留魂録を読む

(平成17年1月〜6月)  
 
(第一章)
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂
十月念五日      二十一回猛士

一、 余去年已来心蹟百変、挙げて数え難し。就中、趙の貫高を希ひ、楚の屈平を仰ぐ、
諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」と云ふも此の事なり。然るに五月十一日関東行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る。余是れを用いず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫い付け携へて江戸に来り、是れを評定所に留め置きしも吾が志を表するなり。去年来の事、恐れ多くも天朝・幕府の間、誠意相孚せざる所あり。天に苟も吾が区々の悃誠を諒し給はば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊?山を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、亦吾が徳の非薄なるによれば、今は将た誰れをか尤め且つ怨まんや。

   
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置かまし 大和魂」
 留魂録の最初にある、吉田松陰の辞世の句である。この句のとおり松陰は、身は滅んでもその精神を後に続く人たちに残したのである。
 死というものに直面した時に、松陰のような才覚者でも様々な思いをめぐらしたというのであるから凡人なら尚更のことである。松陰は、この留魂録で死に直面した心情を臆面もなく吐露している。この、誠実さが、後に残される弟子たちに切実なものとして伝わったのであろうし、この真摯な態度に弟子たちは、益々松陰に信服し、尊皇攘夷から尊王倒幕へとその闘志を燃え滾らせていったに違いない。この幕末の偉大なる思想家がいたればこそ我が日本は新しい時代を迎えることができた、といっても過言ではない。
 松陰が尊敬してやまなかった貫高や屈平は、両人とも人並み以上に優れた能力を持ち合わせているのは当然であるが、それに付け加えて至誠の念を持っていたのである。松陰は、この後に「至誠にして動かざるものは未だ之れ有らざるなり」と述べているが、松陰の生涯はこの至誠の念を持ち続けたものだったに違いない。しかし、世の中は、その真摯なまでの誠実さを相容れない要素も多分に持っている。どちらかというと邪魔である、疎ましいと思われることも多くある。それは、相対する人が、自分の言動に誠実でない場合が多く、その人自身もそう有りたいと思うのであるが、変に楽な生き方をしているので、そんなことをしなくても別に世の中が変わるものでもないとか、そんなことをしてどうなるのかとか、そういう物事が自分に直接降りかかることを恐れるというところに起因する事が多いように思える。幕末の官僚的で硬直した幕府の体制が、尚更、そういう風に新しいものに対する拒否権を増長させていったのであろう。
 振り返ってみると現在はどうであろうか。この幕末の様相によく似ているように思われる。また、そういう旧体質、旧体制のものが、瓦解し始めているのも事実である。しかし、それは、前体制の温床の上に成り立っているところが、まだあるので、本格的な変革は、今、始まったばかりだと考えるのがよさそうである。本年は、多くのものが大きく変わっていくと思われる。私は本年年頭に王陽明の「去人欲、存天理」という言葉をあらわしたが、大きな変革を推進していくためには、あるいは、そういう変革の中で生きていくためには、私利私欲を去り、天地自然の理に沿って生きていくのが基調になるように思える。
 松陰は、この章の最後で、自分の意見の通らないことを他人のせいにせず、自分の徳のなさ故であるとしている。これは、我々が現在、真摯に学び、受け止めるべきことではないかと考える。あまりにも多くの物事が、外へと向かっている現在、それのバランスをとるために同じくらいの力を持って内に向けることが必要なように思える。

 
(第二章)
一、 七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件両条あり。一に曰く、
梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似たりと、源次郎其の外申立つる者あり、覚ありや。此の二条のみ。夫れ梅田は素より奸骨あれば、余与に志を語ること欲せざる所なり、何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に落文なんどの隠昧の事をなさんや。余、是に於いて六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江候を要する等の事を自首す。鯖江候の事に因りて終に下獄とはなれり。

   
 「安政の大獄」は、幕府の大老、井伊直弼が行なった幕政への批判者の粛清であるが、それは、ある種、偏見に満ちたものであったと言わねばなるまい。また、そういう人々を処することで幕府の権威をより強行に公告するためのものであったわけである。前述もしたが、硬直している幕藩体制を隠すために外へ向けての権威を表したまではよかったが、内部体制の改革をやらないままに進めていったので(あるいは、やろうと思っていたが、あまりにも早い時代の流れを目測できずに)、バランスが崩れて、あとで大きなしっぺ返しを食らうことになるのである。このことが、実は、幕府の滅亡を早めたといっても過言ではあるまい。企業も硬直した体制を立て直すためには、山田方谷のように、外部へ向けての公告と同時に内部体制の充実を図るということが重要である。比較すればむしろ、内部体制の充実を図ることのほうが重要であろう。
 松陰は、そういう欺瞞に満ちた時代背景の中にあって、嫌疑をかけられ、評定されていたのである。罪状は、梅田雲浜が長州に行った時に攘夷などについて密議を交わしたのではないかということや京都の御所内に現幕藩体制に対する意見書を落文したのではないかという、ほとんど確証もないことであった。もちろん、これをきっかけとして、他の罪状も白状させ(常にその行動力が幕府に目をつけられていたのは事実である)、見せしめとして処刑を断行しようと幕府が考えていたのも確かであろう。そういう中で、大原公擁立の問題、老中間部氏要撃計画等を吐露してしまったので、それ見たことかとなったのであろう。松陰の誠実さがあだという形になってしまったのであるが、このような場合でも自分のそのときの状況や立場を臆面もなく、理解を求めて、話をする所などは、松陰ならではといえよう。この場で幕府側に、人の意見をよく聞き、天理としての善悪の判断をできる人物(例えば勝海舟のような人物)がいなかったのが不幸だったともいえるが、松陰が後述するように、人にはそれぞれ四時(四季)があり、役目を終えたものは、年齢に関係なく去るという死生観から言えば、松陰の死を機として、長州の弟子たちに倒幕の念が燃え上がっていったのであるから、その行動は、後で考えると正しかったと言えるのではなかろうか。このように人に後世に大きな影響を与える人は、自分の身を挺して行動するものである。「身を殺して悔いざるの志」を持っていたということが言えよう。

 (第三章)
一、 吾が性激烈怒罵に短し、務めて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。是を以て吏に
対して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後当今的当の処置に及ぶ。其の説常に講究する所にして、具さに対策に載するが如し。是を以て幕吏と雖も甚だ怒罵すること能はず、直に曰く、「汝陳白する所悉く的当とも思われず、且つ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり。」余亦深く抗せず、「是を以て罪を獲るは万万辞せざる所なり」と云いて已みぬ。幕府の三尺、布衣、国を憂ふることを許さず。其の是非、吾れ曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠失を歴詆して、「是くの如くにては 往先三五年の無事も保し難し」と云ひて鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く、「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。是れ吾れの及ばざる所なり。子遠の死を以て吾れに責むるも、亦、此の意なるべし。唐の段秀実、郭曦に於ては彼れが如くの誠悃、朱に於ては彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措の宜しきあり。要は内に省みて疚しからざるにあり。抑々亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。

   
 松陰は、その生涯を見ると解るように機に敏感で行動力があり、激情的であったように思える。また、そういう自分をよく解っていたからこそ、時流というものを理解し、人の話をよく聞くということに心を馳せていたように思われる。「松下村塾」の弟子たちを友と呼んだり、教えることを共学と言ったりしているところなどにその心情は伺える。おそらく、幕府の役人に対しても同じように接していたのであろう。そのような態度で、幕府の立場もよく理解しながら今後の方向性を講釈する松陰を見て、幕府の役人も納得しながら聞いていたに違いはあるまい。もっと言えばその話を聞いて反論することができないので、「あなたの陳述することがすべて正しいとは思えない。また、あなたのような卑賤な身でありながら、幕府や朝廷などのなすべき国家の大事を論ずるなどとは、不届きである」という将に言いがかりをつけたわけである。人間誰しも言葉に詰まると言い逃れをしたり、言いがかりをつけたりするものであるが、現在の政界の中でもよくそのような場面を見受けるが、これは、今の政治が如何に硬直したものであるかを見せつけているようなものである。もちろん、その周りにある、評論家やマスコミもそれに更に上塗りをするようなことをいうので、何が正しい論点なのかわからなくなるのが現状であろう。いいものはいい、悪いものは悪いとする判断基準を持ちえていないというのがその起点にあろうが、このことは、亡国の第一歩であるということも忘れてはならない。
 松陰はそういう幕府の役人に対しても、こういう論証をすることが、罪になると言うのであれば、それはそれで仕方があるまいと受け入れるのである。もっと言えば、このように唱えても聞き入れないのは、これ以上言っても話の無駄であるし、相当、幕府の体制が硬直している証拠である。そうであれば、このような人を説得するよりは、時流をちゃんとわきまえ、理解力のある自分の子弟たちに今の時代を瓦解させ、新時代を建設させるために、今後の日本を託したほうがいいであろうと再度心に決めたということであろう。だから、次に薩摩の日下部伊三次のことを例に挙げて、尚、強烈に幕府の体制の硬直化と弱体化を説き、これを改めねばならないと言っているのであろう。もちろん、松陰は、日下部伊三次の生き方に感銘し、そのようにありたいと心から思ったからそう記したことも真実であろう。
 この章で松陰は最後に段秀実のことを挙げて、英雄はその時々に応じて、自分に嘘をつかず、やるべきことをちゃんとやって死を迎えるのであればそれは仕方ないことであるといっている。そして、「要は内に省みて、疚しからざるにあり」、常に自分に嘘をつかず、誠実に物事を進めて行くことが何より大切なことである。また、そういう人格を涵養することが重要であるともいっている。更に、松陰は、そういう生き方をしようとしてきた私自身の評価は、死んだ後の人たちにゆだねるしかないと思うと付け加えている。もちろん、至誠そのもので生きた松陰の一生を評価しない人はいないと思う。

 
(第四章)
一、此の回の口書甚だ草々なり。七月九日一通り申立てたる後、九月五日、十月五日、両度の呼出も差たる鞠問もなくして、十月十六日に至り、口書聞かせありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使応接、航海雄略等の論、一も書載せず。唯だ数個所開港の事を程克く申し延べて、国力充実の後、御打払ひ然るべくなど、吾が心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。吾れ言ひて益なきを知る、故に敢えて云はず。不満の甚しきなり。甲寅の歳、航海一条の口書に比する時は雲泥の違と云うべし。

    松陰の供述は、ことごとくと言っていいほど、改ざんされて供述書として結審されたことになる。最初から、聞く耳を持たず、前例のないものは受け付けないというのは、現代でも役所仕事と言われるが、この供述書の件は、聞く耳を持たないどころか、自分たちの都合のいいように作文されたわけである。しかも一回の申し立ての後は、呼び出しはあってもたいした訊問もないと言うのであるから、最初から罪状は決していたとしか考えようがない。このようなことをすれば人の恨みを買うのは必定であるのに、やってのけてしまうと言うことが大老井伊直弼の人間性の表れと言うことができよう。自分は、幕府のためと思ってやるのであるが、結局は人心を掴むことができない、引いては、益々、多くの人々に謀反の念を起こさせる、それがわからないのである。このことを聞いて、イラク戦争を思い起こすと、大量の化学秘密兵器を持っている独裁者フセインが支配するイラクを倒すことが、正義であるという錦の御旗をふって断罪し、イラク戦争に突入していったアメリカによく似ているとは思わないだろうか。結局、傀儡政権を作って民主化を訴えたところで、民衆は憎悪の塊になって、なかなか、ついてこない、民主的な選挙をしようと思ってもテロの影響を考えて街頭演説もできない。それどころか、テロ自体、世界中に飛び火してしまいかねない状態である。自分たちだけの権益を考えた結果がこうなってしまったのである。我々の身近にもこういうことは多くあるが、こういうことはよくよく気を付けねばならないと考える。
 松陰が苦心したアメリカ使節の応接についてとか、航海雄略論などのことは、何一つ述べられてなく、松陰自身の心にある、供述した論については一言も書かれてない。もちろん、不満には思ったが、論議を交わしても何も得るものはないと悟った事で抗弁はあえてしなかった。つまり、筋書きは既に、決まっていたのだと気付いたのである。
それにしても、海外密航を企てて、果たせなかった時から、まだ、数年しか立っていないのに、幕府のこの変わりようは何だろう。あの時は、評定所の役人も自分の話をよく聞いてくれ、よく理解してくれたのにと松陰は感じたようである。それくらい、幕府の内情は行き詰まっていたのである。
 急に強権を発動して、取締りを厳しくするということや今までになく耳障りのいいことを公告すると言うことの裏には、必ず危急存亡の時を迎えている前兆があるということを我々も肝に命じるべきであると思う。また、世の中の物事が崩れる時はあっという間であるということも忘れてはならない。

 (第五章)
一、七月九日、一通り大原公の事、鯖江要駕の事等申立てたり。初め意へらく、是れ等の事、幕にも已に諜知すべければ、明白に申立てたる方却って宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。因って意へらく、幕にて知らぬ所を強ひて 申し立て多人数に株連蔓延せば、善類を傷なふこと少なからず、毛を吹いて瘡を求むるに斉しと。是に於て鯖江要撃の事も要諫とは云ひ替へたり。又、京師往来諸友の姓名、連判諸士の姓名等成るべき丈けは隠して具白せず、是れ吾が後起人の為めにする区々の婆心なり。而して幕裁果して吾れ一人を罰して、一人も他に連及なきは実に大慶と云ふべし。同志の諸友深く考思せよ。

   
 大原公擁立の件、老中間部氏暗殺計画の件などについては、既に幕府側は知っているのであろうと、松陰は考えて正直に告白したのであるが、実は知らなかったということが、後でわかるのであるが、すべてを明らかにして、相対するこの松陰の態度は、その人柄の実直さ、誠実さを表していると言えよう。凡人は、自分の身に危険がせまると自分に非が及ばないように余計なことは言わず隠し通そうとするものであるが、こういうことばかりをやっているといつかは、大きな災難に会うものであるし、まわりの人も巻き込んでしまうものである。現在、色々なところで起きている隠蔽されたことが表に出ることによって起こっている混乱は、周りの色々な企業や人を巻き込み大きな社会問題になり、大変な騒ぎになっていることなどからしてもよく理解できると思う。事の是非はともあれ、明確に論じなければならないことは、此処での松陰のように率直に話しておくことの方が重要に思われる。この場合は、結果として松陰の死期を早めることになったのではあるが、このことが、後に続く者に大きな影響を与え、大改革をなしえたのであるから、世のためになる大きな成果を残したといえる。松陰の言う「死して不朽の見込み」あらば、いつ死んでも悔いはないということである。
 更に、間部暗殺計画の連判状に署名した人たちや京都に潜伏している人の事は、一言も言わず、すべて松陰自身の責任として訊問に答えた結果、他の人を誰一人も巻き込むことがなかった事を率直に喜んでいる。自分の死に際してもあとに続く者たちのことを考えて冷静に処して、周りの人を巻き込むことなく事を収める、このような松陰の態度に現代の我々は多くを学ぶ必要があろう。

 (第六章)
一、 要諫一条に付き、事遂げざる時は鯖候と刺違えて死し、警衛の者要蔽する時は切払ふ
べきとの事、実に吾が云はざる所なり。然るに三奉行強ひて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾れ肯へて受けんや。是れを以て十六日書判の席に臨みて、石谷・池田両奉行と大いに争弁す。吾れ肯へて一死を惜しまんや、両奉行の権詐に伏せざるなり。是れより先き 九月五日、十月五日両度の吟味に、吟味役まで具さに申立てるに、死を決して要諫す、必ずしも刺違へ・切払ひ等の策あるに非ず。吟味役具さに是れを諾して、而も且つ口書に書載するは権詐に非ずや。然れども事已に爰に至れば、刺違へ・切払ひの両事を受けざるは却って激烈を欠き、同志の諸友亦惜しむなるべし。吾れと雖も亦惜しまざるに非ず、然れども反復是れを思へば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。今日義卿奸権の為めに死す、天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん。

   
 安政の大獄の本来の目的は、幕府に反旗をひるがえす者に対する粛清であったので、前述の通り、罪状は、決められた中での事情聴取であったことが、この章でわかると思う。幕府を立て直すためと考えての大老 井伊直弼のこの横暴が、全国各地の志士の倒幕への意思を固めさせ、明治維新へと繋がることになるのであるから皮肉なものである。こういうことは、日常の生活にも多く見ることがあるように思われる。例えば、あの巨大グループ西武は、株の名義人貸し出しで、ほとんどオーナーである堤義明氏の下にあった株を違法が発覚すると考えるや否や本人が強引な手腕により、外部に放出し、それが原因でグループ全体のもたれあいの構造が表面化し、今まで、表に出なかった経営の中身も露呈し瓦解に繋がったということなどは、これに通ずるところがある。また、長年の間の一人のオーナー支配の憤懣が今回のことを契機に一気に噴出し、それに不満をもったものが内部告発をし、このようになったわけであるが、日本や世界の歴史を見れば解るように「奢れる者は久しからずや」である。現在の経営者たちは、もっと道義について深い理解を得るためにノウハウ本を読むだけではなく、今我々が勉強しているような東洋思想の勉強をすべきではないだろうか。
 松陰は、石谷、池田両奉行に対して供述書を作る際に大いに論争をしたとある。しかし、幕府は、それを受け付けるどころか改ざんして、松陰を死罪へと誘導していったのである。
また、周りにいる同志たちに迷惑をかけないためにも間部要撃の件では、差し違え、切り払うつもりであったということは陳述せずにいたが、それは、逆に論述する際の迫力に欠けたかもしれないとも言っている。また、そんなことは、たいしたことではない、志士が仁のために死ぬのであるからと切り返してもいる。そして、残る子弟たちに訴えかけるように、この死は、権力の謀によるものである、天はちゃんと見ているのであるから、この死を惜しむことはないといっている。将に留魂である。これを読んだ弟子たちは、大変、刺激されたのではないかと思う。

     
(第七章)
 「吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。」最初から、生死についてはとらわれていなかった、自分の至誠の念を以ってことに当たりそれが通じなければ、それを天命と思い感受しようと考えていた事がわかる。人間の人生の中には、このように、常に正反対のことが自然に内包されているものでもある。要するに、矛盾ということであるが、人間はこの矛盾の超克をしなければ、新たなことはできないということがいえる。例えば、男と女という相反するものが合体した時に生命という非常にエネルギーのあるものが生まれ出るようなものである。松陰が、この葛藤の中でそれを超克して掴みえたものは、大きなエネルギーとなって子弟たちに受け継がれ、明治維新を成し遂げるための礎となっていったのである。そういう中、松陰は、死を決するのであるが、そのときの心情は、漢詩に表しているように、世の中を救うためにお上に諌言して死ぬのであれば本望であるということである。しかし、その後に吟味が寛大に見えたのでもしかすると生還できるやもしれないと期待を抱いたこともあった。その理由としては、世情を見るに付け、これからの国のことを思うと自分がしないとならないことがたくさんある、と考えたからである。このように、死に際しては、松陰ほどの覚者でも揺れるものである。しかし、元々、仕組まれた罪状であり、死刑に決していたことを知るや否や死を覚悟したのである。これは常日頃、実学に徹した生き方をしていた松陰だからこそ、何のためらいもなく受け入れられたことであると考える。
 東洋思想の原点は、表裏一体というところにあるが、善悪、正邪、貧富など実は常に共存しているのである。もちろん生死も常に共存しているものでもある。大きな流れで言えばいいことの後には悪いことが、悪いことの後にはいいことがというバイオリズムというか波というかそういうものがあるということももちろんあるが、日々対面する現実に対応するためには、常にいいことの裏には悪いことがあり、悪いことの裏にはいいことがあると認識して生きることが大切であるということである(一日一日を大切に生きる)。だから、人生を有意義に暮らすためには、いい面を見て行動を起こし、誠を以って色々な事象に常に対応していくことが大切になってくるのである。このような生き方ができれば、生死などというものにとらわれずに済むようになるであろう。松陰の学問の背景にはこういうこともあることを忘れてはならない。

(第八章)
今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を作り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成るなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは?蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして?蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たるとその栗たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志其れ是れを考思せよ。

 「今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。」いよいよ松陰の死生観が書き出されてくる。松陰は終生の儒学者であるので、神仏などへの依頼心はひとかけらもない、自分がいかに生き、いかに死んだかを見つめながら、自分自身の言葉をもって、死を表現しようとしていることがわかる。すべての解決策は自身の中にある内なる輝きとの対話をもって決してきた人生のようにも思える。儒学の基本理念は「修己治人」という言葉に帰すると考える。要するに自分自身を修められない人が他の人を治めることができるかというような意味である。これほどまでに儒学というのは、自分自身に対して厳しい学問である。そういう中で松陰は、天地自然の理の中で繰り返される春夏秋冬の四季が人生に例えられるということを見出すのである。所謂、「天命」思想であるが、若くして夭折しても、長生きしてもそれぞれの人がそれぞれの四季を通過して死んでいくと結論付けたのである。だから、早く死ぬとか、おそく死ぬなどということにとらわれてはならないと言っているのである。また、死を嘆き悲しむこともないとも言っている。それは、農業と一緒で春種をまき、夏苗を植え、秋に刈り取り、冬に貯蔵するという流れの中で、一通りの作業が終われば、豊穣祭などで楽しむではないかというような意味合いから言っているものである。「死を惜しむな」というような意味にもとれる。前述した「死して不朽の見込みあらば」いつ死んでもいいとも言っているように思われる。そういうことを前提として自分の死について述べている。自分はまだ、30歳である。傍から見ればまだ若く、これから色々なことを成し遂げられるであろうに早すぎるのではないかと思われるであろうが、自分自身を振り返れば、世のためを真剣に意い、その意いを遂げるために精一杯の行動をしてきた。その行動の中で得たものは大きく自分の中では見事に実っている。これを刈り取り、その種子を引き継ぎ次代、次次代へと繋げていけるはずである。だから、この見事に実った種子を心有る子弟たちが引き継いでもっと見事な作物に育てて欲しい、そうすれば必ず大業を成し遂げることができると訴えかけているようである。もちろん、その種子は、数々の子弟の手を経て、明治維新という大業をなさしめたのである。
 よく「人間は死ぬために生きている」とか、「生まれた時から死が始まっている」とか言われるが、その意味は、無駄な人生を送らないようにということである。毎日毎日を世のため人のために精一杯、また、生きた証を積み上げて、次代に生かせるように行動することが大切である。人間は社会的動物といわれるが、社会から受ける恩恵をただ待っているだけの人生では、何も生み出せないし、こちらからボールを投げないと返球も来ない。自分は世のため人のために何ができるのかを真剣に考え、それを具体的に行動に移す。今丁度、その時代の真っ只中にいるようである。そういう時代に吉田松陰を学ぶということは、タイムリーなことに思われる。ある予測システムを得意とする戦略コンサルタント会社の社長の話によると、これからのトレンドとされる人物は吉田松陰であると明言している。

(第九章)

 この章からは、子弟たちに自分と同根の志士たちの紹介と事を起こすに当たっての協力体制を仰ぐための人物の紹介をしている。小伝馬上町の牢は八つに分かれていたらしく、安政の大獄で連行連座された人たちは、それぞれに分かれて留置されていたようである。しかし、同じ志を持ったものは、どこかで繋がり合い、もちろん牢内での文のやり取りもあったと思うが、面識はなくてもその人の文や噂などからその人の人柄を察知することができたのではないかと思われる。最初に登場するのが水戸藩の郷士、堀江克之助、同じく鮎沢伊太夫の両名である。幕末、水戸藩は、徳川御三家の位置にあるにも拘らず、昔から皇家とのつながりが強く、藩主徳川斉昭も尊皇攘夷の意向が強かったこともあり、水戸藩の粛清ということも兼ねて、中でも過激な活動をした藩士が捕らえられたのであろうと思われる。このことが、桜田門外の変へ繋がっていくことになる。堀江は松陰に対し「昔、矢部駿河守定謙は、民政改革に真摯に取り組んでいる時に政敵に陥れられ職を解かれたが、その政敵に対する対抗策として、その身がお預けになったその日から絶食し、政敵の非を問い、死を持って抗議し、政敵を退けることができた。あなたも処刑が決定し、一死を覚悟する身になるならば、衷心から祈念をこめて、死を以って内外の敵に抗議されよ。そうすれば、必ずあなたの意いは残り、それを継ぐものたちに大きな影響を与えることになるでしょう。」と伝えた。また、鮎沢は松陰に「あなたにどのような判決が出されるかは、予測はできないが、私は遠島と決定した。島に送られたら、身動きも取れなくなるから、天下国家のことを論じたり、そのために行動を起こすことはできなくなるから、天命に任すしかないと考えている。しかし、今後の天下にとって有益になることは、同志に伝えて託し、後から続く後輩たちのために残しておきたい。」と伝えた。松陰は、この両名の言葉に大いに感銘し、我が意を得たりと感じたようである。世の中を変革させようと本気で思う者は、どんな時代に拘らず、まず自分を滅して、真摯に天下の有益になることを時流を見据えながら考え、行動を起こすものであり、途中でどんな難関が身に降りかかっても、その意いを果たすまでは、動じずに行動を続けていくものである。例え、それが死に繋がろうともである。現在、本当に変革しないといけない世の中にこういう志をもって、真摯に物事に取り組んでいこうとするものが何人いるであろうか。こういう人間を多く見出せなければ、本当の変革はできないと考える。松陰は、堀江、鮎沢両氏を紹介した後、自分が死んでもこういう志の高い人とは、親交を結んで、世の中を変革するために手を携えていって欲しいといっている。更に、この人物たちと連絡を取るための手段として、山口三? と言う本所亀沢町の医者の紹介もしている。この時代は、志の高いものには、自分の身を削ってでも協力するというスポンサーがついていたということがいえる。長州の商人、白石正一郎などは、自分のほとんどの財産を志士たちにつぎ込み、自らも一員となって、死ぬ時は逆に多くの借金を抱えていたといわれるが、こういう人たちに幕末の志士たちは支えられていたのも事実である。また、堀江、鮎沢両氏から紹介の鷹司家の諸大夫である小林民部とも親交を持つようにと伝えている(水戸藩と鷹司家の関係は深く、徳川斉昭の奥方は鷹司家の出身である)。今ほど、情報網もない時代によく此処までネットワークをはることができたということについて言えば、人間の五感を越えたところでのデジタルでない、アナログなネットワークが形成されていたように思われる。時代が変革する時には、期せずしていろいろな所で行動が起こるものである。あまりにもデジタル化された世の中が、そういうパワーのある出会いを阻害している一面もあるように思われる。

(第十章)

 ここから前章の具体的な動きについて話が進んでいく。堀江克之助は、日常的に神道を自分の宗旨としてあがめ、天皇を尊び、日本の取るべき大義、大道を天下に明らかにするために異端の説や邪説を排除し、朝廷から教書を出版して、全国に配布するのが、この国体を改めるためには、必要であると考えていたようである。その事に対して、松陰も同様の考えをもっていたようである。そして、一つの手段としての大学校を設立して、そこから全国に大義、大道を明確にした教書を配布すべきであるとしている。また、その大学校に全国の有為な人材を集め、彼らに日本各地の過去から現在に到るまでの正論を集約させ、それについて思うところを議論させ、それを編集して教書をつくり、それをもとに朝廷に理解を深めてもらうために教習し、了解が得られればそれを全国に配布すれば、人心が落ち着き、一つにまとまるであろうと述べている。本当は、この安政の大獄に連座したような有為な面々を刑に処するということではなく、前述のような活動の中で活用すれば、もっと早めに新たな時代が、多くの被害を出すことなくできたのではないだろうかとも考える。人間、困難な時期を迎えた時に、逆に冷静になって公平に判断する事ができるならば、こういうことにはならないと考えるが、面子とか形式、それまでの因習にとらわれて変革できない事が多いようである。佐藤一斎は真剣勝負を行なう場合の心構えを「言誌晩録」の中で「怯心を懐く者はやぶれ、勇気を頼む者は敗る。必ずや勇怯を一静にほろぼし、勝負を一同に忘れ、之を動かすに天を以ってし、廓然大公、之を静かにするに地を以ってして、物来たりて順応、是くの如き者は勝つ。」といっているが、危機に際しては将にそのような戦い方、態度が大切であろう。
 また、松陰は別に京都に「尊攘堂」創設を入江杉蔵と話合っていたが、その事も堀江克之助に相談したほうがよかろうと伝え、その創設には、入江杉蔵によく同志とはかり様々な協力者を得て、実行までこぎつけて欲しいといっている。このことは、入江杉蔵が「禁門の変」で討ち死にしたため、品川弥二郎がその遺志を継いで実行していったようである。
この頃は、「尊皇攘夷」運動が主流であったわけであるが、薩摩、長州共に海外の勢力と戦いそのパワーと技術力にやがて、尊王倒幕、尊王開国へと移行していく事になる。松陰は自分の目的とする尊皇攘夷運動を達成する手段として、京都での大学校の創設という事を考えていたようである。尊皇攘夷を旗印に始まった市民運動は、やがて、膠着した幕藩体制にメスを入れる倒幕運動へと進んでいくのであるが、色々な事を乗り越えながら、少しずつ変化させて、世の中の時流を見つめながらフレキシブルに対応できるという事は、ある種、日本人のDNAの働きによるものかもしれない。ベストでは無くベターを目指して徐々に改善、改良を加え進んでいく、この姿勢は、日本の発展のためのキイーワードであるように思える。大きな変革の中にあってもこの姿勢は崩さずに行くことが、これからの日本を救う事になるように思える。

(第十一章)

 次には、小林民部の事について書いてある。京都には昔から学習院という公家の子弟の教育機関が存在したが、それが、幕末になると少壮公家や志士たちの教育機関となって、尊王攘夷派の温床になっていたらしい。また、日を決めて農民や町人まで聴講する事もできたようである。そういうことから、益々、そういった志士たちの精神的背景を作ってくれる場所にもなったのであろう。公式にも非公式にもこういった場所は、時代を変革させる基盤として必要になるようである。いわば「梁山泊」とでも言えようか。実は、世界にも期せずして世の中を変える人たちが集まった場所が各地にある。偶然なのか必然なのか、そういうパワーポイントがあるのである。例えば、日本でいえば戦国時代は、信長、秀吉、家康を生んだ愛知県がパワーポイントであったのかもしれないし、幕末は西郷、大久保、村田などを生んだ薩摩、中でも加治屋の郷、吉田、高杉、久坂などを生んだ長洲、中でも松下村塾がパワーポイントであったように思える。
 そして、この学習院の一般の人たちを集めての講義の日には、平安時代から続く文学と歌学の本家である清原家や菅原家の講習の聴講もでき、更に京都在住の儒学者の講習も聴講もできたというのであるから、益々、その意味合いを濃くしていったのであろう。また、その中にある懐徳堂には、霊元上皇の親筆の勅額もあり、これなども錦の御旗として使えるので小林民部は、こうしたものを利用して、全国的に尊皇攘夷の思想を広めて行くことができると感じていたのでもあろう。小林民部は前述の通り,鷹司家の諸大夫であり、今回の罪科では、京都関連でこの大獄に連座させられた人の中では、特に罪の重い遠島に処せられているが、事を的確に処理する能力のある人であったらしい。また、この人は、京都の吉田神社の神官でもある鈴鹿石州、筑州にも繋がりが深く、前述の山口三?とも援助をされるくらい親しい間柄であるので、同根の仲間として、連絡を取り合うのがよいのではないかと松陰は言っている。
 このように幕末の尊皇攘夷のネットワークは、広がっていくのである。現在でも、口コミュニケーションの重要さは、様々な人々の唱えるところではあるが、この時代には、情報機器も少なく、情報を広めるためには、この方法が一番早く確実であったのかもしれない。いや、現在でも早く確実に情報を広めるための手段としては重要であるように思える。とかく昨今は、情報を得るための機会や機器が多いために、情報を得るという事に関しては早いが、その情報の確実性に関しては、様々な勝手な見解が横行する事もあって、なかなかつかめないというのが、現実ではあるまいか。そういう情報化社会にあって、物事を見極め真実を掴むためには、逆に自分でその情報の出所を見つけたり、直接関連のある人の意見を聞くということが重要であるように思える。情報がデジタルで得やすければ得やすいほど、アナログな行動が必要になるという事でもある。イラク戦争のきっかけになった「大量化学秘密兵器」の存在などもデジタル的な志向が先行した罪であるかもしれない。あるいは本当に無かったのかもしれないが・・・・・・・・。

(第十二章)

 次には、高松藩士である長谷川宗右衛門について、記述してある。高松藩の宗家は、水戸藩であったらしい。こういう幕末の混乱期には、宗家である水戸藩と尊皇攘夷を掲げて、行動を共にすべきであるというようなことをおそらく主君に対して諌言していたのであろうと考える。そのようなことが幕府に知れて、この安政の大獄に連座されたのであろうと推測する事はできる。その子息である長谷川速水も投獄されており、松陰と同房であったようである。この長谷川宗右衛門は相当な信念を持った人物であったらしい。囚人同士の会話が一言も許されていない状況で、しかも獄使が立ち並んでいて、言葉などを交わす事などできるような状況にないときに自分に対して諭すように「寧ろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」(玉となって砕けても、瓦のように意味なく生き長らえるものではない)つまり、世の中のために尽くし、自分の生きた証を残していく事が本当の人生であり、唯、なんとなく人生を送っていく事は無意味であるというような事である。西郷南洲もその自作の漢詩の中で同じようなことをいっている。前にも紹介したと想うが、もう一度紹介してみようと思う。

「偶感」

幾か辛酸を歴て 志始めて固し
丈夫玉砕するも  甎全を恥ず
一家遺事     人知るや否や
児孫の為に    美田を買わず

 この中で、「丈夫玉砕するも 甎全を恥ず」といったところが、この長谷川宗右衛門と全く同じ事を言っているのである。世の中を変革させる時期には、このような思考をもって行動をする人が多く輩出してくるものである。現在、本当に変革しなければならない時なのであるが、こういう思考をもって行動する人が何人くらいいるのであろうかと考えると、まだまだ足りないような気がする。松陰は、この長谷川宗右衛門の言葉に深く共鳴している。松陰自身もそのときの心中はそうであったに違いない。「玉砕」と言う言葉は、戦後、あまり、いい意味では使われないが、こういう深い意味があることも忘れてはならない。世の中が変革する時には、このように多くの人たちの犠牲があるということも忘れてはならない。人生に対する目的も目標も持たずに、ただ生きているという事であれば、向かってくる難関をただ避けて通るということであれば、何の積み重ねもできず、人間力もつかず、自分自身を社会に根付かせる事さえできないと思う。生きている喜びを感じられる人生を送りたいものである。
(第十三章)

 これまで、紹介した人物は、唯、無駄に書き記したのではない。どちらにしろ、この硬直化し、弱体化した幕藩体制は、変革させなければならない時が来るであろう。それを実行していくためには、同じ志を持った全国の士と協力をしあっていかなければ大事を遂げる事はできないように思う。だから、今後、私の遺志を継いで、天下の大事を成し遂げるという気持ちがあるなら、これまで紹介した人物と共に謀って、志を成し遂げてもらいたいのである。松陰は、獄中にありながらも、その小さな世界の中で常に天下国家のことを考えていたのである。というより、この安政の大獄で獄中に連座させられた人物たちは、その時代の新しい思想を作り出し、実行しようとしていた人物たちであったので、ある意味、その小さな世界の中にこれからの世の中の変革を起こさせる動機になり得る様々な要素が凝縮されていたように思われる。
 次に有志の士、勝野保三郎について書いてある。勝野の父、正道は、朝廷に対し、水戸藩に攘夷の内勅を出すように運動した人物であった。そういう行動が幕府に知れ、この大獄に連座させられそうになったときに潜伏して難を避けた人物であるが、その子息(保三郎・森之助)たちは、同罪として投獄させられたのである。幕府側は、拷問によってその父の潜伏の場所をこの兄弟に白状させようとしたが、頑として口を割らなかった。その勝野保三郎が出獄したので、この人物も、この一連の事件の決着がつけば、探し出して、事の顛末を参考として聞くのがよいであろうと松陰はいっている。
このことは、戦いに敗れた後、どう身を処して、志を達成させる事ができるかなどの参考になると思うということもいっている。つまり、人間、志を立てたならば、その目的を達成するという事に眼目をおき、それを成就するまでには、様々な挫折があるであろうが、それを突破し続けなければならないと自分をそして同志たちを戒めているのである。松陰はこの章で最後に「切に嘱す、切に嘱す」と二回も念を押していっている。この意いの強さがあってこそ、同志たちの心は強く動機付けされたのであろうと考える。変革、変革と口では言いながら、志もなく、信念もなく、ただ、自分の利益のためだけに行動する人間が多い現在、この強い意いは、どこから発するのであろうか。この時代の人たちに学ばねばならないように思える。
 それは、もちろん大義であり、それに伴う志であるのであるが、何よりもこの時代(江戸時代)の精神的基盤が神道や仏教(特に禅)、朱子学、陽明学を中心とする儒学などを核とした東洋思想にあったからであろう。つまり、教育が一番大切であるということである。今の日本に必要な教育体系は、このような人間学の体系を他の学問に並列させて、幼少の頃から学ばせる事であるように思われる。それで、すべてが解決するという事ではないが、この精神的基盤作りのための教育を実行しなければ、益々、わが国は、国際社会から見放され窮地に追い込まれるようになると思われる。

(第十四章)

 次に橋本佐内の話が出てくる。この安政の大獄に連座した中で松陰と並ぶ代表的な人物として挙げられるのが、この橋本佐内である。佐内は、越前藩でその才覚を藩主、松平春嶽に認められ、藩政の改革や日本の将来構想の上申などに力を発揮した人物である。此処に記されているように若くして(26歳で)この安政の大獄で処刑されるのであるが、その人物たるや畏怖堂々の観があったように思える。西郷南洲が、江戸で始めて左内にあったとき、体は小さいが、その教養の広さや頭脳の明晰さに圧倒されたといっているほどの人物である。体は小さいが胆力の塊のような人物であったように思える。前章でも述べたが、この若さでこのような人物が排出されるのは、やはりその当時の教育の賜物であったのではなかろうかと思える。
 松陰は、この橋本佐内のことを同室になった前述の勝野保三郎に聞いたようである。佐内は、当初、自邸内に幽閉されていたらしいが、その時、自分の処分はどうなろうが、周りの事には動じず、「資治通鑑」を読破し、注釈を作り、「漢記」三十巻を読破したとの事を松陰は聞いて、益々、左内と一度の会う機会も無かったのを嘆き悲しんでいる。また、獄中においても処刑を目の前にしながらも、教学や技術の事を論じていたらしいという事を聞いて、是非、佐内をよみがえらせて議論をしてみたかったという事もいっている。明日をも知れぬ日々の中で、それでもまだ、憂国の情を持った有志の士と共に将来の国家建築の為にその情熱を注ぎ込む、そのために論議をしたい、しかも一面識もない人にである。前述もしたが、会わなくとも意思の疎通ができるこの感覚は、この様々な情報がいつでも、どこでも簡単に取ることができる現在に益々失われているものの一つであると考える。我々は、今、相互理解の為にもっと、こういう第六感的な感覚を磨かなければならないのではないかと考える。
 この松陰と左内との話は「大人は大人を知る」という事にも繋がっているように思える。現在、我々は人物を評価するのに、色々論じても経済的に豊かであるか、そうでないかという背景については、非常に敏感である。しかし、その視点を人物鑑定の要点にすると、間違いが起こりやすい。一番大切なのは、その人物が、世の中をどうとらえ、どう考え、どう行動しているかというところにある。経済的な豊かさはその結果であるということを認識する必要があろう。もし、そうでなければ、それは虚飾に根ざした中身のない豊かさであるとしか思えない。自分は、自分の属する企業の為に、自分の愛する家族の為に、現、将来の世の中の為にちゃんと自分の役割を果たしているかどうかを再認識して、そこを原点として、色々と発想し、行動していく事が重要に思われる。
そういえば、岡田武彦先生は、全く、経済的な豊かさとは、関係なく。自分の直属の弟子であるとか何とか、そういう形式にとらわれることなく、色々な人と接していらしたのを思い出す。要は、人には飾らない自分で接するという事である。

(第十五章)

 いよいよ、「留魂録」も大詰になる。まずは、自分が感動、共鳴を覚えている、同郷の志士たちの論稿や吟稿や詩稿をいままで松陰が紹介した志士たちに送ってもらいたいと考える。それは、釈 月性のものであり、口羽 徳祐のものである。いずれも、尊皇攘夷の志を持った優秀な人物である。特に妙円寺の月性和尚は、今でも詠い続けられている。「壁に題す」という漢詩の作者である。あまり、漢詩に興味のない人もどこかで見たな、聞いたなと思うような有名な漢詩である。また、吟じながら紹介しようと思う。

「壁に題す」

男児志を立てて 郷関を出ず
学若し成る無くんば 復還らず
骨を埋む 何ぞ墳墓の地を期せんや
人間到る処 青山在り

 人間、誰しも目的目標を明確に持って、故郷を発ったからには、それが成就するまでは死んでも還らないという心構えが必要である。途中でのこのこ帰ってくるようでは、何も成し遂げる事はできない。なにも、自分の骨を埋めるのは自分の故郷と限ったものではない。一生懸命、努力して目的目標を達成しようと行動していれば、必ずそれを受け入れてくれる所はあるものである。
 
 というような、意味をもった詩である。志を立てる「立志」、つまり、目標、目的を、大義を明確に持つという事が如何に大切であるかを説いているような詩である。こういう詩を吟じながら幕末の志士たちは、益々、意気を高揚させていったのであろう。
 松陰は、同郷の志士のこういう思想を全国の同志に伝えてもらいたかったのであろう。それを前述の水戸藩士 鮎沢 伊太夫に贈ってくれと依頼しているのである。全国各地で起こっている小さな渦巻きをひとまとめにして大きな渦巻きにして、全国の同志でよりよい社会を構築するために革命という社会的使命を全うしようという、このような動きは、やがて、以外と短期間で実行される事になるのである。今まで、かなり頑強であると思われていた様々な事象がもろくも崩れ去る現代の様相によく似ている時代である。こういう時代に一番必要な事は、何回も申し上げている通り「人間力」である。

(第十六章)

 最後の章である。松陰は、松下村塾の学党、故郷の同志たちの事を今まで紹介した鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野などに告げてあることを書している。そして、最後にただ単に軽い気持ちで伝えてのではなく、本当に手を組んで革命という社会的使命を果たして欲しいのだということを念押ししているように思える。更に最後の五句に自分の意念を込めて書してある。

心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり

呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな

討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払えよ

愚かなる吾れをも友とめず人はわがとも友とめでよ人々

七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや

 この留魂録に自分の言うべきことはすべて記した。もうすぐ呼び出しの声が掛かるであろうが、今の世に何も思い残す事は無い。これから、処刑される私を哀れであると思うならば尊王の心を以って攘夷の意を決し、実行せよ。こういう、愚かなる自分を今でも友と思い励ましてくれる人がいるのなら、わが郎党と思いを一緒にして、新しい国家構築の為に行動を起こしてくれ。何回生まれ変わっても吾が攘夷の念は変わる事は無い。といっているようである。
松陰の「至誠」に生きた人生が、そのまま彷彿とされる辞世の句である。


この本(「留魂録」古川薫著)にも書いてあるように、門下生、高杉晋作に「男子の死生観」について問われた松陰は、「私も昨年の冬、投獄されて以来このことを考え続けてきた。そして、死について発見した。死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生き長らえながらも心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業を成し遂げる見込みあらば、成し遂げるまで生きたらよいのである。つまり、私の観るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきをなす心構えこそが大切なのだ。」と、返事を書いている。松陰は、「人間にとって大切な事は、世の中の為に自分の持てる天命を発揮させ、貢献する事であり、生きる死ぬなどという事は、その結果でしかない。自分が社会的貢献を果たせたと思えばいつ死んでもいいし、この大業を成し得るまではと思うのなら、成し得るまで生きればいいのである。つまり、生死にとらわれずに世の中の為に自分のなすべきことをなすことが人間にとっては一番重要なことである。」といっているのである。
 そして、このことを春夏秋冬の四季になぞらえて、「今日死を決するの安心は四時の順環において得る所在り」という死生観に達するのである。
 自分自身を振り返っても、果たして自分は本当にどこまで自分のなすべきこと、世の中の為になることをしているだろうかと考えると、この境地になるには、程遠いように思える。しかし、この境地はよく理解できるし、もっと真摯に行動をすれば、おそらくそれに近い境地に達する事ができるように感じるのは、私だけであろうか。