの存在がなければできないことでもある。一方、覇道というものは、外に向けて、財力や戦力を持って、他を制圧していくために本当に国や企業に必要な技術力や人間力の造成がおろそかになり、基本的な基盤の造成ができないために、財力や戦力を永遠に持つことができるのであれば別であるが、必ずどこかにひずみができて、いつしか大きく瓦解するものである。「覇道を以って他を制したものは、覇道によって他に制せられる。」ということである。ここにも書いてあるように、小さくてもピカッと光るもののある国家や企業を作るということが、世の中のためには役立つということがいえるのではなかろうか。そして、それがいつかは大をなすのである。

(14)よちよち歩きの子が道に飛び出したら

現在でも色々なところで論争のある性善説について、この章では説いてある。ここに述べてあるように孟子は、人間は誰しも四端(惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心)、特に惻隠の心を生まれながらにして持っていると言っている。惻隠の心があれば自然生ずるものであるということで他の三つが書かれているのであろうと私は考える。そして、この四つの心を学問で磨くことによって、「仁義礼智」が完成されるともいっているのである。確かに我々には、自分より弱いものに対する保護意識は誰にいわれたわけでもなく本能的にあるように思える。ただ、それをいつでも、どこでも発揮できているかといえば、疑問ではある。そこには、機会的な事由や時間的な事由や金銭的な事由があるからである。所謂、そうできない、そうしない環境を自ら作り出しているということでもあろう。また、社会生活に馴染めば、馴染むほど欲も生じてくるものでもある。そして、それはいつしか惻隠の心を越え、その心を覆ってしまい、欲心が自らを支配することになっていくように思える。人間は、赤ちゃんのときは、欲得なく、素直で自然そのものである。それが、成長するにつれて、多くの社会生活を体験することにより、いいものも悪いものも身についてくるということであるから、おそらく人間の本性というものは、赤ちゃんの心であり、素直な、善の心なのであろうと考える。本性が悪であれば、この世の中は、已に暗黒の世界になっているのではなかろうか。そういう意味からしても、私は孟子の「性善説」に賛成である。孟子に対して「性悪説」を唱えている荀子にしても、人間の規範をちゃんと指導すれば、善に向かわせることができるといっているのであるので、もともとある善に人為を以って向かわせるというような意味にもとれる。今の「性善説」「性悪説」の論争は、表層のことを捉えてのものであるように思えてならない。マザーテレサはこの惻隠の心を常に発揮できる人であったかのように思えるが、日本での講演のときに、ある人の「どうすれば、人のためにつくすことができるのでしょうか。」という質問に対して、「まず、貴方自身が行動を始めることです。」と答えたそうであるが、これなどは将に「貴方も私と同じ、惻隠の心を持っているのだから、その心を発揮しなさい。」といっているかのようである。もちろん、世の中は、「性悪的観念」をベースにしたシステムや規則が多く作り出されている。ほとんどがシステムや規則というのはそうである。そういう世の中で、色々な判断をしていくためには、益々、善の心を磨いていく必要があるのではなかろうか。

(15)天の時、地の利、人の和

物事に対峙する時、「天の時」「地の利」「人の和」は、どれも大切であるが、一番、重要なのは「人の和」であると孟子は述べている。例えば、先日、TOBに失敗した王子製紙などは、そのいい例であるように思える。天の時は、将に、これから世界に冠たる事業を推進していくためには絶好期である。地の利は、業界ではNo1であり、この業界を牽引する立場にある。それを楯に突き進もうとしたのであるが、北越製紙は、三菱商事との資本提携を推進していて受け入れる姿勢を示さない。また、業界2位である日本製紙がそれをさせてはならじと資本の一部を買い入れる。つまり、最初から、業界としての人の和が整ってなかったということができる。先日、仕事で岐阜県のあるホテルに行ったのであるが、四方を競合に囲まれて、売り上げが上がらなくて廃業に追い込まれたものを見事立て直した経営者に会った話の中で、その第一の要因として彼が言っていたのは「皆で力を合わせて、立ち直るまでは、休みなく働くことですね。」ということであった。そのホテルは、立地も他のホテルより良くなく、部屋数も他のホテルより少なく、店舗も古いのであるが、その地域での稼働率はNo1になっているとのことである。事業というのは、時期や時代、立地も確かに大切であるが、何よりもその事業に血を通わす人材が重要であることは否めない。というか、これがなければ、事業は始まらないのである。現在は、バブル時代を髣髴させるかのような、いや一部地域はそれを越えるような、地価の上昇に伴い、事業というよりは、金融や不動産を重視している世の中になっているが、こういうことが横行すれば、必ず、破綻するものである。先のことを考えると、また、これからの事業ということを考えるといい場所に持っていれば不動産は今が売り時であると考えられる。根本を考えると、不動産というのは、事業がなければ成り立たないものである。事業を続けていくことができれば、不動産はいつでも買えるのである。しかも今後は、おそらく、今より、かなり、安くである。ちょっと話がそれたが、こういう時代だからこそ、「人の和」を大切にして、自分の事業の精度を上げていく必要があろう。TOBなどのM&Aや不動産売買を悪いというのではなく、そこに働く従業員や関係者を本当に掌握し、その人たちが、一丸となって行動でききる指針を示した上で、何事も行動に移すことが重要であるように思える。何よりも先に、まず、「人の和」である。

(16)教育しないと人は動物になる

今、将に、総裁選の争点の中に教育問題があることは、皆さんもよくご承知の通りだと思う。ようやく、本気でこの課題に、実は、一番大切な課題に取り組んでいく姿勢が見えてきたといっていいであろう。孟子のいうように、教育をしなければ、人間は、禽獣と化すのである。それでは、本当の教育というのは、何なのであろうか。戦後教育の要点は、高度成長を支えるということに相俟って、知識を中心にした教育が主流をしめてきたかに思う。それはそれで、社会の経済的発展を下支えしてきたという意味では、役割を果たしてきたのだということは、否定できない。しかし、経済が発展し、功利主義が行き過ぎてしまうと、人間的な価値観が金銭的な価値観に摩り替わってしまうという状況に陥ってしまい、金儲けをする人が立派な人だということになってしまう傾向が強くなってくる。また、それだけを目標に邁進する若者たちが出てくる。金儲けをする、あるいは、金儲けができる人を否定するわけではない。それはそれで社会の中でそれなりの役割を果たしているのだと思う。もちろん、金儲けの仕方や使い方に何か、問題があれば否定されるべきであるが。しかし、金儲けをする人が立派な人だというのは、間違いである。前述のように、それは、ただ単に外の人と同じように、ひとつの社会的役割を担っている人なのだという理解になるからである。本当に人間として立派な人は、ここにある「父子の親」親子間の親愛の情を深める、「君臣の義」上司、部下間の礼儀、礼節を徹底する、「夫婦の別」夫婦の役割分担を明確にする、「長幼の序」年上の人には敬意を表する、「朋友の信」友人間は信頼を深める、という行動が常にできる人であろう。この五教(五倫)が人間としての生き方の基本であるということは、時代が如何に変わろうが、変わることのないものであるということが言える。今後の教育改革の論点はここにあるのではないかと考えられる。つまり、人間としての基本的教育を下支えとして、しっかりした基盤を作り、あるいは、作りながら、その上に知識教育を載せていくという方法である。ここで重要になるのは家庭教育である。つまり、「躾」である。このように、今後の教育改革というものは、ただ、学校や先生に頼るだけのためのものではなく、社会全体で考えていかなくてはいけないものであるように思える。

(17)大丈夫と君子人

前述の本当に立派な人格をもった人とは、どんな人かということをこの章では、大丈夫(だいじょうふ)という言葉で規定してある。「仁」思いやりを持ち、人間愛に富んだ人、「礼」礼儀礼節を重んじ、それを実践する人、「義」社会正義を旨に正道を歩く人この三つの要素を兼ね備えている人が大丈夫であり、立派な人格を持った人であるといっている。これに「智」知力、判断力を持った人を付け加えれば「仁義礼智」の徳となる。更に「信」信用、信頼に厚い人を付け加えれば、「仁義礼智信」という儒学でいう五常(五徳)になる。儒学では、この五常を持った人のことを徳のある立派な人格を持った人間、つまり、大丈夫であり、君子人であるといっている。南洲遺訓でも孟子のこの言葉は、勉強をしたが、このような人格が養成できれば、どんな状況でも揺れず、流されない人格を形成することができるということである。そして、その涵養のための要点は、前述の五教の実践に他ならないのである。つまり、すぐれた人格は、常日頃の社会生活の中で、五教のような身近なことを実践することによって培われてくるものであるということである。また、四書の「大学」の中に、立派な人格を持つためには「修身」(身を修める)ということが大切であると書かれている。そして、そのためには「正心」(心を正しくする)「誠意」(意念を誠実にする)「致知」(道義的判断をする)「格物」(善悪を理解する)が必要であると書かれている。これは、自分の心の問題であるが、これを涵養、確立させるためにも五教の実践が必要であるということがいえよう。そして、「修身」が実行できれば、「斉家」(家がととのい)「治国」(国が治まり)「平天下」(世の中が平和になる)という流れで世界平和が実現するということになる。我々は、実社会の中で見逃しがちな、あるいは、見てみないふりをしている、当たり前のことや善行をしっかり実践するということで、自身の人格を涵養していくということが必要であろう。

(18)自分で招いた災難は逃れられない

最近は「仁者」と見せかけて、不仁な事をするという事象を見聞きする機会が多い。今、公判中で「死刑」が確定した、オウム真理教の麻原彰光(松本知津夫)などは、その代表的な人物だと思う。人間愛を基調とした、神秘的な経典を作り、理想の社会への誘いは、この経典による以外はないとし、多くの信者を集め、洗脳し、組織を大きくしていく。そして、あたかもこの世の中に現れた救世主であるかのように、仁者の如くに振る舞い、その実、自分の世界を作るのに専念し、その中で自分の私欲を果たそうとする。そして、私欲を果たすために、戒律を厳しくし、個人を恫喝することにより、多くの資金を集め、テロ集団を作り、それに反発したり、邪魔なものには、殺人も辞さない行動をし、無差別な殺人を行う。やくざやマフィアの世界のほうが余程、まともに見えるようなことを平然とやっている。そして、社会問題になり、逮捕され、検察に追及されると、「あれは、弟子がやったことで、俺がやったことではない」などと、人のせいにして、自分の責任のがれをする。どうであろうか、今、代表的な例を話したが、自分の身の回りを見ても、あるいは、自分自身を振り返ってみても世の中は、このように、小さなことも含めて、責任逃れをする傾向が如何に強いか。そして、その自分への責任のなさが一部の真剣に世の中をよくするために活動している責任感の強い人に負担を掛け、本当に役に立つ人材をつぶしているような傾向があるのではないかとも考えられる。本当に世の中を良くしていこうと思うならば、自らを欺かず、自分の社会的責任を明確に持ち、人を批判することをやめ、理想社会の構築のために邁進できる自分をまず作るということが必要になるわけである。その心を涵養する要点は、前述のような教育を行うこと以外にはないように思える。いつも申し上げるように、岡田先生が言われていた「萬化身から生ず」(世の中の自分に関わる様々な事象は、いいことも悪いことも他人が起こしたものではなく、すべて、自分自身が起こしたものである)という言葉を真摯に受け止めることが重要であろう。

(19)自暴自棄

自暴自棄になる人は、仁や義の精神を根本的に信じていない人という事が言えようか。確かに、そういう精神がない人とは、最初から話ができないような気がする。また、仕事も一緒にできないように思える。最近、自暴自棄になって起る犯罪が多くなっているように思える。この一ヶ月間でも、ニュースで報道されるだけでもかなりの数が上げられているし、また、予備軍も多いように思える。そして、これは、他人事ではなく、自分たちの社会問題として捉えていくことが重要に思える。思いやりや信頼に満ちた生活環境、正しい道を薦める教育と人間関係を豊かにする礼儀礼節の実践、こういう人間として、当たり前の生活空間を作ってこれなかった私たちの責任であるようにも思える。もう4年前になろうか、私の母校の中学校で、講演をさせていただいたときに聞いた話しであるが、この中学校も数年前、非常に荒れた時代があったらしく、先生たちが非常に生徒の対応に手を焼いていたらしい。そこで、先生や父兄が集まって話し合いをして、父兄や先生が当番で、毎朝、校門に立ち、「おはようございます。」と、登校する一人一人に挨拶をすることを半年くらい続けたところ、いつの間にか、校内の荒れはすっかり治まり、元の姿になったという話を聞いた。生活空間の環境を変えるためには、このように、小さくても、道理に合った行動を身近なところから、身近な人たちが実行するということが必要であるように思える。また、その講演のときの感想としては、「立志と人間力」という話をしたが、後からの生徒たちの感想文をみても、私の話をちゃんと理解していてくれて、自分の将来のことをしっかり自覚しているということに感動を覚えた。やはり、どんなものでも素直に受け入れられる時期に人間としての根本の教育は必要であると、そのとき痛切に感じた。色々な少年犯罪をわれわれ大人はただ傍観するのではなく、そういうことを起こさないためのいい環境を作る事に少しでも力を注ぐべきではないだろうか。

(20)目は心の窓

この著者の加藤先生が書いているように、赤ちゃんの目は清く澄みきっている。その目を見ていると、何か自然顔がほころんだり、気持ちが和やかになったりするものである。前述もしたが、赤ちゃんは人間本来の良心そのものの姿であるということが言えるのではなかろうか。人間の基点は実はここにあるのであろう。自分も赤ちゃんだったときがあったのであるが、周りの環境や事象の変化により、人格が形成されていくために、いつしか、そうだったことを忘れてしまい、流れに乗ろうと躍起になって、一番肝心な人間としての原点を失ってしまう。そして、挫折して、初めて、そういうことを思い起こす。そしてまた、学習能力なくこういうことを繰り返す。まだ、そういうことを思い起こすことができる人はいいのであるが、色々同じようなことを繰り返しても帰る原点をわからない人たちも多くなっているのが現代のように思う。そして、そういう人たちは、自分に本当の反省なく次のことに望むので、前のことにも多くの禍根を残しながら、多くのそのことに関わる人に意識する、しないに拘らず、大きな損失を与えるという結果になるのである。今回の安部首相の政治構想の中に「再チャレンジ」という言葉があるが、そういう援助体制を布くことは大変いいことであると思うが、是非、自分を深く反省でき、新たに次へのスタートを切れる人を厳選してほしいものだと思う。最近、色々な人から「人は表面ではわかりませんね。」という言葉をよく聞くが、また、事件が起るごとに「そういうことをするような人ではないと思ったのですが。」というようなコメントをよく聞くが、確かに人は見掛けではわからないのが、世の中である。また、時々刻々と環境や自分にふりかかる事象により変化していくものでもある。それを客観視して、見誤らないようにするためにも「人の目を見る」という訓練をしなくてはならないであろう。もちろん、人の目を見る自分自身の目も濁っていてはならないということを忘れてはならない。

(21)自分の子には勉強は教えない

他の方はどうであるかはわからないが、自分で今、思い起こせば、自分に向学心を燃え立たせてくれたのは、確かにその度に出会った先生方であったように思う。その要因は、子供を客観的に見れるという立場と子供の成長の仕組みを良く知っているという事からくるものであると思う。最近はそうでない先生方も増えてきているように思うが。両親はどうしても自分の子供を日和見してしまうので、甘くなってしまう傾向が強い。祖母、祖父については、それ以上に孫に対しては甘くなってしまうものであるように思える。もちろん、躾教育ということでは、家族も重要な教育の担い手であるのであるが、それは、むしろ、実生活の中で自分の背中で教えるというようなことであろうか。ここで孟子も言っているように親子間というのは世の中の人間関係の中で、もっとも情の深い関係であるので、むりやり教導することによって、返って親子関係を悪くするという懸念が強いので、「父子の親」(親子の親愛の情を深める。解説の最後のところに親子の親愛の情を深めることの大切さを舜の父親の仮説を題材として説いてあるが、それほど親子間の親愛の情は大切なことであり、これがなければ、躾教育も何も始まらないということでもある。)を実行するためにも、教育は第三者に任せたほうがいいということである。江戸時代の大名は自分の世継ぎの教育のためには、それにふさわしい人物を推挙し、その人物に教育を任せたものである。現代の日本でも後継者教育については、色々と議論がなされているが、やはり、江戸時代のように、第三者の徳ある人物に、一定の時期預け、帝王学を身に付けさせるということが重要であるように思える。そういえば、歴史に登場する多くの偉人が、必ずそれ相応の徳のある先師に会い大きな影響を受けているところなどを考えても、人間の能力を引き上げてくれるのは、その道に精通した専門家であるように思う。

(22)親の気持ちを大切にするのが孝行

現在は、私も含めて、親の「口体を養う」ことさえ難しい人が多いのが実情ではなかろうか。その背景には、大家族の崩壊による核家族化や経済至上主義による都市への人口流出などの原因はあろう。また、今はゆがんだ現象になっているが、年金制度などの社会保障制度の進展もいい悪いは別として大きな影響を与えているといえよう。つまり、親は、子供から養ってもらうという観念がなくなってきたということもいえよう。もちろん、色々な事情があり、口体を養っている人もいようが、大半が親は親、子は子の生活をしているというのが現状であろう。そういう時代背景の中で、「親孝行」ということを考えると、ここに孟子が説いているように「親の気持ちを満足させる」ということが重要であるということは、今も昔も変わらない道理であるように思う。人の親になれば、よくわかることであるが、親は親、子は子といっても、親としては気になるのが子供のことである。ちゃんと生活はしているのであろうか、人に迷惑はかけていないだろうか、体調を悪くして病気などにかかっていないだろうか、どんな親でも普通の親はそう思うものである。こういうことに対して、子供はどう対応すべきであろうか。まず、離れてくらしているのであれば、定期的な連絡はする必要があろう。今は、色々な情報機器が発達していて、いつでもどこでも声や画像で連絡することはできるが、やはり、一番いいのは手紙ではないかと思う。その中には、現状と自分の家族のことなどを前向きに表現するということが必要になろう。手紙では、口では言えないことを伝えやすいものである。もちろん、直接会って話をするということに越したことはない。こういうことを自然にやっていると、色々な困難なことが起きても気軽に相談もできるし、また、そういうことに対して、親として助言できることで満足するものでもある。離れていても、そんなに遠くにいないような気持ちにさせることが必要だと思う。親と同所帯であれば、必ず、一日に一度は顔を合わすように努力することが必要に思われる。それが、親の安心感を誘い、心の満足を促すからである。時には、一緒に出かけたり、食事をしたりもいいと思う。仕事、仕事といわずに、こうした、少しの気使いが「親の気持ちを満足させる」ことに繋がるのである。親に対して親愛の情を持てる者は、子供に対しても親愛の情を持てるということがいえるのではなかろうか。

(23)水はよいなあ

前々回の「論語」の中で、儒学の水の流れに関する考え方と仏教の水の流れに対する考え方については述べたとおりである。もう一度、おさらいをしていくと、鴨長明の「方丈記」の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水に在らず」という表現と孔子の「「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎めず」という表現は良く似ているが、解釈が違うということである。鴨長明の方は、仏教の無常観、特に「諸行無常」という基本的な理念を以て、「輪廻」(生老病死)という人間にとって変えることのできない宿命感を表現したものであるが、孔子の方は天地自然の理の中で生きていかねばならない人間としての生き方を表現しているものであり、世の中の移ろいは、この川の流れのように変化していくものであろうが、その中でも絶え間なく世のため、人のために行動していかなければならないという人間の躍動感、立命感を表現したものであるということである。それをもっとわかりやすく述べたのが、この孟子の一説であると思う。水は、源泉からこんこんと流れ出でて、川を作り、その川の流れは、尽きることがない。これは、その本源があるからこそ尽きることがないのである。人間の生き方もまたこのようであるのが道理である。本源がなく、ただ、雨などによって溜まった水は、時を置かず、すぐ枯れるものである。だから、人間としての生き方の根本ができていないものは、一時的にはいいが、時を置かず、だめになっていくものである。ということをいっているのである。事業でも組織でもそうであるが、その発生の動機が明確でないものは、基盤を造成するにもできないので、早晩、崩れ去っていくということである。よく人はわからないことに直面したときにやっていく内に組みあがっていくというような表現をするが、そういうことで物事が成立するのは皆無に等しいということができる。それでは、必ず、早晩、挫折することになる。もちろん、すぐに方向転換をするので、こういうことを今やっているのだという考えがあるのであれば、それは、否定はできないが。また、人は、いずれにしろ、どんな物事に対しても、いい悪いに関わらず明確な指針なしでは、最終的には、動かないものである。明確な理念や思想、指針がなければ、こんこんと湧く水源、本源を持っていないのと同じであるので、そう時間を置かずに枯れてしまうということである。

(24)敬宮愛子内親王様ご誕生

皇太子ご夫婦の間に生まれた愛子様の名前の由来は、孟子のこの章の「仁者は人を愛し、礼有る者は人を敬す」という言葉から来ているということは、ここに書いてある通りである。また、そのことは、ここにも記してあるように、人を愛するから人に愛される、人を敬するから人に敬されると意味合いもあり、やはりこちらから物事は発しなければ、物事は帰ってこないということでもある。逆に人を嫌いだと思えば人に嫌われるし、人を馬鹿にすれば人に馬鹿にされるということでもある。人間関係というものは、常にそういうことが内在されているものであるということを認識しながら生きていかなければ、痛い目に合うことになる。人間付き合いの上で、ある人を嫌ったり、憎んだりした場合、その人からも自分と同じような感情で見られているということを認識して、行動するということが重要である。どうしても、そういう場合は特に自分中心に考えてしまうので、そんなことは忘れてしまう傾向が強い。それをほおっておくとそのことが原因で、人間関係で取り返しがつかなくなることもある。もちろん、そういうことを認識していなくても、ここにある愛敬の念をもって生きていれば、問題解決に有効に働くことにもなる。たとえば、江戸前期の日本に於ける陽明学の開祖といわれる中江藤樹は、27歳のとき、遠く離れて暮らしている年老いた母親への孝行を実行するために、何回も其の当時使えていた大洲藩に、孝行のために藩の職を辞し、故郷の近江に帰省したい旨を伝えるが、許可が出ず、結局、脱藩することになる。その当時の脱藩は、極刑に値する大罪になるのであるが、その判決を待つために一時、京都に滞在することになった。結果、藩からは、何のお咎めもなく、許可が出るわけであるが、これは、大洲藩の処置が甘かったのではなく、藤樹が、大洲藩にいたときに愛敬の志を貫いていたのを藩主や重職の者が良く知っていたからである。このように、物事をスムーズに進めたり、物事の解決をするために、コミュニケーションを深くはかるためには、人を愛し、敬するという心がなければならないのではなかろうか。孔子は、「人と与に生きる」ということをいっているが、この「与に」という意味は、自分の持っているものを人に与えるという意味でもある。つまり、自分が与えなければ、何も与えてもらえない、だから、与えられるのを待つのではなく、こちらから進んで与えて、それぞれの持ついいものを与え合って、初めて物事は進み、成就するということであろう。つまり、「ギブアンドギブ」が、人間社会の進化、進展のためには、欠かせないものであるように思える。そのためにもこの愛敬の念を持って接することが大切であり、皆が、これをもって接すれば、住みやすい世の中が構築されることは間違いない。

(25)水は高いところには流れない

儒学の性善説を確立させたのは孟子である。水の本来の性質は、確かにここで孟子の言うように高いところから低いところへ流れるものである。そして、人も水の自然の流れと同じで、本来の性質は善であるといっているのである。それに対して告子は、本来の性質を訪わずに目に見える事象だけで、水の話をし、人の善悪についての判断をしているわけである。確かに、表層に出ている事象だけを捉えると、同じ人間でもいいことも悪いことも見えるので、善悪などという規定されたものはないように思われる。そして、それは後天的な教導によってのみしか是正することができないようにも思われる。もちろん、教導することは必要であるが、よく考えてみると、本性という確固たる軸がなければ、常にブレてばかりで、どこに跳んでいくかわからなくなり、それでは、社会生活での調和がとれなくなってくるのではなかろうか。所謂、統制のとれない世の中になってくる。現在は、意外と告子が言っているような、善悪に対して、非常に曖昧な世の中になっているのかもしれない。何が善で何が悪か、わからないから起る事件が頻発するのもそういう流れの中にあるからであろう。本性という確固たる軸があれば、常にそこに戻っていくことができるので、間違った道に進んでも、元に戻ることができる。現在はやはり、この人間の本性をちゃんと認識しなければならない時代になってきているのであろうと思う。これは、政治についても、事業についても同様である。政治の本性という確固たる軸は何なのか、事業の本性という確固たる軸は何なのかということをもう一度見つめ直し、改善することによって、より強固なガバナンスが敷かれていくのではないかと考える。それと同じで人間としての本性は善であるとわかれば、それを基軸にして、物事を考え、行うようになるので、人間としてのバランスもとれてくるように思われる。また、現在の様々な多くの課題は、それに気付かせることで多くを解決することができるように思われる。朱子のように敬の心を以て、本性の善を求めるもよし、王陽明のように本性である善そのものに訴えかけ、明らかにするのもどちらでも良いが、とにかく、人間の本性は善であるというしっかりとした軸を持つことから始める必要があるように思う。

(26)熊の手のひらと魚とどちらがお好き

世の中には、生死を度外視してもやらなければならないことがある、ということである。孟子はそれを義だといい、孔子はそれを仁だと言っているのである。仁義を果たすために命を顧みずに殴りこみをかけるという設定は、よく昔、全盛時代のヤクザ映画の中にあったが、それを見て、その当時、もちろん、いい役者も揃っていたが、「格好いい」と思わなかった人はいなかったのではなかろうか。ヤクザ映画のよし悪しよりも、そう思う心に同調するということは確かに誰にでもあるものである。実行するかしないか、できるかできないかは別として、そう思う心は重要である。ある意味、人間である証かもしれない。そして、常にこの心を失わないのが、賢人であるといっているのである。これまで、山田方谷、吉田松陰、西郷南洲と幕末の偉人たちの勉強をしてきたが、それぞれ、藩政改革に、子弟教育に、維新達成にと、皆、生死を省みずに大義のために行動していた人物である。もっといえば、大義のためなら生死を省みずに行動できる人間でなければ、世の中を変えることはできないのであろう。前回勉強したときに南洲が言っているように「命もいらず名もいらず、官位も金もいらない」という人物でなければ、世の中は変えられないということである。自分を省みてみても、現実は、日々の生活に追われて、命を賭して、これをやり遂げないとならないということをなかなか持てないものである。また、持ててもそれをさえぎる色々な要因があり、なかなか、実行に移せないのもまた事実である。しかし、これでは、結局、何も生み出すことはできない。自分ができないのであれば、できる人と組んで、できる人が近くにいないのであれば、できる人を探してでも、今は、行動するときであるように思える。何もしなくても明日は死ぬかもしれない、元々、人間の生死などはわからないものである。そうであれば尚更である。この世の中を是正し、進展、進化させるために大義を持って変革のために行動を起こすのは、今しか他にないように思えてならない。「天の時」は、今、将に来ているのであろうと思う。

(27)もし飼い犬が逃げ出したら

ここにも書いてあるように最近は、人間の心をどこかに置き忘れているような事件が多い。これは、やはり、教育のやり方の問題が多くあるように思える。人間にとって、一番大切なものは、知識や知恵をつける以前に、人間としての生き方がちゃんとできているかどうかということである。このあたりの基礎教育が、なされてこなかったところに大きな要因があるように思われる。特に戦後の日本の教育はここのところがスポッと抜けているように思える。また、都市化、核家族化の進展に伴い、地域のコミュニケーションも薄れ、近所付き合いもほとんどなくなり、隣の人が何をしているのかさえもわからないという状況があり、家庭での躾、地域ぐるみでの教育などというのは皆無に等しいのが現実でもある。いま、大きな問題になっている「いじめ」の問題にしても、そういう時代背景があり、頼れる人さえなく、自分の中に閉じこもるしかなく、解決策が見出せないでいるという傾向が強いのではなかろうか。また、そういう時代背景であるので、「いじめ」も陰湿さを増しているようにも思える。人間の本来の心、ここで孟子のいう仁義の心からすれば、「弱きを助け、強きを挫く」のが、当然のことであるのであるが、こういうことさえも教えられない世の中になっているのであろう。そういうことからすると、この「いじめ」の問題は、子供の問題ではなく、我々大人の問題であるということがいえるのではなかろうか。いま、政府は教育の問題に取り組んでいるが、教育だけを集中的に改善しても、周りの環境の改善がなければ、また、元に戻るだけであるということを認識して取り組んでほしいものである。なぜなら、社会全体のシステムや環境を変える中での教育問題であるという認識無しでは、何をやっても成果は出てこないように思えるからである。ここで孟子の言っている仁義の心を取り返すためには、どうすればいいのであろうかというようなことを基点として、社会の構造改革を推し進めていくことでしか、教育改革の抜本策はでてこないのではなかろうか。

(28)薬指の話

確かに我々は、眼に見えるものには非常に敏感である。自分がほしいものがあれば、なんとしてでも手に入れたいと思うのが、また、人間の性でもある。しかし、その表面に現れているものが、実は、必要に応じて、自分の心が作り出したものであるということを認識できる人は少ない。そういう意味からすれば、必要でないものは、この世には存在しないということがいえようか。陸 象山(宋代の思想家)は、「心即理」ということを言っている。つまり、世の中に現れているすべてのものは、人間の心が介在しているものであり、人間の心が作り出しているものであるということである。そういう意味で、一番理解しやすいのは、陶芸や絵画、音楽などを中心とするアーチストたちの存在であり、彼らが創作する様々な物や音や現象である。彼らは、自分の心に思ったものを創作する能力がすぐれており、心で思ったものを形としてあらわすことができるのである。しかし、よく考えてみると、特別な能力をもっていない一般の人でも、仕事や家事や趣味の中で色々な工夫をして、色々なものを創出してもいる。それが、自分の役に立ったり、世の中の役に立ったりもしているものも多い。このように考えると、現実に目に見えてあるものよりも、自分の心の方が大切であるように思える。心があればどんなものでも作り出せるということである。そういう意味からしても、人間にとって一番大切なものは心であるということがいえよう。心身医学では、心は脳にあり、大脳、小脳、脳幹がその役目を果たしているとする。大脳が知であり、小脳が情であり、脳幹が意であるとしている。つまり、心は知情意の総称だというのである。この機能がバランスよく働いていることが、人間としては一番いい状態なのである。現代は、どうも、大脳、知の働きにだけ目が行って、小脳、情や脳幹、意の働きを軽視している時代に思えてならない。そういう意味では、心のバランスが崩れている時代であるということが言えるのではなかろうか。それでは、この情意の働きを活性化させるためにはどうすればいいのであろうか。それは、おそらく、人間としての正しい生き方を教え、実行することによって、解決されるものではなかろうかと私は思うのである。だから、今はこういう教育を集中してやらねばならない時代であるように思えてならない。自分の心をバランスよく保つことによって、世の中を平穏にすることができるのであるから、人間にとっても、世の中にとっても心というものが根幹にあるということを忘れてはならないであろう。

(29)人間の道徳性と社会的身分

いまの世の中、「既に人爵を得て、其の天爵を棄つ」人が如何に多いことであろうか。また、「其の天爵を修めて、以て人爵を要む」という、人爵を得るための手段としてのみ、天爵を求める人が如何に多いことであろうか。こういうことが世の中を知識偏重の受験戦争へと駆り立てていったのである。また、社会に出ても地位を得るために過度な競争や人を蹴落とすための陰謀渦巻く社会を創出していったのである。そして、その中で優秀だとされた人たちが一時代を作り上げてきたのであるが、それが、如何に欺瞞に満ちた社会だったのかということが、様々なところで露呈してきているのが現代である。社会的地位が高ければ、上等な人間であり、社会的な地位が低ければ下等な人間である。金をたくさん持っていれば、上であり、金を持っていなければ下である。という論理が大手を振って歩いている現代であるが、これは、根本的に間違っているように思える。社会的地位が高いのは、それはそれでそれ相応の仕事をした結果そうなったのであるので否定はしない。また、金を多く持っているのは、その人の才覚があればこそであるので否定はしない。しかし、その人たちが、本当に人間として上流であり、一流であるかといえば、逆のケースが多いのも現実である。一番大切なことは、人間として上流、一流であるかということである。その根源は、その人の品性、品格にあると思われる。ここで孟子の言う本当に天爵を身につけた人である。なかなか、お目にかかれないが、天爵も人爵も併せ持つのが、人々をいい方向に導いてくれる本物の指導者なのである。これからは「心の時代」といわれて久しいが、それは、ここで言う天爵を持ってリーダーシップをとっていく人たちに世の中を任せなければ、益々、世の中が混乱していくという危機感から出たものであるように思える。世の中の変革の時期には、必ず、前述もしたが南洲遺訓でも勉強したように、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらない」という、天爵を持った人たちが多く出てくるものであるが、なかなか、出てこないのは、功利主義に埋没してしまっているからであろう。しかし、そうでない、若いリーダーシップを持った人たちも多く出てきているので、この人たちと共に、新時代を創っていくという気概を持つ必要がある。

(30)良知・良能とはどんなこと

孟子は、良心とは、良知、良能のことをいい、それは、親に親しみ、年長の人を敬う、仁義の心であるといっているわけである。学ばずして能くする所の者を良能、慮らずして知る所の者を良知という事は、人間が生まれるときに自然備えているものということになるわけであるが、その自然に備えている素材や資質を学問をすることや周りの環境の変化で、良くも悪くもするという考え方もできる。王陽明は、この孟子のいう良知の考え方を元として、良知説を唱えているのである。そして、この良知こそが万物の根源であり、万物がこれを有しており、これを発揮させることこそが万物の進化、進展に寄与するものであり、世の中を平和に導くものであるといっているのである。その発展的な思想として前述もしたが「万物一体の仁」ということを言っている。先日、私の友人である東京大学大学院の教授である信時正人氏が「新現役の会」の講話で、愛知万博の日本館の運営のことについて話をする中で(本人が日本館の事務局長をやっていた)、従来のピラミッド型の組織運営でなく、銀河系宇宙型の組織運営をすることによって、これまでにない感動や共感を呼ぶイベントを行うことができて、大成功を修めたといっていたが、この銀河系宇宙型組織運営は、「万物一体の仁」の思想に繋がる面が多いように感じる。それまでの上意下達の仕事を業者丸投げの組織ではなく、色々な分野での専門家を集め、その人たち同士が議論することで概念を決め、一つの計画にまとめて、各業者に発注するというやり方で運営していったとの事である。つまり、キラリと光る、それぞれの役割を持ったものが集まり、お互いに強調しあって、一つの目標、目的に向かって邁進するという形式ということがいえるのではなかろうか(王陽明は「万物一体の仁」の社会をそういう風にとらえていた)。信時氏は、このことについて、ロスアンジェルス・オリンピックの時のユベロス氏を中心としたプロジェクトの推進にモデルがあるといっていたが、もちろん、それほど、論理的ではないが、王陽明は、理想的な社会実現の概念として、その時代にそういうことを唱えていたのである。このことからも皆が持っている良知・良能をそれぞれの人が発揮することにより、人を感動させたり、皆で共感できたりする世の中が形成できるということは間違いなさそうに思える。

(31)人生三つの楽しみ

立身出世は孟子のいう三楽には入らないということである。孟子は、家族に何の心配のないこと、自分に天地神明に誓って、恥ずかしい思いのないこと、志の高い若者たちを教育して立派な人間に導き、育てること、これこそが君子の楽しみであるといっているのである。先日もある会で学問というものに対する概念について、議論をしたのであるが、本当の学問とは、決して知識の植え付けや試験のためのノウハウを教えることではなく、人として生きる道を教えるものではなかろうかという結論に達した。その、人としての生きる道についての概念は、これまでも色々と述べてきたが、その実践の結果として、現れるのが、この三楽ではないかと思える。前述もしたように教育改革の論議が色々なところでなされて久しいが、教育、学問の本源に立ち返って論議しなければ、いい結論は導き出されないように思える。そしてそれは、今で言う学校教育の枠組みの中では、解決できないものが多いように思える。これは、いつもいうように現代社会のシステムや構造を変革させるということが伴わなければ困難に思う。また、それに沿った環境作りも重要な課題である。例えば、今でも、実施されているようであるが、「管理者養成学校」での地獄の特訓を受講して帰ってきた人が、2週間くらいまでは、まだ、その余韻が残っているが、それを過ぎれば、また、元に戻るということなどを実際見てきているが、それは、人間というのは、すぐ、今の環境に同化する習性をもっているからであろうと思う。だから、実は何よりも環境が重要なのである。今、盛んにマスコミを騒がせている子供の「いじめ」についても大人たちが作っている環境や社会の反映なのではなかろうか。このことは、いじめをやっている子供やいじめられている子供やその両親だけの問題ではなく、社会全体の問題なのである。そして、それは、我々大人が思っている以上に子供たちにとっては根深い問題であるように思えてならない。そういうことからも今回勉強した孟子や前々回勉強した孔子の教えをわかりやすく教えることのできる教育を子供、大人の区別なく全国的に浸透させていかなければならないのではなかろうか。方法は色々考えるとして、真剣に実行してみたいと考えている。