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孟子尽心章句
(平成26年1月~6月) |
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孟子尽心章句上
には以下のようにある。
孟子曰く、其の心を尽くす者は、其の性を知るべし。其の性を知らば、則ち天を知らん。其の心を存し、其の性を養うは、天下に事(つか)うる所以なり。殀寿貳(たが)わず、身を脩めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。
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(大意)
孟子は言われた。「自分の持っている本心(惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端の心)を充分に発揮させた人は、人間の本性が本来善であることを悟るであろう。人間の本性が本来善であることを悟れば、やがてそれを与えてくれた天の心がわかるのである。自分の本心である四端の心を大切に保存し、その本性を害わないように育てていくことが、つまり天に仕える道になるのである。短命もよし、長寿もよし、ひたすらに天命に順って、ただ一すじに自分の身を修めて静かに天命に至る、寿命が尽きるのを待つのが、天命を尊重する道である。
孟子は人間が個々に持っている本心、つまり、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心(四端の心)を尽くすことができれば、人間の心は善であることを理解できるであろうと述べているのである。そして、自分の本心が善であるということを理解できれば、それを与えてくれた天地の心を知ることができると述べている。だから、人間の心は、天地の心であるから、天地につかえるのが人間としての道理であるとも述べているのである。更に殀寿に違わない、天命に違わない生き方をするために、常日頃から自分を修める修業に励み、天命を待つのが命を立てること(立命)であると述べている。そして、死生は天命であるので、短命であろうが長寿であろうが、天命にしたがって生きることが人間として生きる道であるとしているのである。
孟子は以上のような思想をもって中国の戦国時代という権謀術策が横行する時代に誰憚ることなく、各諸侯に仁政を説き、理想社会の実現のために奔走するのである。この孟子七篇(上下で十四篇)は孟子(孟軻)が生地である鄒(すう)に隠退してから、弟子の万章や公孫丑と一緒になって、それまでの諸侯や門人、その他の人々と、問答、討論したことを後世に残そうとして著わしたものである。
孟子は(字は子輿)は孔子の孫である子思の門人を師として孔子の道、子思の思想を学んだ。そして、孔子に私淑して学問を深め、修養に努め、四十歳の時に、不動心の境地に至っている。そして、戦国時代という荒廃した時代に、社会道徳の教化とそのためには仁政をしくことを諸侯に訴えかけていくのである。鄒の穆公を始めとして、梁の恵王、斉の宣王などに謁見して、仁政の実行と人間民意の尊重(民本主義)、人情物質の自然必然性の強調、人間としての内面的な至誠至情の尊厳などを説いてまわるのである。しかし世情は前述の通り、策略、謀略の闊歩する状況であり、深沈博大な論理は覇道を主とするその時代の諸侯や君主にとっては、まわりくどい論理ととらえられ、なかなか受け入れられなかったのである。
孟子は紀元前289年に84歳で死んだといわれているが、その思想はその時代には受け入れられなかったが、その社会悪に対して、真っ向から取り組み、匡救した姿勢や仁義の道、仁政の復興、民本理念の再現などの論理はその後の中国や日本など東アジアの国々、また、世界へと伝わり、広まっていくのである。
「孟子」は中国漢の文帝の時代から、学官に立てられ、その中心の書として読まれていき、宋の時代に朱子が四書として表章して以来、益々、世間に読まれ親しまれるようになっていくのである。この七篇をそれぞれ上下に分けて十四篇としたのは、後漢の桓帝の時代に趙岐が注をつくるときに実行したものである。それが今日まで、この十四篇で伝えられて理由である。他に外篇、四篇があったといわれるが、その四篇は現在に伝わっていない。
わが国に最初に伝わったのは、空海三教指帰などにも用説されていることから考えると、奈良時代後期には、すでに伝わっていたものと思われる。また、藤原佐世の「日本国現在書目録」に「孟子」の書名が記されているので、平安中期にはわが国で流行していたように思われる。その後、鎌倉時代、室町時代を経て、江戸時代に朱子学が官学になってから、益々、盛行していったのである。吉田松陰は、特に孟子を好んでいたといわれる。野山獄にあるときに、そこにいた囚人たちに孟子を講義したといわれている。その時の講義を元として「講孟箚記」を著わしたようである。
今回は岩波文庫「孟子・下」小林勝人訳注を参考書として、その中の尽心章句を勉強していきたいと思う。孟子の思想、哲学的特徴を学ぶには、この尽心章句を学ぶのが一番適していると思うからである。また、何年か前に「孟子のことば」で孟子のことは学んだが、もう少し掘り下げて学んでいきたいと考える。
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二.孟子曰く、「命にあらざることなきも、其の正を順受すべし。是の故に命を知る者は、巌牆の下に立たず。其の道を尽くして死する者は、正命なり。桎梏て死する者は、正命にあらざるなり。
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(大意)
孟子がいわれた。「人間にとって、すべて天命でないものはない。だから、その正当な運命を素直に受ける心構えが必要である。だから、天命を心得た人は、危なっかしい岩石や崩れかかった石塀の下などのような、思わず、災難を受けたり、死を招くような場所には立たないものである。人間としてなすべき正しい道に力を尽くして死ぬのは、正しい天命なのである。人道にそぐわない罪を犯して、獄死するのは、正しい天命ではないのである。」
自分にかかわるすべてのものが天命であると述べているのである。だから、その天命に順じて生きていくのが人間としての使命ということになる。何回も述べているが、この「順受の会」の名称の意味でもある。思えば、自分の人生の中でも、強い私利私欲をもって、他人の意見を聞かないでやったことで大変な目に合わされたことは、数多くある。これは天命に反したが故に、巌牆の下に立ったということであろう。
今回の猪瀬都知事の徳州会医療法人からの献金問題にしても、選挙という自分が経験したことのないことに望み、不安があって、利権がらみで提供される金に手を出してしまったというのが本音であるように思うが、こういう保身を目的とした行為は、天命を順受ではなく、逆受したということになるのであろう。案の定、巌牆の下に立たされて、退任ということになった。しかし、それにしてもあの都議会での議員たちの猪瀬氏への攻撃は、まるでイジメである。建設的なものを何も生み出さない、時間の浪費である。それが毎日のように報道される。また、他に何か報道することはないのかというくらいに見たくも無い、聞きたくも無い猪瀬氏の表情と答弁をテレビの画面にのべつ幕無しに映し出す日本のジャーナリズムの在り方にも大いに問題があるように思う。こういうことが、子供たちの間でイジメが行われる原因のひとつであるように思う。何かマイナス面があれば、周りがよってたかって、その人を批判し、中傷し、軽蔑し、無視する。批判している人間がまるで聖人君子であるかのようにして、語っている。本当に清廉潔白な人であれば別であるが、そうでなければ、これもまた、天命を逆受しているということになる。天命を逆受すれば、不慮の事故に出くわすことになるので、そういうことに遭わないように、それを改めて順受するように努めなければならない。将に「苟に日に新たに。日々に新たに。又日に新たなれ」である。そういうことに常日頃努力している人は、自らを反りみる(自反)ことを知っているので、不慮の事故に遭わないということになる。多くの人が意外に自分の人生を振り返ってみると逆受していることが多いように思う。こうして二足歩行しているということも逆受といえば、逆受である。だから、正しい天命を順受するためには、自らを反りみる、つまり自反することを継続させていくことが必要なように思う。
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四.孟子曰く、万物皆我に備わる。身に反りみて誠あらば、楽これより大なるはなし。恕を強(つと)めて行う、仁を求むることこれより近きは莫し。 |
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(大意)
孟子が言われた。「天地間のあらゆる理法は、生まれながらにみな自分の本性の中に備わっているものである。自分自身を反省してみて、一点の偽りもなく真心に欠けるところがないような境地になれば、人生これより大きな楽しみはない。また、そこまで至ってなくても、思いやりの心(恕)を周りの人に推し及ぼしていけば、やがて私心は消えて、自ら天命を得て、仁徳を完成させることになる。これこそが仁を求める一番手近な方法である。」
自反(自らを反りみる)を実行する際に重要なことは、自分自身の心の中に一点の曇りもなく誠実であるかということを自らに問うことである。そして、一点の曇りもなく誠実であるならばそれで善しとし、そうでなければ、そうなるように努力をしなければならないということである。どういう努力が必要になるかというと「恕」を実行し、他人にそれを推し及ぼしていくことであるとしているのである。つまり、常に思いやりの心を以て、周りの人に接し、それを以て、周りの人に影響を与えていくということである。そうすれば、それが一点の曇りもない誠実な心に通じていき、それは、そのまま仁徳になっていくというのである。また、天地万物は総て、人間の本性に内在しているのであるから、それを実行することは誰でもできると述べているのである。三、に「我に在るを求むればなり。」という言葉があるが、自分の中に内在するものは、間違いなく認識できるので、求めたものは必ず達成できるということである。これに反して、外的な要因、例えば、出世するとか、金持ちになるとかというようなことは、求めても達成できるかどうかわからない。このような外的な要因だけを求めても、ただ、そのことに捉われるだけなので、いつも、心が落ち着かなくふらふらして、運よく達成できたとしても、世の中に何のいい影響も与えないということである。つまり、外的な要因を達成させるためには、自分に内在する、自分が認識できるもの、例えば、道義心とか、良心とかを発揮させる(ここで言う、人間の本性に内在しているものを実行する)ことが必要であるということになる。何かを達成しようと思えば、外的な要因に煩わされずに、自分に内在するものを達成させる努力をすることが重要であるということでもある。
いつも申し上げるように、宇宙の意識は人間の意識の中に常に存在しているのであるということでもある。この人間の中に内在する宇宙の意識、宇宙の真理(人間の本性)を外に発揮させることができれば、思いやりのある平穏な社会を構築することができるということにもなる。これが、王陽明の言うところの「致良知」ということになる。そして、これが仁であり、それを実行実現させていくのが仁政ということになる。仁政は「恕」から始まるのである。現代の言葉で言えば「思いやりのある社会」の実現という言葉になろうか。思いやりなどという言葉が死語に近い中国の戦国時代に孟子は「思いやりのある社会」の構築、実現のために奔走していたのである。
さて、我々は現在、果たして、どれほど思いやりの心を以て人に物に接しているであろうか。私も多くの人たちに接する機会があるが、多くの人が思いやりの心を持った人のように思える。ただ、それを企業や組織の規制や個人のプライドのために発揮できない人が多いように思える。つまり、そういうものを取り払った感覚で対応できる人でなければ、また、そういう機会に遭遇しなければ、思いやりを発揮できないということになろうか。そういう意味では、この「順受の会」のようなインフォーマルな集いを多く作っていくということも必要であるように思う。つまり、企業とか仕事とかの利害関係をもたない集いを多く作るということである。自分の本性に気付く、目覚める機会を多く作るということでもある。
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七.孟子曰く、恥の人に於けるや、大なり。機変の巧を為す者は、用て恥ずる所なし。人に若かざるを恥ざれば、何の人に若くことかあらん。
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(大意)
孟子が言われた。「羞恥心というものは、人間にとってきわめて大切である。いったい、臨機応変のごまかしばかりが上手な者は、羞恥心というものが全くないのだ。自分の徳行が他人に及ばないのを恥と思わぬ者が、どうして人並みになれようか。恥じればこそ、人間は勉強もし、進歩もするのである。」
「恥」を知らない行為が横行してくると、世の中は乱れてくる。おそらく、孟子の活動した時代は、恥を知らない行為が横行していたのであろう。謀略と殺戮の時代であったのであろう。しかし、そういう時代にも「恥」を知ることを孟子は、諸侯に説いてまわっていたのである。現代も恥を知らない人が多くなってきているように思えるが、これが世の中が乱れてくる要因になっているようにも思える。更に恥を知らない者が社会的地位の高いところにいたりすると尚更世の中が乱れてくる。恥を知っていれば、親を殺すなどということはしない、子供を虐待することはしない、友達をイジメの対象にしたりしない、自分の勝手な思い込みや自分の欲望を達成するために他人を責めたり、殺傷したりはしない、重責にありながら責任を回避したりはしないはずである。また、そういうことをしても、すぐに自反して、自らを改めるものである。
この正月に海音寺潮五郎の「茶道太閤記」を読んだが、その中に千利休が豊臣秀吉から刑に処される前にこう述べているところがある。
「わしは、茶道の純粋さと、おのれの精神の清らかさとを守り通した。天下人の権力をもってしても、わしのこの守りはどうすることも出来なんだのだ。孟子という書物に・富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、これをこれ大丈夫という・とある。一介の茶坊主ながらわしはその大丈夫として死んで行くのだ。」
自分の娘に対する秀吉の横恋慕をれっきとした婚約者があることから拒否し、明の征伐に際して、多くの諸侯から異論があることを聞いて諫言し、不興を買い刑に処されるのであるが、これこそが恥を知る生き方であるように思える。ここにも孟子の言葉が描かれているが、この当時に禅に志す者は、よく儒学を習得していたといわれている。「富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず」この大丈夫の心が「恥を知る」ということであるように思える。
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十.孟子曰く、文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王なしと雖も猶興る。
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(大意)
孟子が言われた。「文王のような優れた聖人の教化があって、はじめて発奮して立ち上がるのは、平凡な人民である。かの人並み以上に優秀な豪傑の士は、たとい文王のような教化がなくても、自ら進んで立ち上がるのである。」
「猶興の士」という言葉の語源である。しかし、今更に思うが、孟子の言葉は、本当に人を元気付けさせてくれる。「俺も猶興の士になってやるぞ」という気を興させてくれる。太平洋戦争の時に、この「孟子」を持って学徒出陣で戦地に向かった人が多かったと聞くが、心の支えとして大いに役立ったように思える。だだ、人に言われて行動するのではなくて、自らが発奮して、行動することが必要であり、それが世の中を救ったり、変えていったりするのである。(このように自己啓発させることについて、孔子は教育の要諦として「憤せずんば発せず、悱せずんば啓せず」つまり、わかりそうでわからずワクワクしていなければ指導しない。言えそうで言えず口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。と述べている。)そういう意味からすると、時代は常に「猶興の士」を求めているということになる。もちろん、ただ、カラ元気をもって、自ら行動するのではなくて、体験、知識とも充分に積んで行動するということであるのでそのあたりは注意が必要である。
それでは、「猶興の士」の人物像とは、どういうものであろうか。それは、前章の九に宋句践との問答の中にある。大意で述べると次のようである。
ただ、欲に眼をくれず、徳を尊び義を楽しんでさえおれば、必ず平然としておれます。それ故、このような人物はたといどんなに困窮しても義に外れたことをしないし、どんなに栄達しても道から離れることもありません。困窮しても義に外れないから、自分の本分を全うすることができるし、栄達しても道から離れないから、人民の期待を裏切ることもないのです。昔の賢者は志を得て栄達すれば、必ずその恩沢は人民に及ぶし、志を得ないで民間にかくれると、自分の身を修養して、人格高潔の士として、名声がしぜんに世に現れたものです。すなわち、逆境にあればひとり自分の身を修めて立派にし、栄達すれば広く天下の人々をも同じく一緒に善に導いたものです。
つまり、欲に眼をくれず、徳を尊び、義を楽しんで、困窮しても義に外れず、栄達しても道から離れず、自分自身の本分を全うし、人からの期待を裏切らない人ということになろうか。こういう人物は、逆境にあっても、順境にあってもその志を遂げるために邁進するので、常に平静でいられるということになる。本当の「猶興の士」とは、こういう人物像をいうのである。また、こういう人物であれば、自然に世の中を変革させ、善い方向へ世の中を導いていくことができように思える。
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十二。孟子曰く、佚道を以て民を使えば、労すと雖も怨みず。生道を以て民を殺せば、死すと雖も殺す者を怨みず。
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(大意)
孟子が言われた。「人民の生活を安楽にしてやりたいという心使いから、人民を使役するなら、いくら苦労があっても決して怨むようなことはしない。人民の生命を守護するという天下の正道を以て、やむなく多くの人民に害悪を与える人間を殺すなら、たとい死刑に処しても、決して君主を残虐だと怨むことはない。」
君主として、人の上に立つものは、こうでなければならないように思える。君主としての、リーダーとしての素養、素質というものは、ここにあるようにも思う。その国、組織、企業に従事する人々の生活の安定、生命の保護を図るにはどうすれば良いかということを真剣に考えて、そのための指針を打ち出し、指令すれば、如何なる過酷な条件であろうとも納得して、そこに従事する人々は行動するであろうし、そういう行動を邪魔したり、そういう行動を阻止するために犯罪を起こしたりする人間が厳罰に処されても当然のこととして、そのリーダーを非難することは一切ないであろう。
政界のリーダーや企業のリーダーが真からこのような心構えをもっている人であれば良いのであるが、そうでない場合も少なくない。現在、ブラック企業などと揶揄される企業があるが、こういう企業のトップは、やはり、こういう心構えに欠けている人が多いのではなかろうかと考える。そこにあるのは、従業員を酷使することにより、大きな収益を確保しようという考えであり、その収益を従業員に還元することもなく、自分の私財を増やすことだけに利用するという発想である。まるで、昔の奴隷制度のような発想である。もちろん、企業は利益を生み出すことが重要な使命である。しかし、それは、そこにいる従業員と一緒になって生み出すものでなければ長続きはしないものでもある。だから、企業経営は「恕」ということを大切にしなければならないのである。人間は「知」だけでは動かない、むしろ「情意」によって動くといっていいように思う。だから、「恕」思いやりが必要なのである。そして、それが引いては「仁業」「仁政」に繋がっていくのである。「仁」というのは、総てを許容するということではなく、それに反する者は処罰するということでもある。
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十三。孟子曰く、覇者の民は驩虞(かんぐ)如たり。王者の民は暭暭(こうこう)如たり。之を殺すも怨みず、之を利するも庸(てがら)とせず、民日に善に遷りて、而も之を為者(せしむるもの)を知らず。夫れ君主の過ぐる所は化し、存(お)る所は神(おさ)まり、上下、天地と流れを同じくす。豈に之を小補すと曰わんや。
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(大意)
孟子が言われた。「覇者は、人気取りに目立った政治をするので、人民はその恩恵に感じて悦び、嬉しがるが、王者はその徳が自然で決して小細工をしないので、人民はその恩恵にも気がつかず、のびのびと満足している。そうであれば、王者がやむなく人を殺しても、それはもともと人民を保護したいためであるから、別に怨みにも思わないし、また逆に人民に利益を与えてやっても、それがごく自然だから、格別、王者のテガラとして有難いとも思わない。かくして、人民は日々善くなっていながら、しかも誰のお陰とも気ずかないでいる。いったい、聖人たる王者が通り過ぎると、人民は皆、その徳に感化されて、踏み止まって住むところは、その徳化で人民は自然と立派に治まるのである。すなわち、その徳の行き渡ることは、上は天、下は地と同じほどであって、実に広大である。そうであれば、覇者が少しばかりの恩恵を施して政治の隙間を継ぎ接ぎするのと、どうして比較などできようか。」
北朝鮮などの国情をみてみると、覇者の国であるということがよくわかる。少し前まであった中東の独裁国家もそうであるが、とにかく、自分の権威を高めるためのデモンストレーションが好きであり(つまり、自分の権威をひけらかすためのショーの演出が好きである)、信賞必罰を徹底させ、自分の意向にそって功績のある者に対しては表彰し、感謝して、これを宣伝する。また、自分の意向に反するものがあれば、徹底的に厳罰を与える。しかし、そこに暮らす民衆は、一部を除いて貧困生活を余儀なくされている。そして、常に民衆は刑罰を恐れながら生活をしている。富を一部に集中させるので、益々、民衆と大きな格差が生じ、やがて、それが民衆の怒りに変わり、革命が起こる。覇者の国家というのは、そこの統治者が心を入れ替えない限り、このような運命を辿るように思える。
それでは王者の国家というのは、どういう国家であろうか。PHP文庫「孟子」安岡正篤著に、中国宋代の儒学者・邵康節の言葉の説明として、以下のような文章がある。
この宇宙、この人間というものが、存在し活動しておる所以のもの、これあって天地も人間も存在し生活することができる、これがなければ、宇宙も人間も存在することも、活動することもできない所以のもの、これを「道」というのであります。一切はこれによって存在しておる。道によって存在しておる。この道が特に宇宙造化の一部分であるところの人間に現れて、これあるによって人間が存在できる。これがなければ人間は存在も生活もできない。ちょうど天地人を通ずる道のごときもので、その道の人間に発したるものを称して「徳」と言う。そしてこれを結んで道徳と言うのであります。
だから、我々が今日使っておる道徳という言葉と、東洋哲学本来の道徳という言葉とは全然違います。深さも範囲も非常に違うわけであります。今我々が使っておる道徳というのは西洋の道徳、エシックスだとかあるいはモラル、モラリティ、そういったような西洋哲学の概念の訳語です。宗教だとか芸術だとか経済だとかいうものと同位の概念であります。
しかし、東洋の道徳というのは、そういう意味ではない。宇宙、人生の、よってもって存立し、これがなければそういうものが存立、活動することができない所以のもの、すなわち宇宙、人生への本質をなすものが道徳であります。この中へすべてが入る。この道徳が、道・徳が、人間の社会生活に現れていろいろの仕事になる。政治だとか、経済だとか、教育だとか、産業だとか、いろいろなものになる、それを「功」という。それは単なる言葉でも観念でもない現実を動かす「力」であります。だから、自然社会、その中の人間社会を成立に即して言うと、この四つの根本概念から出来上がる。道・徳・功・力の四つであります。昔からずいぶん使われた言葉でした。
このように道と徳というものを根本に於いて、生まれる政治や経済や教育や産業を率いる社会を構築するのが王者の国家ということになると述べている。社会の総てがこの「道徳」を中心として動いている国家ということである。また、これが天地自然の本性にも、人間の本性にも適合しているということでもある。そうであれば確かに、憂いの少ない、自然に進化することのできる国家が構築されるように思う。確かに理想の国家であるが、なかなか、そういう国家を構築し、成立させることができないというのもまた事実である。過去にもこの理想国家を成立させるために多くの人物が血を流し、汗を流し、してきたのであるが、一時はできても、また、すぐ乱れるということの繰り返しをしてきているのが、人間の歴史でもある。しかし、この王者の国家、道徳国家、道義国家を成立させるための努力は常にしていかなければならないことでもある。
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十五。孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり。孩提の童もその親を愛することを知らざる者はなく、その長ずるに及びて、その兄を敬することを知らざる也(もの)はなし。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他なし、之を天下に達(おしおよ)ぼすのみ。
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(大意)
孟子が言われた。「およそ人間には特に学ばなくても自然によくできる能力、つまり良能があり、あれこれと考えなくても自然にわかる知恵、つまり良知というものがある。良能も良知も生まれながら持っているものである。さればこそ、2,3歳の幼児でさえも自分の親を親しみ愛することを知らないものはないし、少し大きくなると、自分の兄を尊敬することを知らないものはない。これが良能、良知のはたらきである。ところで、この親を親しみ愛するのは仁の心であり、目上を尊び敬うのは義の行いである。故に、善すなわち仁義を行いたいと思ったら、外でもない、ただ、この親を親しみ愛し、目上を敬う心を広く天下の人々に推し及ぼすだけのことである。
良能、良知というのは人間が生まれながらにもっている本能ということが言える。人を愛する、人を敬うということは、誰に教えられるわけでもなく本能的に持っているものであるということである。そして、その親を親しみ愛することが仁に繋がり、兄や年上の人を尊敬することが義に繋がっていくということである。確かにこの人間の持てる本能を社会に推し及ぼしていけば、世の中は平和で平穏になることは間違いないように思える。親に対する愛、兄、年長者に対する敬、この「愛」と「敬」をバランスよく発揮させることが「致知」「致良知」ということになる。
人間は誰しも愛したい、愛されたい、尊敬したい、尊敬されたいという気持ちが同時進行としてあるもののように思える。つまり、愛だけを教えてはいけないし、敬だけを教えてもいけない、愛と敬は一体で教えなければならないということである。現代の教育は、どちらかと言えば愛ということに偏重しているように思える。敬ということを教えないから、あるいは本人が敬ということを理解していないから、現代の教師は尊敬されないということも言えるのではなかろうか。愛は平等であるべきだが、変な平等感が蔓延して、敬ということが軽視されているように思える。子供は愛の対象として母を、敬の対象として父をみるというが、父である男親の権威が低下している現在のような状況では、益々、敬ということが育たないということもいえるように思う。そういう社会にあって、敬を育てるためにはどうすればよいかと考えると、尊敬するべき人材が近くにいればそれを敬するというのが一番いいのであるが、いなければ、尊敬の対象になるべき人物を過去の賢者たちに求めるために歴史や古典を勉強するということも一つの効果のあがる手段であるように思う。尊敬しなければ、尊敬もされない(もちろん、愛さなければ、愛されない)のだから、まず、尊敬するということから始めねばならないように思う。この生まれながらにして持っている「愛」と「敬」をバランスよく保ち、進化させていくことが人間本来の使命であるように思うし、そうすることによって、何事にも調和のとれた社会が実現できるように思える。
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十六。孟子曰く舜の深山の中に居るや、木石と居り鹿豕(ろくし)と遊ぶ。その深山の野人に異なる所以の者は幾(ほとん)ど希(まれ)なるも、その一善言を聞き一善行を見るに及びては、江河を決(きりひら)きて沛然たるが若く、之を能く禦(とど)むるものなきなり。
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(大意)
孟子が言われた。「昔、舜がまだ微賤で歴山にいたころは、木と石の間に住み、近ずいてきた鹿や豕と一緒に遊ぶという有様で、その生活ぶりは深山の野人とほとんど違ったところはなかった。ところが、彼は何か善い言葉を聞き、何か善い行いをみると、まるで揚子江や黄河の水を切って落としたかのようにドッと凄まじい勢いで、その善につき進み、わがものにしようとしたので、もはや何人とてもこれを防ぎ止めることはできなかった。この一点こそ、聖人舜をつくりあげた所以なのである。」
舜は、もともと普通の一般の人間と変わりなく、歴山の麓で農耕をしていたといわれている。自然の中に純粋な心(赤心)をもって生活していたということになろうか。おそらく、近ずいてくる動物(鹿や豕)にも愛情を注いでいたのであろう。そういう意味では、どこにもいる少し愛情深い普通の人であったということである。しかし、善言を聞いたり、善行を見たりすると、それに刺激されて、これこそが人の道であるとして、その人の道を求めるためにその一点に集中して、その極地に達したのである。その様子は江河を決するが如きであったのである。人間として、やるべきは「善」であり、これこそが人間として生きるための源であると悟り、それを究めるための努力を惜しまず、それを人民に推し及ぼし、究めたのである。
おそらく、世の中で成功者とか偉人と言われる人は、このような何か一つのことをきっかけとして、奮起した結果そうなったという人が多いのではなかろうか。要するに明確な目的があるので迷いがないのである。特に世の中の役に立ちたいとか、世の中を変革させたいとか、人民の幸福を図りたいとか、従業員の処遇をよりよいものにしたいとかいう社会的使命をその目的とすれば、尚更、達成度が高くなるようにも思える。また、そのような迷いのない姿に人はついていくのである。
幕末の戊辰戦争などをみるとよくわかる。薩長土肥を中心とする官軍は、倒幕して、天皇を中心とした新政府をつくるという、明確な目的があるのである。それに対して、徳川幕府軍は、尊王は図りたいが、できれば徳川家を中心とした政府をつくりたいという徳川慶喜の心の揺れ、迷いがそのまま軍の勢いに影響しているのである。官軍三千五百に対して、徳川軍一万五千(二万ともいわれている)であったのであるが、官軍の勢いに押されて敗退するのである。(兵器の格差があったといわれているが、徳川軍は、官軍を越える海軍力を持っているのであるから、明確な目的と明確な指示さえあれば、対等以上に戦えたように思う。)官軍は迷うことなく進撃していくので、各大名は親藩、譜代、外様を問わず、恭順し、追随していくのである。そして、この戦争の中で、もっとも多くの犠牲を生んだ、奥州戦争に突入していくのである。しかし、これだけの革命を起こしたにしては、世界の他の革命に比しても死者の数は少なく(約3万人といわれる)事を成就させるのである。この「江河を決して、沛然たる如き」行動が世の中を大きく変革させていくのである。また、民衆にとってより良い政府、平等なより良い国家を構築するという社会的使命が(本当により良くなったかは、色々判断はあろうが)目的であったがために大きな成果を得られたのである。
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十八。孟子曰く、人の徳慧術知ある者は、恒に疢疾に存す。独り孤臣孽子(こしんげつし)のみ其の心を操(と)るや危(おそれつつし)み、その患を慮るや深し。故に達(あらわ)る。
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(大意)
孟子が言われた。「およそ徳行・知恵・技術・才知に秀れた人は、おおむね非常な災患の中にあって、発奮して努力するので、その才能が磨かれたからである。さればこそ、主君から遠ざけられた家臣や親に愛されない妾腹の子などは、常に不遇の境遇にあるので、心を引きしめて、畏れ慎み、災患を深く心配して努力するので、自然に知徳が進み、後には必ずその名が世に顕れるのである。」
災難に会ったり、患いたりする中で、何とかそれを克服しようと発奮、努力して、自分の心を鍛えることでしか、徳行や知恵や技術や才知は磨かれないということである。また、不遇な境遇に耐えて、それに対応するための知徳を積んでいくことでしか、本物の人間にはなれないということでもある。災患や不遇は人を大きく育てるのである。だから、災患や不遇にあることで人生をあきらめてはいけない。それは天命であり、それを甘んじて受けながら、自分の中にあるもの、自分の心を磨いていくことが必要であるということである。外的要因に惑わされずに「我に在るものを求める」のである。思えば、洋の東西を問わず偉人といわれる人々は、ほとんどの人が、災患にあったりや不遇な生活を余儀なくされたりしている。全く「徳慧術知ある者は、恒に疢疾に存す」である。
2011年3月11日、マグネチュード9.0の地震が東北地方の太平洋岸を中心に起こった。地震に継ぐ大津波で死者、行方不明者合わせて二万七千人。これは、筆舌に尽くし難い災患である。この災患に遭遇して、被災地の人は当然として、多くの人々が大変な目にあったのは周知の事実である。私自身も自分の著書に書いているように、二次的な災患にあっている。私のようなものもそうであるので、家を津波で流されたり、両親や子供、親類縁者を亡くしたりした人々は尚更であろう。そういう中、私の敬愛する建築家の高崎正治氏は義憤にかられて、その直後、被災地である南相馬の避難所に行っている。まだ、ボランティアもメディアも来ない時であったようだ。氏が言うにはその当時内部被爆をするかもしれないなどの恐怖や一生自分の家に帰れないかもしれないという絶望感で人々の心は沈滞して、地獄の様相を呈していたようである。そういう中、避難所にいる人たちは、余震が続いているのでゆっくり寝ることもできず、さらに床に直接寝ているので床ずれができたりするような状態なので、ゆっくり休めるシェルターを作ることを提案し、その避難所に寝泊りして、自費で製作したようである。そしてそれを「心シェルター」と命名した。確かにこういう状況の時に大切なのは、もちろん食料品や衣料品も必要であるが、心の持ち方である。そういうことを氏はよく理解しており、そう命名したのだと思う。おそらく「心シェルター」を使用して、安眠して、再起への活力を得ることができた人は、少なくなくいるように思える。氏は濱崎道子さんという書道家との対談の中で、現在の、また、今後の被災地への取り組み姿勢として「現実をみながら、夢を描く提案をしている。時間もかかり、なかなか提案は通じませんが、根気強く人間の夢を、無意識の夢、芸術文化の夢を提案していきたい。」と述べている。この「ネバーギブアップ」の精神が必要であり、こういう精神があればこそ、氏は、国際的な建築家に、日本に過去4人しかいない英国王立建築協会のフェローになれたのであるように思う。また、この災患の中から得たものは氏の今後の創作活動に、仕事に大きな影響を与えるのではないかと思うのである。「幾たびか辛酸をへて 志始めて固し」である。
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二十。孟子曰く、君子に三つの楽しみあり、而して天下に王たるは与(あずか)り存せず。父母倶に存し、兄弟故(こと)なきは一の楽なり。仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは、二の楽なり。天下の英才を得て之を教育するは、三の楽なり。君子に三つの楽あり、而して天下に王たるは与り存ぜず。
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(大意)
孟子が言われた。「君子には三つの楽しみがある。しかし、天下の王者として君臨することは、この中に入っていない。父母もそろって健在で、兄弟姉妹みな無事で息災なのが、第一の楽しみである。仰いでは天に対して恥ずかしいことがなく、俯しては何人に対しても後ろめたいことがないのが、第二の楽しみである。天下の秀才を門人として教育し、これを立派な人間に育て上げることが、第三の楽しみである。君子には三つの楽しみがある。しかし、天下の王者となることは、その中に入っていない。」
君子となることの方が王者になることよりも重要であるということである。もちろん、君子が王者になるのが一番いのであるが、天命もあり、天運もあり、王者になれるかなれないかは、わからないからである。所謂、それは外的要因に負うところが多いからである。しかし、君子になるためには「我に在るものを求める」のであるから、努力すれば誰でもなれるということである。そして、君子は三つのことを何よりも楽しむのである。一つ目は父母、兄弟姉妹が無事で健在で、孝悌の道が家庭で行われていることを楽しむのであり、二つ目は天地神明に誓ってやましいこと、恥ずかしいことをしていないことを楽しむのである。三つ目は意欲ある優秀な次代を背負う人材を門人として教育して、これを立派な世の中に役に立つ人材として育て上げることを楽しむのである。この三つを本当に楽しむようになることができれば、君子となることができるということである。また、孟子は君子の本性は仁義礼智の四徳であり(また、この四徳は人は誰でも本性として持っているものであるが)、その四徳が見るからに全身に表れているものであるとも述べている。
君子として、国を治めようとした代表的な人物が、江戸時代にいる。それは皆さんもご存知のように上杉治憲、所謂、上杉鷹山である。鷹山は、もともとは福岡南西部にあって、豊臣秀吉により転封されて、現在の宮崎県高鍋市にあった秋月藩3万石の次男として生まれており、十歳の時、跡継ぎの途絶えた米沢藩十五万石の上杉家の養子となっている。上杉家は、皆さんもご存知のように、過去には関東管領を勤め、上杉謙信という大武将を祖先としている藩であるので、気位が高い。しかし、謙信の時代に三百万石あったものが、百二十万石、三十万石、十五万石となり、この当時には、最悪の財務状況になっていた。そういう中ではあったが、養父の重定は侍医兼侍講であった藁科松柏を召して、鷹山の教育を任せた。そういう中、松柏は、細井平洲(もともと尾張の出身で後年、尾張の藩儒となる)という儒学者を見出して、鷹山の師とした。この平洲を鷹山は終生の師と仰ぐことになり、学問だけではなく、政治の面でも教育をうけることになるのである。十七歳で家督を継いだ鷹山は
受けつぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母
という和歌を詠んで、その時の決意を表している。民の父母たらんとして生きていくというのは、将に儒学の思想である。そして、それを旨に藩政改革、財政改革に努めることになる。まず、自ら質素倹約を実行する。そして、江戸藩邸の改革から始める。
一つ、公式の場合以外は、木綿の衣類だけを着用する。
二つ、式日以外は、膳部は一汁一菜、歳の暮れだけ一汁ニ菜にして年越しを祝う。
三つ、藩主の年間の衣食の費用は一千五百両であったが、自分は世子の時のまま二百九両にする。
四つ、奥女中が五十余人あるのを九人に減らす。
と決めて、これを実行し、国許にも及ぼそうと考えていた。
しかし、藩の重臣の面々は、気位が高いため、他の小藩から養子に来て、上杉家や藩の実情をよく解かっていないと思っているので、鷹山の思索には真っ向から反対する。このときも鷹山はこの重臣どもに真摯に向き合って説得するのであるが、更に重臣どもは、鷹山を弾劾するに到る。これでは、改革が進まず、藩の滅亡を救えないと考えて、鷹山は、このことを養父重定に相談して、その人々を断罪して、新たな体制を確立させることになる。この時から、鷹山の本格的な改革が始まったのである。文教政策として、藩校興譲館を立て、医学館も建て、武術の奨励をし、武道上覧を再興した。また、産業も奨励し、開墾、用水路の開鑿、杉、松、檜、楮(こうぞ)、漆、桑などの植樹などを積極的に実行した。この産業奨励の目標を十五万石の土地から三十万石の収入を得ることとした。また、武士の子女を総動員して、織物を学ばせ、それを米沢の産業として確立させた。また、米沢地方でできる産業の振興(タバコ、茶、藍、梨の栽培。陶磁器、鍛冶、武器類。漆器や蝋燭、養馬、養魚など)は何でもやった。そして、自らも先頭に立って、倹約を実行し、仁政を以て、改革を行った。そのため、時間は長くかかったが、この改革は、鷹山が亡くなった翌年に一応の完成をみる。五十五年を費やしたことになる。しかし、このことは、この米沢地方の人々に今でも多くの影響を与えているように思う。このように君子たらんとして、国主になった人物が実行した改革は、後世にも様々ないい影響を与えているのである。おそらく、鷹山は、孟子のいう「三楽」の人物であったように思し、仁義礼智の四徳が全身に満ち溢れていたようにも思う。
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二十三。孟子曰く其の田疇(でんちゅう)を易(おさ)めしめ、其の税斂を薄くせば、民富ましむべし。之を食(やしな)うに時を以てし、これを用うるに礼を以てせば、財を用うるに勝(た)うべからず。民水火にあらざれば生活(いき)ざるも、昏暮(こんぼ)に人の門戸を叩きて水火を求むるに、与えざる者なきは、至って足ればなり。聖人の天下を治むるや、菽粟(しゅくぞく)あること水火の如くならしむ。菽粟水火の如くにして民焉んぞ不仁なる者あらんや。
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(大意)
孟子が言われた。「田畑をよく治めさせ、税金の取立てを少なくすれば、人民を富ますことができる。人民の生業を助けてやるにもそれぞれ時期を考え、人民を使うにも節度にかなった使い方をしていけば、国家の富は溜まって使い切れないほどになるものだ。いったい、人間は水と火がなければ、一日も生きてはいけないが、日暮れ時に他人の門戸を叩いて、この大切な水や火種をくださいといえば、誰でもよくくれるというのは、それが有り余るほど豊富にあるからだ。されば、聖人が天下を治めるには、必ずます豆や穀物などの常食を水や火のように豊富にさせることを理想としている。豆や穀物が水や火のように豊富になれば、人民も自然に礼節をわきまえて、どうして不仁な者などあるはずがあろうか。」
国を富ますためには、内部留保は必須であるということである。そして、その内部留保は人民を富ますために行うのであり、一部の階級の人たちを富ますためのものではないということでもある。また、人民を富ますためには、税金の取立ては少なくすべきであり、そういう国家の体系をつくるべきであるとしているのである。そうすれば、「衣食足りて礼節を知る。」ことになるので、不仁な者は出なくなるので、平穏な生活、平穏な国家運営が当たり前のようにできるようになるということである。
さて、わが国は本年の4月から消費税を8%にすることが決まっており、数年のうちには10%になることになる。もちろん、そのための対策も様々政策の中に盛り込んではあるが、それがこの税負担に耐えられるような抜本的な政策であるようには思えない。世界の他の国と比較しても、もともと高税金の国家であるわが国の消費税を本当にこんなにあげる必要があるのであろうか。消費税を上げるということ以外は、何の改革もされていないというのが現状であるように思う。消費税の負担は、国民の中に多くいる弱者を益々弱者にすることは、確実である。まず、実行すべきは、鷹山のように君たる者が、自ら質素倹約を実行し、政治家の大幅な定数削減、公務員制度の改革による人員削減などではないだろうか。そういう態度を明確にして、税金の負担を国民に依頼するというのなら、それはそれで納得できるのであろうが、消費税が10%ないと国家の運営ができないなどという、よくわからない数値的な目標をいわれても、国民の多くは本当は納得していないのではなかろうか。また、国家の財政にしても、この何年かの間に破綻するような状況であるのに、何の手も打てていないように思える。財政改革は多くの国民に負担を与えることに事になるが、この少子高齢化、人口減少化社会を考えるとやらざるを得ないことであるので、そのことをちゃんと説明すれば、同意を得られるように思えるがどうであろうか。政治家は自分の人気取りのためにやらねばならない改革を後に回すなどということをやってはならないと思う。こういう姿勢が、こういう私利私欲がやらねばならない改革を骨抜きにしてしまうのである。財政改革をやる前に税金を上げるのは、高度成長の時期ならまだしも、今のような経済状況の中では、主客転倒に思える。本当に日本の将来を国民の将来を考える政治家や官僚はいないのであろうか。改革を命を懸けてやらねばならない時なのに、誠に残念なことである。このままでは、不仁な者が多くなるのではなかろうか。いや不仁な者が多くなったから、このような政策しか打てなくなったのではなかろうかとも思いたくもなるのである。上杉鷹山、二宮尊徳、山田方谷のような人物を排出した土壌のあるわが国であるので、そういう人物はいそうであるが、そういう人物の登場に期待するしかないのであろうか。しかし、この3名はその背景には道義国家を目指すという儒学的な思考があるのである。明治維新も少なくとも西郷南洲をはじめとする志士たちは、道義国家の構築ということを目指していたように思う。これもまた、儒学的な背景を持った人たちである。だから今こそ、ここで孟子が述べているような、国家構築を目指すリーダーを多く育てる必要があるように思う。
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二十七。孟子曰く、飢えたる者は食(たべもの)を甘(うま)しとし、渇したる者は飲(のみもの)を甘しとす、是れ未だ飲食の正しきを得ざるなり、飢渇之を害すればなり。豈に惟口腹のみ飢渇の害あらんや。人心も亦皆害あり。人能く飢渇の害を以て心の害となすなくんば、則ち(富貴の)人に及ばざるを憂えとなさず。
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(大意)
孟子が言われた。「飢えている者は何を食べても旨いと思い、のどの渇いている者は何を飲んでも旨いと思う。これはまだ飲食物の本当の味がわかっていない。飢渇のためにその人の正しい味覚が害われて正しい判断ができないからだ。ところで、口や腹だけが飢渇の害を受けるものであろうか。人の心とてもまた貧しさの害をうけて、正しい判断ができなくなるものだ。それ故、もし貧しさのために正しい心まで害われないほどの人ならば、富貴の点においては、よしんば他人に劣るとも、些かも心配する必要はない。なぜなら、それだけでその人はすでに尊い人といえるからなのだ。
「貧しても貪しない」人は君子であると孟子は述べているのである。人間は自分が窮地に追い込まれた時にその人の真価がわかるといわれるが、その通りであるように思う。私自身仕事柄よくそういう状況に出くわすので、益々そのことがよくわかる。いつも、自分を正当化して、強い人間だと吹聴していた者が、窮地に追い込まれたら、周りの状況判断もできず一番先に逃げるというようなことである。もっとひどいのは、窮地に追い込まれているという自覚なしに、自分の考えに固執して、対応を考えもしないということである。
ここで思い起こされるのは、戊辰戦争のことである。その発端は鳥羽伏見の戦いであるが、このときの初戦での幕府の高級官僚たちの対応がこの戦いの敗戦に繋がったといっても過言ではないように思う。上鳥羽村小枝橋がその開戦地点であったようである。徳川軍の大将は大目付滝川播磨守であった。彼は最も激越な主戦論者であり、「討薩長」の首謀者でもあった。薩摩軍の軍艦は椎原小平太である。小枝橋に薩摩軍は、関所を設けていた。ここで、滝川播磨守と椎原小平太で「通せ」「通さない」の問答になった。これを見ていた徳川方の士官たちは焦れて、問答無用と砲二門を引き出して、薩摩藩の歩兵陣地に狙いをつけて将に発射しようとした。それを目ざとく見つけた薩摩軍は、砲兵指導官の野津鎮雄、道貫の臨機応変の処断で発砲した。それが、徳川方の砲二門に命中した。この野戦砲が初弾で命中するというのは奇跡に近かったようであるが命中した。砲二門は粉々に砕け、砲兵の士官たちは吹っ飛んだ。この砲弾の威力にもっとも驚いたのは滝川播磨守であった。血相を変えて馬に飛び乗り、そのまま一目散に逃げてしまったのである。この戦いで最後まで戦、ったのは、佐々木唯三郎の指揮する見廻組だけであったようである。その佐々木の制止にも関わらず、馬蹄で味方の歩兵まで傷つけ、後方の淀の本営まで逃げ込んだ。後方にいた洋式歩兵部隊は、戦況がわからないので、滝川播磨守が血相を変えて逃げていくのを見て、負けたと思って、銃や砲弾を捨て散らかして退却した。このほかにも松平豊前守などの主戦派も指揮官としていたが、所詮は口舌の徒だったのであろう。窮地を窮地と自覚せずに、勝利を当然と認識していた徳川軍の指導官たちは最初から驕っていて、京を占領したあとの宿舎まで決めていたらしい。それに対して、薩摩軍の西郷や大久保はこの戦いには負けるかもしれないので、その時は幼帝を立てて、芸州広島に逃げて、挙兵を呼びかけよう、それで薩長が亡んでもかまわないとまで考えていたのである。
まったく、窮地におかれた時の指導者の考え方、対応によって、勝機を逸して勝てる勝負にもまけるということはこのことであり、過去の威光をかさにきて、窮地を窮地とも思わず、臨機の対応も考えない者は自滅自壊していくということにもなる。だから、とくに指導者たる者には、窮地に対応するための能力、人間力が必要になるのである。今回も都知事選が行われたが、結果は皆さんご存知の通りであるが、今回都知事になられる舛添さんについては、物事に固執するタイプではないが、窮地に対応する人間力、能力を持っているかは、疑問視している。これまでの政治家として、対応を見ているとそう見ざるを得ない。君子たらんことを自覚して、このあたりの精神を自ら取り入れ、改善をしながら、都政に当たってもらいたいものであると思う。
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二十九。孟子曰く、為すある者は譬えば井を掘るが若し。井を掘ること九軔なるも泉に及ばざれば、猶井を棄つとなすなり。
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(大意)
孟子が言われた。「何事もやり遂げなくては駄目である。たとえていえば、井戸を掘るようなものだ。九軔の深さまで掘り下げても、水源に達しないで途中でやめてしまったなら、その井戸を捨ててしまったのとおなじである。」
あと一歩というところで、任務や仕事を投げ出してしまったら何もならないということである。何事も忍耐をもって、黙々と結果がでるまでやり続けることが必要であるということでもある。確かに目標、目的達成意識の強い人は、それ相応の結果を得ることができるように思える。また、そういう人は、常日頃から、地道に目標、目的達成のための努力をするからである。更にそういう人には天運も味方するものでもある。今、ソチオリンピックが行われているが、わが国の選手たちの活躍をみてみてもそういうことが言えるのではなかろうか。もちろんメダルを取るということが一つの大きな目標ではあろうが、結果メダルが取れなくても、目標に向かって、努力、研鑽したことが、次への選手として、あるいは、社会人としてのステップを力強く支える源泉になることは間違いないように思える。要するに、何事も途中で投げ出してはいけないのである。途中で投げ出しては、自分に得るものは何もないのである。また、途中で投げ出す人は反省のない人であるともいえる。反省がないのであれば、次へのステップを踏むこともできないのである。常に何事でも結果を得るということが大切であり、そういう結果の積み重ねが、予想もしない大きな結果(成果)を生むことになり、その積み重ねが、その人に内包されることにより、その人のより良い人格の形成、人間力の強化に繋がるのである。
公卿政治から武家政治へ。武家政治の完成者である源頼朝は、「坂東の武士は強いのだ。これが結束するならば、天下を敵として戦っても、決して負けることはない。天下を争うには、色々困難なこともあろうが、関東に籠って戦う分には、決して負けることはない。これほどの力を持っていながら、西国武士共(平家)の下風に立って侮蔑に甘んじなければならないことはないではないか。坂東独立国を樹立するために、いっちょう源氏累代の主家である私とともにやろうじゃないか。」(海音寺潮五郎著・覇者の条件・文春文庫)という坂東独立国樹立ということを目標として、まず、坂東の武士たちに呼びかけて、平家に宣戦布告するのである。実は頼朝の手勢は20~30人であった。北条時政の手勢を合わせても100人そこそこだったのであるが平家に戦いを挑むのである。まず、伊豆における平家の荘園の代官である山木判官兼隆を討ち取り、石橋山の合戦となる。しかし、ここでは大きく敗れることになる。300対3000であるからいたしかたはあるまい。この結果を大きく反省し、再度、目標を明確にし、目標に向かって、周りを説得しながら、突き進んで行く内に、多くの武士たちがはせ参じるようになり、総勢4万人にもなることになり、平家追討へと軍を進めることになることになるのである。そして、坂東独立国樹立どころか、平家を滅亡に追い込み、鎌倉幕府を立てることになるのである。もちろん、天運もあったであろうが、結果がでるまで諦めない、結果を踏まえた上でステップアップを図るという頼朝の思い込み、人間力(特に意志力)がそうさせたということがいえるのではなかろうか。「井を掘ること九軔なるも泉に及ばざれば、猶井を棄つとなすなり。」である。
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三十三。王子墊(てん)問いて曰く、士は何をか事とする。孟子曰く、志を高くす。曰く、何をか志を高くすと謂う。曰く、仁義のみ。一(ひとり)にても罪なきものを殺すは仁にあらず。其の有にあらずして之を取るは義にあらず。居悪(いず)くにか在る、仁是れなり。路悪くにか在る、義是れなり。仁に居り義に由れば、大人の事備わる。
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(大意)
斉国の王子、墊がたずねた。「先生、士たるものは、何を心がけたらよいのですか。」孟子は答えられた。「それは志を高尚にすることです。」墊がたずね返した。「志を高尚にするとは、どういうことでしょうか。」孟子は答えられた。「いつも仁義に志しさえすればよいのです。例えば、ただひとりの人でも罪のない者を殺すのは仁ではありません。自分の物でないのに奪い取るのは義ではありません。また、常に身を置く所はどこかといえば、それはただ仁なのです。常に踏み往く道はどれかといえば、それはただ義なのです。このように常に仁に身を置き、義によって事をふみ行えば、それだけで大人物たる資格は充分に備わっているのです。これこそ士たる者の、常に心がけるべきことなのです。」
斉の王子墊の士たる者の心構えを問われたことに対して、孟子は仁義に志すことであると述べているのである。また、罪なき者を殺すのは仁ではないし、他人のものを奪い取るのは義ではないと述べている。更に常に仁に身を置き、常に物事に対しては義を踏むことが大切であると述べているのである。士たる者は常に仁義を心がけ、仁義を志すことが大切であるということである。孟子に言わせれば、この戦国時代に於いて、士としての心構えのある者は皆無に等しいということである。仁義を志し、戦うのを聖戦というのであるが、日本の戦国時代に聖戦を旗印にした武将がいる。それは、皆さんもご存知上杉謙信その人である。
上杉謙信は「義」を旗印にして、自国の領土拡大のための戦争はいっさいやらなかった人物であるように思う。武田信玄との川中島の戦いなども、信玄に追われて、越後に逃げ込んできた信濃の武将たちの救済のために行ったものでもあり、その後の関東地方の鎮撫の戦いでも関東管領としての役目を仰せつかったことにより行ったものである。また、謙信は毘沙門天を信仰し、北方の守護神としての自覚を持っていたので、そういう考えに尚更拍車がかかった。皆さんもご存知のとおり、軍旗には「毘」(毘沙門天の毘)の文字が書かれている。北方の守護神としての領国にいる人民に対する親愛の情(仁)と他人の領地、領土を奪い取るような戦いはしないという「義」という大義を旨として戦場に挑んだのである。その信念を以て戦ったということもあり、とにかく強かったようである。また、謙信に可愛がられ、謙信を師と仰いで謙信の思想を継いだ直江兼継は「愛」という文字を自分の兜の前立てにしていたのは有名な話でもある。また、徳川家康により、領地、石高を大きく減らされた(前にも述べたが120万石から30万石へ、4分の1に減らされた。)上杉家にあって、これからは、大きな戦争は当分なく、平和な世の中が続くことになろうであるからと考え、「武から農へ」の変革を目指して、多くの批判を受けながらも、兼継は、その農業政策を実行していくことになるのである。これもまた、領民を守るという「仁」と領国を独り立ちさせて他国に迷惑をかけないという「義」の思想がその根底にあったものであるように思う。前述した上杉鷹山もまた、この兼継の思想を継いでいるように思う。
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三十五。桃応問いて曰く、舜天子となり、皐陶(こうよう)士となりて瞽瞍人を殺さば、則ち如何。孟子曰く、之を執らえんのみ。然らば舜は禁ぜざるか。曰く、夫れ舜悪くんぞ得て之を禁ぜん。夫(かれ)は之を受くる所あるなり。然らば則ち舜は如之何(いかん)せん。曰く、舜は天下を棄つるを視ること、猶敝蹝(へいし)を棄つるがごとし。竊に負いて逃れ、海浜に遵いて処り、修身訢然(きんぜん)として楽しみて天下を忘れん。
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(大意)
門人の桃応がたずねた。「先生、舜が天子で皐陶が裁判官である時に、舜の父の瞽瞍がもし人殺しをしたら、その処分はどうするのでしょうか。」孟子は答えられた。「もちろん皐陶は法によってすぐさま瞽瞍を罪人として捕らえるだけのことだ。」桃応がまた、たずねた。「それでは、舜はそれを止めないのでしょうか。」孟子は答えられた。「いくら舜が天子だからといって、どうしてそれを差し止めることができよう。彼には代々受け継いできた天下の大法というものがあって、天子といえども私することはできないのだ。」桃応が言った。「では、この際、舜はどうしたらよいのでしょうか。父が死刑にあうのを見ているのですか。」孟子は言われた。「「舜は天下を捨てることは破れ草履を捨てるぐらいにしか思っていないから、天子の位を投げ打って竊に父を背負って逃げ、人知れぬ海辺にそうて遠い辺地に行ってかくれ住み、一生涯にこにことして父につかえて楽しみ、天下の事などは全く忘れてしまうことだろう。」
皐陶は舜が君主として天下を統治していた時の賢臣である。孟子は、そういう人格が高い人間であれば尚更、天下の大法によって、いくら天子の父親だからといっても捕らえ処断するであろうと述べている。また、舜も天下の大法を私的な感情で破ることはできないとも述べているのである。さらに、それでは、舜は刑が執行されることをただ見ているだけなのですかと門弟の桃応が孟子に問うと、孟子は、「いや、おそらく舜は、天子という自分の位など打ち捨てて、父を連れて逃げ、誰も知らない辺境の地で父瞽瞍に孝行を尽くしながら、楽しく暮らすであろう。」答えるのである。罪人であっても父は父、その父に対する孝行は、天子として、政治を行うことよりもずっと大切なことであり、「孝」とはそういうものであるということである。父の瞽瞍は、舜がまだ世の中に頭角を現さないでいる頃、舜が気に入らず、虐待の数々をしている父である。そういう父であっても孝行を尽くすことが天命であるということでもある。「孝」とは、ある意味命がけである。罪人である父をかくまいながら生活するということは、現代風に言えば犯人隠匿の罪であるので自分も罪人になるのである。昨日、天子であった人が、明日は罪人になるのである。そうであっても尚且つ孝行を尽くすことが人間としての生きる道ということである。
現代の我々の感覚からすれば、非常に理解しがたいことであるようにも思えるが、「孝」とは、それほど大切なものであると孟子は述べているのである。確かに、今ある自分の存在は両親がいなければ、無いにも等しい。両親のお陰でこの世に生を受けたのである。いくらお金持ちになろうが、高位を得て社会的にえらくなろうが、有名人になろうが、両親がいたればこその自分である。これに関する恩恵は本当に「海よりも深く、天よりも高い」ものである。このように考えると孝行の大切さというのがよくわかるのではなかろうか。そう思うと、生を与えてくれた両親に生命を賭けて支えるというのも当然のように思える。また、こういう自覚を持った人々が世の中に多くなれば、世の中は安定してくるようにも思えるし、こういう自覚を持てるための社会環境の整備も必要であるように思う。中江藤樹は過去に順受の会でも勉強したが、「孝」について下記のように述べている。
父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深い。あまりにも広大で無類、無辺であるので、不徳の人は、その測り知れない恩徳がわからず、それに報いることも忘れ、恩があるとも恩がないとも考えず、自分ひとりで生きてきたように思っている。
自分ひとりで生きてきたかのように思っている人が多くなってきているのは現実である。また、次のようにも述べている。
元来、「孝」の徳は、天の主要な徳(愛敬の徳)であるので、この一念をもって善を行うと、その善は天に通じる。また、悪を行えば、それも天に通じる。その行動がそのまま、さっと天に通じる、大通一貫の道理である。それはそのまま、善には幸いを与え、悪には禍を及ぼすということである。
「孝」の徳は天に通じるのである。さらに「孝」の因果関係については次のように述べている。
世間の家庭によくある因果関係は、親孝行をしてきた人は必ず、親孝行をしてくれる子供をもうけ、親不孝をしてきた人には、必ず、親不孝な子供が生まれるということである。また、親孝行をしてきた嫁は、必ず、自分の息子に親孝行な嫁を迎え、親不孝をしてきた嫁は、必ず、その息子に親不孝な嫁を娶るものであるということである。
現在は、こういうことの悪い方の連鎖で親の大切さを感じない人が多くなったようにも思える。中江藤樹自身も親孝行のためにその当時脱藩すれば、追い討ち、切腹の罪に処せられるのを承知で藩の許可無く、大洲藩を出て行く(脱藩する)のであるから、親孝行のために命を賭けたということになろうか。それほど「孝」ということは大切なことなのである。
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三十七。孟子曰く、食(やしな)いて愛せざるは、之を豕(ぶた)として交わるなり。愛して敬せざるは、之を獣として畜(やしな)うなり。恭敬は幣(おくりもの)の未だ將(ささ)げざる前に存する者なり。恭敬にして実なければ、君子は虚しく拘(とど)まるべからず。
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(大意)
孟子は言われた。「ただ食禄を与えておくだけで、愛する心がなければ、それはただ豚として扱っているようなものだ。また愛するだけで敬う心がなければ、犬や馬などの獣を飼うのと変わりがない。豚あつかいも獣あつかいも賢者を遇する道ではない。いったい賢者を迎えるには、礼物を贈るのが礼儀だが、礼物を差し出すよりも前に、尊敬の心というものがまずなくてはならないものである。もし尊敬が礼物という形式だけにとどまって、本当の真心がこもっていなければ、君子はいたずらに引き留めておくことはできないものだ。」
賢者を遇するには、ちゃんとその手腕に応じた報酬を与え、愛敬の心を以て迎え入れることが必要であると述べているのである。賢者を分に応じた報酬も与えず、愛敬の心を持たずにただ利用しようというのは盗人と一緒であるとも述べているように思える。また、分に応じた報酬与えるだけでも駄目で、愛敬の心を以て迎え入れるだけでも駄目であり、両者があって始めて本当の賢者を迎え入れることができるということでもある。賢者にこのような対応を以て接し、召抱えれば、賢者は自分の持てる総ての力を以て、その主人に仕え、尽くすことになり、そういう賢者を配下に持つ主人は必ず物事を成就させることができるということになる。国家においても、企業においてもこういう人材の使い方ができるトップがいれば、その国家や企業は繁栄していくに違いないようにも思える。
昨年、勉強した唐の太宗などはその代表的な人物ということができるのではなかろうか。また、日本においては、豊臣秀吉や徳川家康などの人材の獲得法や人心掌握の仕方などをみると、この例に漏れないように思える。つまり、将の将たる器量が必要になるのである。現在、NHK大河ドラマの主人公である黒田官兵衛孝高などもそういう人物であったように思える。黒田官兵衛は、普段の暮らしぶりはかなり質素にしていたようである。それは、イザ事が起こったことの対応のために蓄財を怠らなかったからであると伝えられている。自国を守るために必要があれば、それに応じて、財の用立てがいつでもできるよう常に準備しており、事が起こったときの人材の登用には、それをドッと使ったようである。更に、軍略に秀でた軍師という一面もあるが、自分の配下の者に対しては、常に愛敬の念をもって接していたようである。関が原の合戦のときは、徳川でもない、豊臣でもない第三勢力を作って、勝ったほうと対決しようと思って、軍を挙げたときも、蓄財をしていた金銀をすべて投げ打って、兵を登用したようであるその数3千6百であったという。そのころ黒田家は中津15万石だったようである。そうして、九州を席巻して、島津以外はすべて平定して、西に上ろうとしたときに関が原の合戦が、終わったために、今後の自国のことを考えて、軍を退いたようである。本当は、前述のような考えで軍を挙げたようであるが、徳川のために豊臣方と戦ったとして、自国の安定を第一にしたのである。この合戦の功労者として、徳川家康から黒田親子二人に感謝状が下され、息子の黒田長政には筑前53万石が与えられた。この機に敏、変わり身の速さは誠にみごとである。晩年、隠居してから、少ない供を連れて、しょっちゅう城下に出て、昔の自分の配下の者の家をたずねては、気軽に立ち寄って、茶などを所望したりしながら、城下の探索をしたり、子供が好きだったので、子供たちと遊びまわったり、また、自分の隠居家につれていって遊ばせたりしていたようである。こうして、黒田53万石は、幕末に至るまで繁栄していくのである。黒田官兵衛自体も賢者であるが、色々な賢者を抱えるに分に合った報酬を与え、愛敬の念をもって接した黒田家の家風がそうさせたのであるように思う。
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四十。孟子曰く、君子の教うる所以の者五つ、時雨の之を化するが如き者あり。徳を成さしむる者あり。財を達せしむる者あり。問に答うる者あり。私(ひそか)に淑艾(しゅくかい)せしむる者あり。此の五つの者は、君子の教うる所以なり。
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(大意)
孟子が言われた。「君子が人を教育する方法は五つ通りある。すなわち第一は、ほどよく降る雨がしぜん草木を養育するようなやり方である。第二は本人の徳性を完成させるというやり方。第三は本人の才能を十分に達成させるというやり方。第四はただたんに質問に対して答えるだけというやり方。第五は間接に教えを受けて自分で修養させるというやり方である。この五つのやり方は君子がそれぞれ本人の個性に応じて、人を教育する方法なのである。
人を教育するには、その人に応じた方法があり、すべての人に同じような教育をしてもその人の能力を高め、人格を高めることはできないということである。また、教育とは常に「マンツーマン」であるということでもある。その人の能力や徳性に応じて、ある人には、自然に能力や徳性が身に付くように教えるとか、ある人には、徳性が少し欠けていると思えば、徳性を育てる教育をするとか、ある人には、他よりも秀でたものがあればそれを伸ばす教育をするとか、ある人には、コミュニケーションの能力が欠けていると思えば、質問をして、それにどう回答、対応するかを訓練させるとか、ある人には、主体性が欠けていると思えば、過去の偉人であるとか、周りにいる徳性も能力も持っている人を目標にして、主体的にそうなるように努力させるとかのその人に応じた手法が必要であるということである。このことは総て注入主義の教育ではなく、啓発主義の教育ということになる。また、教育というものは、徳性、能力をバランスよく育てていかなければならないということである。このバランスを育てるために教育はあるといっても過言ではあるまい。
石田三成という人は、皆さんも良くご存知の歴史上の人物であるが、この人は、能力はあっても徳望がなかったように思える。いわば、生粋の官吏肌ということであろう。徳望がないので、あれだけの地位、機転の良さをもっているのに、戦いに勝てない。自身が大将として望んだ合戦に一度も本当の勝利をしたことが無いのである。徳望がないので、せっかく味方にした者も離反していくのである。でも官吏としての能力はすごいものを持っているのである。いくら能力はあってもこういう人がトップに立ってはいけないのである。能力と徳望のバランスが良くないとトップになれない、なってはいけないのである。こういう人には徳性を身に付けさせるための教育が必要ということになる。
さて、戦後の日本の教育は、能力を高めるための教育には熱心であったが、徳望を高めるための教育にはさほど力を入れていなかったということがいえる。だから、現在の日本の指導層には、この石田三成タイプの人間が多いように思える。頭は切れ、優秀であるのであるが、ドライで、執拗であり、陰険さも持っているというような人物像であるが、こういう人が出世するというのもまた事実でもあろう。また、戦後の日本の教育は、単一的に能力のある人間を育てようとして、こういう人材を造成してきたということもいえるように思える。これからは、本格的に個性や主体性を伸ばす教育をしていく必要があるように思う。それは、ここで孟子が述べているような教育の手法である。そうでなければ、「将に将たる器」「トップにトップたる器」の人材が育成されないからである。そういう人材がリーダーシップをとっていかなければ、亡国に繋がることにもなりかねない。
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四十二。孟子曰く、天下に道あれば道を以て身に殉わしめ、天下道なければ身を以て道に殉う。未だ道を以て人に殉う者を聞かざるなり。
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(大意)
孟子が言われた。「天下が治まって道が行われているときには、わが身が道を従えて、世に出てこれを大いに実行するのがよい。天下が乱れて道が行われないときには、わが身を道に従わせて、ひたすら世に隠れて、道を守り修養するのがよい。仕えても隠れても道とわが身とは、一日として離れてはならないもので、如何なるときでも他人に阿るために、道そのものを犠牲にするなどということはまだ聞いたことがない。」
世の中が道義、道徳が当たり前のように行われている環境にあれば、尚一層、それが行われるように推進し、世の中が乱世になって、道義、道徳が行われなくなっても、自分自身は道義道徳を守って生活をし、行動していく。周りの環境がどうであろうが、道義道徳を保持していくことで自分自身の主体性を確立させていくことが重要であるということである。また、世の中がどう推移しようが、道義道徳を守るということはこの天地自然の道理の中に生きる人間としての不変の真理であるということでもある。孟子は如何なる時にも、如何なる事態にも道義心、道徳心を失ってはいけないし、それを失うことは禽獣と同じで、人間ではないといっているかのように思える。また、孟子は人間は四端の心(惻隠・羞悪・辞譲・是非の心)を誰でも持っており、それはそれぞれに惻隠は仁、羞悪は義、辞譲は礼、是非は智につながるものであり、この仁義礼智が道義心、道徳心に繋がるものであり、人間特有のものであるとしているのである。そして、この道義心、道徳心を常に強くもって行動できる人は、どんなものにも流されない、揺れない心を構築することができるということになる。つまり、主体性を確立させることができるのである。
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四十四。孟子曰く、已むべからずに於いて已むる者は、已めざる所なし。厚くす所(べき)者に於いて薄くするは、薄くせざる所なし。其の進むこと鋭(はや)き者は、其の退くことも速やかなり。
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(大意)
孟子が言われた。「道理上やめてはならぬ事を平気でやめてしまう者は、どんな重要な事でも成し遂げずにやめてしまうものだ。十分に手厚くすべき事柄を平気で手を抜く者は、どんな事でもやはりまた手を抜いてしまうものだ。あまり性急に進み過ぎる者は、また、さっさと気早く退くものだ。熱し易いものは、また、さめやすい。」
やめてはならないことを平気でやめる。重要なことであるのに手を抜く。熱しやすくてさめやすい。このようなことが自分の慣れ性になっている人は、本当に同じ事を繰り返すものであるように思う。要するに、甘えや私意がそうさせるのである。つまり、意志力が薄弱なのである。ここでやめると、ここで手をぬくとその作業が、その事業が成り立たなくなり、他人に迷惑をかけるということに気がつかない、もしくは私一人くらいがと思って気をつけないのである。こういう人は構想力も責任感もないので人の上に立つことはできないように思う。孟子はそういう人たちに対して、何事でも、事に臨んで、それを成し遂げるという強い意志力とネバーギブアップの精神を持たなければならいと言っているのである。また、この心構えを持つためには、人間としての道理を守り、それにそって行動していくことが重要であると言っているのである。つまり、真の大丈夫になるためにはこのようなことに注意を払わなければならないと言っているのである。前述もしたが真の大丈夫について、孟子は滕文公章句下で次のように述べている。
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天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民とこれに由り、志を得ざれば独りその道を行う。富貴も淫すること能わず、貧賤も移すこと能わず、威武も屈すること能わず、これこれを大丈夫という。
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(大意)
天下を広い住居として、天下の真ん中に立って、天下の大道を歩む。目指す地位を得れば、人民とともに道を実現し、目指す地位が得られなければ、自分ひとりで道を実践する。富貴にも迷わされず、貧賤にもくじけず、威武をものともしない。こういう人が本当の大丈夫なのである。
甘えや私意を去り、意志力を高め、主体性を確立するためには、このような大丈夫としての心構えが必要ということになる。
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{盡心章句下}
一. 孟子曰く、不仁なるかな梁の恵王や。仁者は其の愛する所を以て其の愛せざる所に及ぼし、不仁者は其の愛せざる所を以て其の愛する所に及ぼす。公孫丑曰く、何の謂いぞや。曰く、梁の恵王は土地の故を以て其の民を糜爛して之を戦わしめ、大に敗れたり。将に之を復(むく)いんとして、勝つこと能わざるを恐る。故に其の愛する所の子弟を駆りて以て之に殉ぜしむ。是れをこれ其の愛せざる所を以て其の愛する所に及ぼすと謂うなり。
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(大意)
孟子が言われた。「何という不仁な人だろう、梁(魏)の恵王というお方は。いったい、仁者は愛するものに対する心を以て、まだ愛さない者にまでも及ぼしていくものだし、不仁者は反対に、愛されない者に対する心を以て愛する者にまでも及ぼしていくものだ。」公孫丑がたずねた。「先生、それはまたどういう意味ですか。」孟子は答えられた。「梁の恵王は土地(領土)が欲しさに人民に血みどろの戦争をさせて、その挙句、大敗をしてしまった。ところが、これに懲りもせず、今度こそ是非復讐しようと企てたが、勝ち目のないことを心配して、遂には自分の最愛の肉親たちまでも戦場に駆り出して、とうとう太子申その他を犠牲にしてしまった。かようなことこそ、愛さない者に対する心を以て愛する者にまでも及ぼしたというのである。
これは、紀元前341年の梁の勢力が盛大に成っている時に韓に責めいって領土を広げようとした戦いのことを言っているのである。攻め入られた韓は、斉に救援をもとめ、その翌年に馬陵の戦いで梁は斉の孫矉の戦略に大敗し、梁の将軍龐涓(ほうけん)は戦死し、太子の申は捕虜となるのである。孫矉は孫子の子孫といわれている人である。この戦いの結果、梁の恵王の覇業は衰え始めるのである。この梁の恵王の晩年(紀元前320年頃)に孟子は恵王の政治顧問になるのである。このあたりについては、梁恵王章句に詳しく述べられている。
権勢を窮め、領土を拡大する欲が出た恵王は勢力が弱っている韓に潜入し、領土を拡大していくのであるが、侵略していく領土を焦土と化し、その地域に住む人々をないがしろにした支配を行い、それに反発され、韓の王室は斉に救援を頼むに及び、梁は斉に決戦を挑むのであるが大敗に帰すのである。その時に大切な自分の部下や親戚を戦死させ、自分の子である申を捕虜に取られるのである。恵王の私欲から発した侵略が、自分の愛する大切な人々を失わせ、領土を逆に削られるという結果になるのである。この後も恵王は様々な策略をもって、対応していくが、斉からも更に秦からも攻められて、益々衰退していくのである。将に、愛さない者に対する心を以て、愛する者にまで及ぼした結果ということが言えるのではなかろうか。
今回大阪市長選があったが史上最低の投票率であったようである。また、9%を越える白票があったともいわれている。橋下市長が大阪都構想を以ての出直し選挙であったのであるが、結果が物語っているように、大阪都構想を大阪市民が良しとしているようには思えない。また、一票投じた人たちも他に適当な人がいないので投票したというのが大部分であるようにも思える。自分の思い込みを実現させるには、あまりにも節足であり、本当の市民の声とするまでに到っていないのである。これこそ、自分の構想を愛さない者に対する心を以て、自分の愛する仲間、日本維新の会にまで悪影響を及ぼす結果になるのではないかと思うのである。もうすでに離党者も出ているようである。橋下市長もここは不仁者の論理ではなく、仁者の論理を以て対応してもらいたいものである。そうでないと、日本維新の会の廃退に繋がる。
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四.孟子曰く、人あり、我善く陣(陣立て)を為し、我善く戦を為すと曰うは、大罪なり。国君仁を好めば天下敵するなし。南面して征すれば北夷怨み、東面して征すれば西夷怨みて、奚為(なんす)れぞ我を後にすると曰わん。武王の殷を伐つや、革者三百両、虎賁三千人。王畏るること無かれ、爾を寧(やす)んずるなり、百姓を敵とするにあらずと曰えば、殷の民崩るるが若く厥角稽首せり。征の言たる、正なり。各(各々)己を正さんことを欲せば、焉んぞ戦を用いん。
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孟子が言われた。「・私は陣立てもうまいし、戦争も上手だ・と自慢する者があったら、それこそ実に天下の大罪人である。そもそも一国の君主たるものが仁を好むならば、民は皆心服して天下無敵である。例えば、殷の湯王のように、南に向かって征伐すると北方の未開人が怨み、東に向かって征伐すると西方の野蛮人が怨んで・なぜ、我々の国から先に征伐してくださらんのか・といったようにきっとなることであろう。また、周の武王が殷を伐ったときには、革で張った戦車三百台、勇士はわずか三千人に過ぎなかったが、殷の人民を諭して、・わしを恐れるな。お前たちを安心させるために参ったのだ。わしの敵は紂王一人なのじゃ。一般民衆を敵とするのではないぞ・と宣言されたので、殷の人民たちは一斉にくずれるような勢いで頭を地につけて拝礼帰服したという。元来、征という言葉は、正すという意味である。暴君に虐げられている人民たち一人一人みな・早く仁者が来て、自分等の国の政治を正してもらいたい・と待ちのぞむならば、敵対する者はないのだから、なんで戦争などの必要があろうか。」
孟子は王師とはこういうものであると述べているのである。この中の湯王の王師のことについては梁恵王章句下に次のように述べられている。
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斉人、燕を伐ちてこれを取る。諸侯将に謀りて燕をすくわんとす。宣王曰く、「諸侯寡人を伐たんと謀る者多し。何を以てかこれを待(とど)めん」。孟子対えて曰く、「臣、七十里にして政を天下に為せる者を聞けり。湯是なり。未だ千里を以て人を畏るる者を聞かざるなり。書に曰く、・湯一て征すること、葛より始む・と。天下是を信じ、東面して征すれば、西夷怨み、南面して征すれば、北狄怨み、奚為れぞ我を後にすると曰いて、民これを望むこと、大旱の雲霓を望むが若し。市に帰する者は止まらず、耕す者も変わらず。その君を誅してその民を弔(あわれ)むこと、時雨の降るが若く、民大いに悦べり。書に・我が后を俟つ、后来たらば其(すなわ)ち蘇らん・と曰えり。今、燕はその民を虐ぐ。王往きてこれを征せるに、民将に己を水火の中より拯(すく)わんとするならんと以為(おも)いて、簟食壺漿(たんしこしょう)して以て王師を迎えたり。若しその父母を殺し、その子弟を係累ぎ、その宗廟を毀(こぼ)ち、その重器を遷さば、如何にしてそれ可ならんや。天下固より斉の彊きを畏る。今また他を倍して仁政を行わざるは、是れ天下の兵を動かしむるなり。王速やかに令を出して、その旄倪(ぼうげい)を反し、その重器を止め、燕の衆に謀りて、君を置きて後これを去らば、則ち猶止むるに及ぶべきなり。」
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(大意)
斉国が燕を征伐して占領したところ、諸侯が謀議して燕国を助けようとした。宣王がたずねられた。「列国がわが国を攻撃しようと謀議している。どうしたらこれをやめさせることができようか。」孟子が答えられた。「私は方七十里の国家で天下を統一した人があることを知っています。殷の湯王がそれです。王様のように方千里の国家を持ちながら、他人を気にかけられる人を知りません。・書経・に申しております。・湯王が最初の征伐の軍をあげられたとき、まず無道の葛国から戦を始められた。天下は湯王の目的を信頼したので、湯王が東方に向かって軍をすすめられると、西方の夷族が怨み、南方に向かって軍をだされると、北方の狄族が、どうしてこちらを後回しになさったと怨んだ・と。天下の人民が湯王に期待することは、まるで大干害の時に雲と虹を見るようでした。市場におもむく者はちっとも後を絶たず、耕作をする者も少しも様子がちがいません。湯王が夏の暴君を征伐され、民の難儀を見舞われると、人民はまるで日照りのときに時雨の降るように待ちうけ、大喜びでした。書経にある、・我が君の来たりたもうのを待ちあこがれる。君がきたりたまえば、われわれは、皆蘇る・」というようなありさまでした。現在、燕国の君が人民を虐待していたところへ、王様が征伐の軍を進められたので、人民は水火の苦しみから救い出される思いで、弁当箱にご飯を詰め、壺に飲料を入れて王様の軍隊を歓迎したのでした。しかし、聞くところによると、燕の人民の父兄の有力者を殺害し、その子弟を牢屋につなぎ、燕国の宗廟を破壊し、そこに納められた宝器を斉に持ち帰られようとしている。もしそれが事実ならば、これはなんというやりかたでありましょう。天下は以前から斉国の強大さを警戒しています。今、さらに燕国を占領して領土が倍になり、しかも占領政策が道理に合わないというのですから、天下が軍隊を動かすことになるのは当然でしょう。王様はさっそく勅令を出され、老人と幼少の囚人たちを放免し、宝器の運搬を中止され、燕国の人民の意見を聞いて、適当な君主を立てて軍隊を撤収されたなら、天下の軍隊の攻撃を止めることができるでしょう。」
斉の宣王が燕を占領したことは、その当時の秦、燕、趙、韓、魏などとの勢力の均衡を崩す大事件であった。この事件に際し、燕を除く4国がともに協定をして、斉に干渉をはじめた。宣王はこの4国干渉に恐れをなして、孟子に解決策を求めた。孟子は、殷の湯王の例を出して説き、王師でなく、侵略してからの占領政策が良くないので、燕の民衆が宣王を君主と仰がないのだとして、燕に適当な人材を登用して、燕の民衆が納得する君主を立てて、駐留している軍隊を撤収させ、略奪しようとしている宝器などを返却し、民衆への弾圧を止めれば、燕の民衆は宣王に心服するであろうと述べているのである。また、そのように道理に適った政策を実行すれば、他国の干渉などというものを恐れる必要はなく、自然なくなるであろうとも述べているのである。この燕の侵略については、燕の跡目相続争いで内乱状態にあったことに乗じて、北方の民族とも謀をして行ったものであり、戦勝した後に占領行政を行っていたという事情があった。戦勝者というものは、どんな時代でも占領政策を自国にとって利益のある方向へと進めていくものであるが、孟子は占領政策の一番重要なことは、そこに住む民衆に感謝されるものでなくてはならないとしているのである。孟子はこのとき、燕に侵略するのを可としたようであるが、戦勝してからの占領政策が間違っているとして、こう述べたのであるように思える。
現在、世の中は企業の買収や合併が当たり前のように行われるようになったが、買収するほうが買収されるほうよりも優位に立つということは多いようである。もともと社風が違ったところが一緒になるのであるから、様々な軋轢ができるのは当然のことでもあろう。しかし、一緒になって、目的や目標に向かって進んでいかなければ、その企業の進展も発展もなくなってしまう。そのためには、いい人材の流失を防ぐためにも、買収する側の買収される側への配慮が必要であるように思う。この配慮を欠いたり、道理に則った大切なことをケチったりすると益々軋轢が深くなり、買収以前よりも両者の分裂がひどくなり、会社の経営自体に大きな支障をきたすということになりかねない。このような実例も多いのではなかろうか。買収する時には、買収するものが買収されるものに対して、道理に適った政策を実行しなければならないということである。
孟子のこの言葉は現代にも充分に通ずるように思える。
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七.孟子曰く、吾今にして後、人の親を殺すの重きを知る。人の父を殺せば人も亦其の父を殺し、人の兄を殺せば、人も亦其の兄を殺す。然らば則ち自ら之を殺すに非ざるも、一間(わずかなへだたり)のみ。
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(大意)
孟子が言われた。「自分は今更ながら他人の父兄を殺すことが、如何に重大な事であるかが分かった。自分が他人の父を殺せば、相手もまた自分の父を殺すだろう。他人の兄を殺せば、相手もまた自分の兄を殺すだろう。そうなると自分で直接手を下して自分の父や兄を殺したのではなくとも、つまりは自分が殺したのと大した違いはない。」
将に孟子が存命した戦国時代にはこういうことが多かったのであろう。これは孟子が戦争の悲惨さ、無意味さを説いたものであるように思える。また、恨みの連鎖がその家の滅亡に繋がるということも意図しているように思える。また、戦争というものは、知らず知らずのうちに間接的に自分の家族や自分の縁者を殺すことに繋がっているということでもある。だから、孟子は被害や死者が少なくてすむ王師を好むのである。また、孫子も「戦わずして勝つ」のが最高の勝利であるとしている。
王師で思い出すのが、明治維新のときの江戸城無血開城である。その時に次のような逸話がある。徳川慶喜が恭順謹慎しており、降伏の意向をもっているのであるが、そのことを勝海舟が何回も書面をもって朝廷に送っても何の返答もない。そういうとき、このままでは、江戸が戦火に包まれると危機感をもった慶喜は、側近の高橋伊勢守(泥舟)に直接征討軍の総督府に行って、慶喜自身の意向を書面にしたものを持っていって、それを伝えて欲しいと命令を出した。しかし、慶喜は側近である高橋伊勢守をこの状況の中で手放すのは心細く思い、「誰かそなたの代わりを勤められるものはいないか」と尋ねると、それなら自分の弟(妹婿)の山岡鉄太郎(鉄舟)が適任だと推薦して、結果、山岡鉄舟がその使命をおびていくことになった。鉄舟は行くに際して、慶喜に会って心事を確認して、勝海舟に会って総督府に行く旨の報告をして、指示を仰いでいる。勝海舟は、旧知である総督府参謀である西郷隆盛に手紙を書きそれも一緒に西郷参謀に渡してくれるように依頼し、自分の手もとにいる薩州浪人、益満休之助をともに行くように依頼する(鉄舟は以前より益満をよく知っていた)。その時、征討軍の先鋒はもう六郷橋を渡ったところ当たりまで来ていたようであるが、何とか通り抜けて、駿府の総督府までたどり着いた。到着するとすぐ西郷の宿舎に行って、今回の使命を告げた。鉄舟は慶喜が赤心から恭順謹慎していることを伝え、このことを総督府から朝廷へ伝えてもらえればと嘆願した。そして更に「西郷先生は、戦争をいつまでも続けて、多人数を殺したいとお思いですか。それでは王師とは申せますまい。天子は民の父母です。子を殺す父母がありましょうか。また、王師の出ずるは理非を明らかにするためで、いやしくも非に動くことはないものと拙者は思いますが、如何でしょう。」と言った。その言葉に感じ入った西郷は「無闇に進撃をするものではありません。慶喜公の恭順の実効さえ立つならば、寛典の処置がありましょう。」と答えて、総督府に行き、降伏の条件を付けた書面をもってきた。こういうことが前段としてあって、江戸無血開城となるのである。将に王師である。
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九.孟子曰く、身、道を行わざれば、妻子にも行われず。人を使うに道を以てせざれば、妻子をも行於(つか)うこと能わず。
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(大意)
孟子が言われた。「自分自身がまず道を行わなくては、いちばん身近な妻子にすら道は行われまい。道にかなわぬ使い方をすれば、妻子ですらも使うことはできない。ましてや、他人においては尚更のことだ。」
人間としての道理は、自分が率先して行うことが肝要であり、それができれば、家族にも他の人にも影響を及ぼすことができるということである。自分が道理に適わないことをして、他の人にそういうことを強いても誰も実行しないということである。つまり、自ら率先垂範して道理に適ったことを推進していくことでしか、道理に適った世の中を構築していくことはできないということである。
この言葉には孟子自身の意思が込められているように思う。この戦乱の世の中、自分自身が、道理道徳を主体とした王道の政治を主張していくことで、諸侯や民衆に影響を与え、今のような権謀術策が横行する覇道の政治を中心とする世の中を変革していきたいというようなことである。そのことについては、孟子が晩年、故郷の鄒に帰ったときに、隣国である滕の文公から国政の顧問として招聘されたときに、この小国で自分の理想国家を作ろうと思って様々な政策を実行しているところなどをみるとよく解かる。たまたま、孟子が宋国にいるときに、宋に使いをした帰りに、その当時太子であった文公が孟子のところに立ち寄り親しく接して、その思想に感銘したということから、こういう招聘になったのである。孟子は小国である滕であるが故に仁政の理想を実現しやすく、これを理想の王道が行われる国家のモデルにして、他の大国にも広め、追随させようと考えたのである。この政策の中で一番有名なのは井田制である。この農民に農地を平等に配分するという制度は、結局はこの戦国の時代では実現できなかったが、その後、漢の時代の大地主を制限する限田制や隋、唐の時代の均田制に大きな影響を与えている。孟子のこの理想は、後の時代に活かされたということである。
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十二。孟子曰く、仁賢を信ぜざれば則ち国空虚なり。礼儀なければ則ち上下乱る。政事なければ則ち財用足らず。
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(大意)
孟子が言われた。「君主が仁者や賢者を信じて登用しなければ、その国に人材はいなくなってしまい、国は空っぽとなる。また、国に礼儀作法がなければ、君臣や上下の秩序が乱れてしまい、国は混乱する。政治や政策が貧困であれば、国の財政は欠乏する。」
確かに国でももちろんそうであるが企業でも仁者や賢者を登用しなければ、仁者や賢者は他に流出してしまい、人材がいなくなる。また、礼儀礼節、法令、規則などが失われると秩序を喪失して、様々な混乱が生じる。さらに政治や政策、企業理念や経営戦略が貧困であれば、財政、財務は欠乏する。このことは、国や企業を運営するために不可欠な要素であるかのように思う。この3つの要素がバランスよく機能していれば、様々な混乱が生じても回復力が強力になるため、うまく運営することができるように思う。このことは国家や企業を診断するのに必要不可欠のものであるように思う。つまり、現在の表面上の業績をだけで判断するのではなく、この3点がバランスよく機能しているかをみるのである。
例えば、大変業績の良かった企業が、周りの環境の変化や諸事情で大きく業績を落としたとする。そうするとこの3点が機能していない企業であれば、まず、誰彼かまわず大幅な人員の削減を実行する。人員の削減をするといい人材まで外に流出させることになる。また、従業員の給与のカットを実行する。これもまた人材の流出に繋がる。そういう状況の中では、社内規則などが乱れて、自分勝手な行動を起こすものが出てくる。そして、これはもとを正せば、企業理念や経営戦略の貧困さから生じているものである。あれだけ優良企業と思われていた企業がこれほど惰弱で空虚な企業であったのかということが表面化して、支援していた金融機関や株主、消費者までが離れていき破滅に陥るということになる。この3点がバランスよく機能している企業であれば、企業理念がしっかりしていて、経営戦略にフレキシビリティーがあり、常に周りや市場の状況を把握しているので、変化への対応力も強いので、事前に次の手を打つことができるから、大幅な人材の削減をすることもなく、当然、人材の流出も少ない。また、回復力もあるので、流出した人材をまた取り戻すこともできる。さらに社内での動揺も少ないので、社内規則が乱れるということもない。後者のような企業は現在そんなに多くあるとは思われないが、後者のような企業になるための努力は必要であるように思う。
企業理念や経営戦略、人材採用を含めた人事制度、社内規則の徹底(もちろんそれに伴う業績についても)のこの3点を検証してみることによって、その企業の実態がわかるように思う。
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十三。孟子曰く、不仁にして国を得る者はこれ有らんも、不仁にして天下を得る者は未だこれ有らざるなり。
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(大意)
孟子が言われた。「不仁な者でも、他人の国を奪い取って諸侯となった者はあるだろうが、不仁な者で天下を取って天子となった例しは、昔から今まで全くないことだ。
孟子が生きていたこの戦国時代は、大義なく自分の私利私欲のために、領土を広めたいという領土欲のために、他国に攻め入って、その領土を自分のものにしたり、諸侯になる野心を以て、自分の仕える君主を裏切り、追放したり、殺したりして、その国を乗っ取たりする輩が横行していた。そういう私利私欲から発する不仁な行いをする輩は、一時はその国の頭首として君臨はするのであるが、そう時間を置かないで、続いても二代か三代で、その国を失うことになるのがおちであるということである。このことは、この時代に限らず、確かにこれまでの歴史をみても真実であるように思う。大義を以て、世の中をそこにいる民衆のために平穏で安心に暮らせる国にしたいというような仁心をもたなければ、天下を平定することはできないということである。
この戦国乱世の時代を平定したのは秦の始皇帝であるが、この秦の時代も二代で潰えている。それは、始皇帝のあくなき欲望の強さと恐怖政治がそうさせたのであると思う。つまり、民衆を主体とした仁政などということは考えないのである。だから、焚書坑儒をおこない、法家の思想をその国是としたのである。そういう意味では覇者のひとりが、その力をもって、天下を平定したにすぎないということであり、単なる独裁国家を作ったに過ぎないのである。古今東西、独裁国家の結末というのは周知のとおりである。日本の戦国時代も、信長、秀吉と天下を平定するために努力、研鑽するわけであるが、この二人は、まだ、独裁色の強いものがあったように思える。結果、家康が天下を平定して、江戸時代という長期で安定した世の中を構築できたのは、家康自身に、この戦乱の世の中を廃して、民衆が平和に暮らせる世の中を実現したいという仁心がその根底にあったからではないかと思うのである。
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十四。孟子曰く、民を貴しとなし、社稷之に次ぎ、君を軽しとなす。是の故に丘民に得られて天子となり、天子に得られて諸侯となり、諸侯に得られて大夫となる。諸侯社稷を危うくすれば、則ち其の君を変(あらた)めて置(た)つ。犠牲既に成(こ)え、粢盛(しせい)既に洯く、祭祀時を以てす。然(かくのごと)くにして旱乾水溢あれば、則ち社稷を変めて置つ。
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(大意)
孟子が言われた。「国家においては人民が何よりも貴重であり、社稷の神によって象徴される国土がその次で、君主が一番軽いものだ。それ故に、大勢の人民から信任を受けると天子になり、天子から信任を受けると諸侯になり、諸侯から信任を受けると大夫になるというわけである。故に、もし諸侯が無道で、社稷を危うくするならば、その言を廃して改めて賢君を選んで立てる。これは君主が社稷よりも軽いからである。また、社稷の祭に供える生贄が充分に肥えふとり、供え物の穀物も申し分なく清浄で、時期をあやまらず祭ったにもかかわらず、なお、旱魃や洪水があったりすれば、社稷の神の責任であるから、その罪を責め、祭壇をこわして、新たに作りかえる。これは社稷が人民よりも軽いからである。
孟子はここで述べているように、世の中で他の何よりも人民(民衆)が一番大切なものであるとしているのである。孟子の思想は民本主義であり、現代で言うなら民主主義であるということができよう。また、君主はそういう人民から納得のいく形で選出されるのが一番道理に合っているとも述べているのである。また、そういう風に選出された君主でもその人に問題が生じれば、変えることも当然であるということでもある。更に国土やそこに生じる食物を守る祭神についても、ちゃんとしたお祭りをしているのに、旱魃や洪水などの天災が起こるのは、その祭神が悪いとしており、そういうことであれば、祭神の場所を移すとか、壊して新たに建て直すとか、変更するとかしてもよいとしているのである。つまり、そこに住まう人民、民衆が道理に適ったことを主体性をもって、実行することが大切であり、それこそが安心立命の世の中を構築するための根本であるとしているのである。そして、主体性をもって生きるために必要なことが人民一人一人に内在している仁義礼智の徳を発揮させることであるとしているのである。
翻って、現在の日本という国家は民主主義であるとされている。民主主義であれば、民衆の意向にそった、民衆の納得のいく人物がその代表として選出されているはずであるが、果たしてどうであろうか。もちろん、そういう人物も中にはいると思うが、多くは、限られた立候補者の中から選挙という手段を以て、選出されるのであるから、本当に納得いく人物が選出されているとは限らないように思う。そこには様々な権益や利権があったり、世の中に名が知れていたりとかの判断で選出されているのも多いように思える。しかし、選出された以上は、世の中の代表者として、指導者として、民意を国政に県政に市政に発揮させなければならない。民意を世の中に発揮させるためには、自ら主体性を以て、党利党派などは越えて、真摯に民衆のために行動しなければならない。つまり、選出された者の多くは、世の中の代表として、指導者としての修業をしなければならないということである。その修業とは道理に適ったことを徹底して、主体的に実行、実践するということである。そして、そういう中で民衆に本当に納得のいく代表者、指導者とならなければならないのである。選挙で選出されたというのは、民意を反映した一過程にしか過ぎないのである。選出されてから本当に民意を国政に県政に市政に反映するための努力をし続けることでしか本物の代表者、指導者になることはできないように思う。このことをすべての代議士、首長、県議、市町村議に申し上げたい。給料をもらうためや自分の権勢を示すために代議士や首長や議員になってはならないということである。
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十六。孟子曰く、仁とは人なり。義とは宜なり。合せて之を言えば道なり。
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(大意)
孟子が言われた。「仁という言葉は人という意味であり、人間らしくあれということである。
義という言葉は宜という意味であり、是非のけじめをつけるということである。この仁と義との二つを合せて、これを人の道という。
仁義は人間としての道理そのものであるということである。孟子は人間としての本性には「仁義礼智」があると説くが、その中でも仁と義とを最も重要視しているのである。
先日、新宿のゴールデン街にある居酒屋で飲んでいると隣に中国の留学生が座った。四川省の出身であるという彼は東大の大学院生で27歳だという。礼儀も正しく日本語も大変上手であったので、日中関係や日本や中国のお国柄などについて話をしていた。そのとき「論語」や「孔子」の話が出てきたので、「孔子の思想の源は仁だ。」というと、「仁とは何ですか。」と問われた。彼は早速スマホのウェブサイトで「仁」を引いて、意味がわかったようであったが、もう少し説明をしてくれと問われたので、「孔子が言っている仁とは親孝行の孝、国や人に対する真心を尽くすという意味での忠、人に対する思いやりという意味での恕である。」と説くと「恕」とはどう書くのですかと聞くので、教えるとこの字は初めて見たようなことを言った。おそらく、中国の中でも秀才の中に入るであろうような人物である彼が「恕」を知らないのである。また、仁を検索しなくては意味が明確にわからないのである。中国は共産党政権になってから、儒学を排除していたが、最近はまた認め始めたとは聞いていたが、彼のような秀才が孔子の思想をあまり知らないのである。私は日頃から、日本人はこの孔子のいう仁の中で一番大切に思っているのは「恕」であり、次に「忠」「孝」と続くというように考えており、中国人や韓国人は「孝」「忠」「恕」の順番だと考えているので、そのことも付け加えて彼に話した。
そのとき、ふと思ったのは、中国人や韓国人はこの「恕」、人に対する思いやりという教えが希薄なのではないかということである。それは最近の日韓関係、日中関係でもよく見て取れるように思う。常に自分の方が正しく、相手が間違いであると徹底して述べる思いやりのなさである。そういう意味では、中国人や韓国人は是非のけじめをつけるという「義」を押し立てているのであろう。しかし、「義」(しかも自己主張に過ぎない義)を押し立てるだけでは何も解決しないのである。孟子が言うように「仁」と「義」が合わさらないと人間としての道理が成り立たないので、いつまでたっても日韓関係や日中関係は改善されないように思える。その中国人の彼がくしくも「貴方に孔子や孟子の思想を学びたい。」と言っていたが、日本人が「恕」を含めた儒学を中国人や韓国人に教えるというのも今後の両国との関係の改善に繋がるのではなかろうかとも思うのである。
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十九。貉稽(はくけい)曰く、稽大いに口に理(利)あらず。孟子曰く、傷むことなかれ。士は茲の多口に憎まる。詩に憂心悄悄として群小に慍(怨)まると云えるは、孔子なり。肆(故)に厥(其)の慍(怨)を殄(絶)たざるも、亦厥の問(令聞)を殞(墜)さずとは文王なり。
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(大意)
貉稽が孟子に愚痴をこぼして言った。「先生、私はどうも人から悪口ばかり言われて困ります。どうすればよいのでしょうか。」孟子は答えられた。「何もそう心配することはないよ。古来、士というものはあくまで正義を主張するので、とかく多くの人に逆らって悪く言われるものだ。詩経に・いつも心配のあまりさっぱり楽しくない。多くの小人どもから怨まれそしられて・とあるのは、孔子のような場合によくあてはまるし、また、同じ詩経に・だから、小人どもの怨みは絶やすことはできなかったが、さりとてまた自分の名声をおとすこともなかった・とあるのは文王のような場合によくあてはまる。孔子や文王のような聖人でさえも、悪口はまぬかれないのだから、余り気にかけないのがよい。」
士は人間としての道理を真正面から通そうとするので、それに応じられない小人は、自分ができないのに乗じて、反対にそういう士のことを悪く言うものであるということである。孟子も孔子も春秋戦国時代という流れの中で、人間としての道理を実践することこそが、国を安定させ、繁栄させるものだということを諸国に説いてまわるわけであるが、日々の政争や戦争に明け暮れている諸侯やその要人たちにとっては、目先のことに精一杯で、そういうことまでわかっていても気が回らないのである。そういう状況の中で、このような時代に孔子や孟子の言っていることは理想論で現実には何の役にも立たないものだと悪口を言って、益々、政争や戦争の泥沼に入り込んでしまい、結局は何の解決もできないまま、時代に流されてしまうのである。
たとえば、斉の景公があるとき孔子に政治について問うた。孔子は人間としての道理として、「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしくあるようにすることです。」と答えた。また、他日に同じことを言われて「政治は財用を節約することにあります。」と答えた。景公は道理であるとして、孔子に報酬をとらせて、登用しようとした。これを聞いた斉の賢相と言われた晏嬰は「儒者と言う者は、巧言多弁ですから、その言うところを規範とすることはできません。傲慢不遜で、自分の意志に従うので、下の身分におくことはできません。服喪を重んじ、悲哀の情をとげ、家産を破ってまで葬儀を鄭重にしますので、人民の風俗とすることはできません。諸方を遊説して、財物を乞うたり、借りたりするので、国を治めさせることはできません。文王・周公らの大賢の没後、周室は既に衰え、礼楽も欠損してから久しくなりました。今、孔子は、容儀や身つくろいを盛んにし、階段登降の礼儀や、歩行の礼節を繁雑にしています。これでは年を重ねてもその学を究めつくすことはできませんし、当節では、その礼が如何なるものか究めることはできません。わが君がこれをお用いになって、斉の民俗を改善しようと望まれますのは、細民の先頭に立って民を指導される所以とはなりません。」と景公に述べて、孔子の登用に反対するのである。晏子ともあろうものでもこういう偏見があるのである。また、こういう噂の中で孔子を殺害しようという者まで出るのである。こういう非難中傷には、孔子は多くの所で遭うのであるが「一を以て之を貫く」のである。
そして、実際に登用されると、魯の定公に山東の中都の長官に登用された時のように、一年の内に四方の隣村が皆、孔子の政令を手本として、よく治まるのである。更に、司空となり、大司寇となって、孔子が政治の采配に直接、腕を奮うようになると、魯国の権威が大きく上がり、斉の景公も晏嬰もその手腕に舌を巻くようになるのである。
だから、孟子は貉稽に対して、自分が人間として道理を常に実践しているのであれば、悪口を言われても恥じ入ることなど必要ない、むしろ、そういう悪口を言っている人のほうが、ふらふらとして、何の主体性もなく、恥じ入ることもなく生きているのだからと言っているように思える。
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二十。孟子曰く、賢者は其の昭昭を以て人をして昭昭ならしむ。今は昏昏を以て人をして昭昭ならしめんとす。
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(大意)
孟子が言われた。「昔の賢者(為政者)は必ずまず徳を修めて、それから後、自分の明らかな徳で、他人を導いて明らかにさせたものだが、近頃の賢者はその徳を修めず、自分は盲のように道義に暗いくせに、おこがましくも他人を導いて明らかにしようとしている。まことにこまったものだ。
いつもも申し上げるように「己を修めて、人を治める」のが儒学の根本的な考え方である。己が修まっていないのに、人を治めることなどできないのである。孟子の生きていたこの戦国時代には、自分が修まっていないのに、人を治めようとする人種が多かったので、痛切に孟子はそういうことを感じていたのであろう。
中国の秦の時代の末期に、秦の暴政に反発して、その反発心から秦の二代目のような暗君でさえ君主となれるのだから、自分もどこかの国の君主になって、秦を倒してやると思って、陳国の王になった陳渉(陳勝)という人物がいた。最初の頃の志は高く、運も良かったが、元々が治世や治人などというようなことを勉強していないので、自分に都合のいい人間や自分に耳障りのいいことをいう人材を側近に置いた。そして、自分の都合の悪い過去を知る旧友を斬罪に処したりしたので、周りに諫言してくれるような人材が一人もいなくなった。そういう中、朱房と胡武という、陳勝が信頼していた司法長官と検察長官が自分たちの都合で勝手に人を罪に落として繫縛したり、苛酷な監察を以て正しいとしたり、験問処置したりしていたので、尚更、陳勝をよく思うものがいなくなって、結局は最後、御者の荘賈という者に殺されてしまうのである。この陳勝と呉広というのが秦に対する最初の反逆者であり、秦から漢への時代のハザマにあり、秦を打倒する先鞭をつける重要な役割を持つ人物なのであるが、結局は己が修まっていないのに、人を治めようとしたが故に陳勝は6ヶ月間で殺されて王位を去ることになるのである。呉広もその驕慢な性格を嫌われて、将軍の田藏に殺害された。己を修めずに人を治めた者の末期である。
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二十二。高子曰く、禹の声(楽)は文王の声に尚(まさ)れり。孟子曰く、何を以て之を言うか。曰く、追(たい・竜頭)の絶えたるを以てなり。曰く、是れ奚(なん)ぞ以て之を知るに足らんや。城門の軌(わだち)の迹は、両馬一車の力ならんや。
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(大意)
高子が言った。「夏の禹王の音楽の方が周の文王の音楽よりも勝っているように思われますが。」孟子は言われた。「何故、そんなことを言うのか。」高子が言った。「それは禹王の楽器である鐘の取手はいたんでもうチギレそうになっているからです。これは音楽がいいので頻繁に使われた証拠でしょう。」孟子は言われた。「そんなことで、どうして証拠になるものか。城門のところの車の軌の跡は、大通りよりも特に深く凹んでいるが、それは長年の間、狭い所をたくさんの車が皆一列に通ったからであって、決して馬車の力のためではない。鐘の取手もそれと同じこと。禹王の方が文王よりも千年以上も古いから、しぜん多く傷んだまでだ。そんなことで、音楽の優劣は簡単に論じられまい。」
現在ある事象や現象だけを捉えて、また、ひとつの事象や現象だけを捉えて物事を判断してはならないということである。物事というのは、様々な事象や現象が絡み合い、重なり合って出来上がっているものである。こういう見識が必要であり、こういう見識が物事を誤らせずにすむことに繋がるのである。
秦代の末期、劉邦が項羽の軍に河南の榮陽で包囲されたことがあった。劉邦は憂えて、今の状況に恐れて、酈食其(れきいき)という説客に意見を聞いた。食其は今の現状を解決する策として、次のように述べた。「昔の聖王といわれる湯王や武王は桀王や紂王を討ち取っても、それぞれに子孫を適当な土地に封じました。しかし、秦は六国の末裔を全部滅ぼして、子孫が跡を継ぐなどということをなくしました。だから、陛下がこの六国の子孫を再び立てて、それらに諸侯の印綬をおあたえになれば、その君臣人民は、陛下の徳を戴いて、恩義を慕い、臣妾となることを願わないものはないでしょう。そして、そういう徳義が天下に行われたならば、陛下が天下に南面されて、覇王となることができ、覇王ということになれば、楚の項羽も襟を正して来朝することになるでしょう。」と。これは、危機に瀕している劉邦にとっては全くの甘言であるのであるが、すぐにのって、すぐに六国の子孫のもとにいって周旋してくれるように食其に命令を出した。それを聞いた劉邦の側近である張良は「誰がこういう計画を立てたのですか。これでは陛下の大事は失敗に終わります。」と述べて次のような理由を言った。
① 湯王が桀王を征伐して、その子孫を杞に封じたのは、桀王の死命を制する予度があったからであるが、今、陛下は項羽の死命を制することができるか。
② 同じく武王が紂王の子孫を宋に封じたのは、紂の首を得るだけの予度があったからであるが、今、陛下は項羽の首を得ることができるか。
③ 武王は殷に入ると賢人商容の里門を表彰し、箕子の拘禁を釈放し、比干の墓に土盛りしたが、今、陛下はそういう徳義ある対応ができるか。
④ 武王は殷に入ると倉庫にあった米粟を放出したり、金庫にあった銭を散じて、貧窮者に賜ったが、今、陛下は府庫を開いて、貧窮者に財物を賜うことができるか。
⑤ 武王は殷との武事が終わると天下に再び兵器を用いないことを示したが、今、陛下に武事をふせて文事を行い、再び兵器を用いないことができるか。
⑥ 武王は馬を崋山の南に休めて、用いることのないことを示したが、今、陛下は馬を休めて、用いないことができるか。
⑦ 武王は桃林の北に牛を放って、再び兵糧などの積載輸送に用いないことを示したが、今、陛下は牛を放って、再び兵糧などの積載輸送に用いないことができるか。
劉邦はすべてに「できない」と答えた。それに加えて、張良は、現在、六国の諸侯が劉邦に従っているのは、文武を極めた古の湯王や武王の如き徳によるものではなく、単なる領地欲しさであり、領地を得れば敵にも味方にもなり、劉邦の大事(天下統一)はできなくなると喝破するのである。だから、今、表層にある事象や現象だけにとらわれて、耳障りのいい意見などを聞いてはならないと言っているのである。結果、劉邦は酈食其の意見を退け、自分の大事を成すことを誤らせずにすむのである。張良の思慮の深さ、見識の深さには感心させられる。
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