【西郷南洲遺訓】

 一〜五六〜十、十一〜十五、十六〜二十二十一〜二十五二十六〜三十三十一〜三十五三十六〜四十一

  
 
十一、文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛(さんしょう)せる言にして、宮室の壯嚴(そうごん)、衣服の美麗、外觀(がいかん)の浮華を言うには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻(やばん)や些(ち)とも分からぬぞ。予嘗(かつて)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻じゃと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蠻じゃと疊(たた)みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實(じつ)に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧(みかいもうまい)の國に對する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蠻じゃと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。
   
「文明というのは、道義、道徳が広く、普遍的に行われていることを賛称する言葉であって、宮殿が荘厳で煌びやかであったり、着るものが美しくゴージャスであったり、外見の華やかさを言うのではない。いま世間一般の人たちがいう、文明だ、野蛮だということは、何をいっているのかさっぱりわからない」
西郷南洲の文明の定義である。文明とは、外見の華やかさを言うのではなく、中身の堅固さを言うのであり、それは、道義、道徳がよく行われているかに起因するといっているのである。確かに道義、道徳がよく行われていればその国は、豊かで発展しているということが言える。そして、それに応じて産業や交易も盛んになり、色々な文明が起こってくるということにも繋がる。文明というのは、あるものを他から持ってくるのではなく、自分たちで作り上げていくものであるということでもあろう。
「私は、過日、ある人とこのことについて議論をしたことがあった。私は、西洋は野蛮であると言ったなら、その人がいや文明であると反論するので、言い争いになった。さらに私が野蛮であると畳み掛けると、どうして、それほどまでにいわれるのかと強く反発するので、それに答えて、本当に文明と言うならば、未開の国に対したときは、慈愛を根底のところに持って、懇々と道義、道徳を説明し、開明へ教導していくべきであるのに、過去の事例を見てみると未開で道義、道徳の未発達な国に対すれば対するほど、むごく、残忍な対応をして、自国の利益を最優先しているところなどは、野蛮としか言いようがないというとその人は口を噤んで一言もなかったと西郷先生が笑われた」
確かに、西洋思想は、敵と味方をはっきりさせ、対立構造を作り出し、強いものだけが残るという、弱肉強食の面が強い。それに比べ東洋思想(特に日本の思想)は、対立はするが、それが終局に向かうと強弱含めて融合させていき、一体のものにしていくという面がある。近年のアメリカの行動を見てみればよくわかると思うが、必ず、自国の大義を旗印に敵国を作り、そこに侵攻していくというパターンである。その敵国は、常に悪の国である。演出があろうがなかろうが、本音の部分があろうがなかろうが、常にそのパターンである。この行動は、傍から見ると格好よく見えるが、多くの犠牲を強いることになる。それに比べると、日本の明治維新という大改革は、戊辰戦争を経て、成就したものであるが、これだけの政変をやり遂げたにしては、最小の犠牲で済んだといえるのではなかろうか。更に、新政の要職には、適材適所を実行し、敵も味方もなく就いている。今の世界の状況を見ていると、それぞれの国が潰しあいをしているようにしか思われない。そういう時だからこそ、相手の国をよく知り、道義、道徳を持って、慈愛の心で接する必要があるのではなかろうか。


 
十二、西洋の刑法は専ら懲戒を主として、苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして誡(かんかい)となる可き書籍を與(あた)へ、事に因りては親族朋友の面會(めんかい)をも許すと聞けり。尤(もっと)も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤獨(かんかこどく)を愍(いつくし)み、人の罪に陷(おちい)るを恤(うれ)ひ給ひしは深けれ共、實地手の届きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、實に文明じゃと感ずる也。
   
「西洋の刑法は、懲罰と訓戒を主として、罪人、容疑者の苛酷な責めや刑罰は戒め、善良になるように方向付けることに重点を置く。だから入獄中の罪人に対しても普通の人とあまり変わらない扱いをして、罪を償うために必要だと思われるような書籍を与え、反省を促し、場合によっては親類、縁者の面会も許すと聞いている。もっとも、聖人が刑罰を設けられたのも忠孝と仁愛の心を持って、身寄りの少ない、孤独な人がよく罪を犯すのでそのことを哀れみ、そういう人が、罪に陥ることを憂慮しての深い思いがあったとは考えるが、実行するに当たって、今の西洋にように行き届いたシステム化がなされていたかどうかは、これまで、書物で見たことがない。このようなことに関しては、さすがに西洋は文明であると感じる。」
刑法については、西洋に学ぶべきであると西郷南洲は言っているのである。確かに、江戸時代の罪人に対する接し方は、「人非人」という言葉で表しているように酷いものであったようである。また、容疑者に対する取調べは、無実の者をも有罪にするぐらいに厳しいものであったように聞いている。現在は、かなり緩和されてはきていると思うが、日本の警察署、検察署での取り調べは、他先進国に比べるときついものであるように聞いている。西郷自身も沖永良部への島流しのときの独房での悲惨な体験などがあるので、尚更、そう感じたのであろう。罪状を認識しない、反省しない人間や理由はともあれ人を殺した人間は当然罰せられるべきであると思うが、罪状を認識し、二度と罪を犯さないと心から反省をしている人間には、応分の処置がされてもいいように思われる。しかし、出所後の犯罪率の高さなどを考えると慎重に行わなければならないことは確かである。確かに刑罰の処方については、聖人の教えの中に詳細に書かれているものはない。これは、当然、性善説を主体としての教えであり、罪を犯しても自分自身で自戒し、自律できるということが前提になるので、そういうことは、あまり描かれてないのであると考える。もちろん、自戒し、自律できない人が多い、今のような世の中には、そういう人たちを教導するという考え方も重要であるが、明確な刑罰をつくるということも重要であろう。そういえば、岡田先生が「今のような、混乱した世相には、韓非子のような徹底した法家の処方も必要である。」といわれていたことを思い出した。

 
十三、租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧(きょくちしょうけい)の俗吏(ぞくり)を用ひ巧みに聚斂(しゅうれん)して一時の缺乏(けつぼう)に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐げるゆゑ、人民は苦悩に堪え兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾(しぜんきっさこうかつ)に趣き、上下互に欺き、官民敵讐(かんみんてきしゅう)と成り、終に分崩離析(ぶんぽうりせき)に至るにあらずや。
   
「税金を少なくして、国民を豊かにすることこそが、国力をつけ、国を発展させることになる。だから、国政で色々とやらねばならない事柄が多く、資財の不足で苦しいことがあっても、税制の基本を忠実に守り、国を司る者(上に立つ者)が、自らを損じても、国民から取り立てるようなことをしてはならないものである。」
と前段で言っている。国力を付け、国を発展させる要因は民間活力の増進であるといっているのである。西郷南洲は、このころから小さな政府の提唱をしていたわけである。もっと言えば、増税をするのであれば、政治家や官僚が自らの取り分を削って、その分を振り分けるくらいの気持ちでやらねばならないということになる。自分たちの安定のことを第一に考え、足りない分を国民から徴収しようなどということはもってのほかだといっているのである。今の政治家や官僚にこのように考える人がどれだけいるのであろうか。
「よく、これまでの歴史の事跡を見てみるとわかるであろう。道義、道理が明らかでない世相になり、財政が逼迫してくると必ず、場当たり的な知識や小作な偏った知恵しか持たない不徳な役人を登用して、巧みにその場限りの手法を用いて、国民を欺き税金を徴収し、一時の財政不足が補えたことに対して、財政に明らかな臣下であるとして誉め、讃える。そうすると、益々、調子に乗り、色々な手段を講じて、苛酷に国民から税金を取り立てるから、国民はそのことに対しての苦悩に耐えかねて、そのことから逃れようとして、自然の流れとして、うそ偽りの申し立てをして、狡猾な態度を示すようになり、上に立つ者と下にいる者とが互いに欺くようになり、政治家や官僚と国民が敵対し争うようになり、最後には国家がバラバラになり、崩壊してしまうことになりかねないであろう。」
現在のように道義や道理が明確でない世相には、まさしく、このようなことが起こりかねないことは自明の理である。確かに、自分たちが痛まないように様々なカムフラージュを施し、最終的には国民に大きな負担をかける。今の政治は、この西郷南洲の言葉とどこが違うのであろうと思うくらいピタリとくる状態である。また、国民生活の二分化、世代間の二分化などが、どんどん進行していっているのも現実である。いつも申し上げているように今は、この状況を抜本的に変えるためにどうすればよいかを考えるときであるのに、瑣末な改革にのみに集中しているように思える。本当に国家のことや子孫のことを考えねばならない時代に突入しているのだと考える。格好とか、変なプライドは捨てて、上下一緒になって本質の部分でコミュニケーションをとり、議論し、実行していかねばならない時代ではなかろうか。


 
十四、會計(かいけい)出納は制度の由て立つ所、百般の事業皆な是れより生じ、經綸(けいりん)の樞要(すうよう)なれば愼まねばならぬ也。其大體を申さば、入るを量りて出ずるを制すの外更に他の術數(じゅっすう)無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、會計を總理(そうり)する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否らずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血(こうけつ)を絞るの外有る間敷也。然らば假令(たとえ)事業は一旦進歩する如く見ゆる共、國力疲弊して濟救(さいきゅう)す可からず。
   
「国の財政の中で会計出納は、すべての制度を実行するために重要なことであって、どのような事業もこれにより成り立ち、国を治めるに当たって、必要欠くべからざるものであるので、慎重に行わなければならない。その大体のことを申し上げると、収入がどれくらいになるかを量って、損失が出ないように支出をおさえるということ以外の手段や方法はない。一年の収入を見て、さまざまな事業の支出の制限を定めるものであって、その会計出納を管理する役職にある者は、自らの身をもって、この決まりを守り、この決まり通りに実行し、予算を超過させてはならない。そうではなくて、時の勢いに乗じて、予算の制限を緩慢にし、支出を先に考えて、収入をどれくらいにするかなどと考えるならば、国民に税金の負担を課す方法しか考えられないであろう。そうすると一見事業は進捗、進展するように見えても、国力は疲弊して、ついには救済できないような状態に陥るであろう。」
時の勢いに乗じて失敗した例は、過去にいくらでもある。国もそうであるが企業もそうである。国の予算を作るにあたって、税収半分、国債という借金半分という国の財政はどうなっているのであろうか。この借金大国日本に更に借金の積みあげをして、1000兆円近い借金を背負っている(赤ちゃんからお年寄りまで、満遍なく800万円の借金を背負わされていることになる)、この解決がなされずして何の改革なのであろうか。また、実質経済はこのことからもわかるように現状の二分の一ということになる。それを補うため投機という形で実質の数十倍の資金が動いていることなどを考えると、この市場経済は、そう遠くないうちに崩壊するのではないかということも考えられる。ライブドアの事件などを見ても他人事とは思えないような気がする。金が金を生む、そのためになりふりかまわず、さまざまな手段を講じて、自分の資産を増やしていく、そういう事業家が増えてきて、そうなりたいと思う若者が増えてくる。これは、その人たちの資質の問題もあろうが、それだけとは言い切れない、これは、まさしく現在の財政が生んだ落とし子なのではなかろうか。楽して、効率よく稼ぐことがいいような風潮が蔓延すれば、必ず崩壊の道をたどる。是は天地自然の理である。西郷南洲は、こういうことに対して警告をしているのである。また、西郷南洲は、一見、財政には無頓着に見えるが、実は、算盤の実力はたいしたもので数値に対する判断力は、かなりのものを有していたようである。このことからしても、細かいことは別として、経営者や政治家の資質として、数値に対する認識、理解力や判断力は必要欠くべからざるものであるということがいえるのではなかろうか。財政改革は、個人や企業の私利私欲のために行われるものではなく、国民生活を真剣に考えて、現状に合った形で遂行されるべきものであると考える。また、われわれ国民も今の財政は多くの借金の上に成り立っているものであると認識をし、次世代のために何をやるべきかを真剣に考えて行動するときであると考える。


 
十五、常備の兵數も、亦會計の制限による、決して無限の虚勢を張る可からず。兵氣を鼓舞して精兵を仕立なば、兵數は寡(すくな)くとも、折衝禦侮(せっしょうぎょぶ)に事缺ぐ間敷也。




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「常時の国防のための兵数も軍備も予算、会計の制限の中で行うべきであり、諸外国に虚勢を張るために軍備の拡張を意図し、大幅な予算を取ることは、決して行ってはならない。兵士の士気を鼓舞させる環境をつくり、兵士を精鋭に仕立て上げることができれば、たとえ、兵数が少なくとも諸外国との折衝に当たっても、また、諸外国からの侮りを受けることもないであろうと考える。」
国防は、巨大な軍備の増設よりも戦う兵士の気力のほうが大切であるということを言っているのである。外観ではなく中身が大切であるということにも繋がる。イラク戦争を見てみるとよくわかると思うが、また、その前のベトナム戦争にも言えることであるが、世界最大の軍備力を有しているはずのアメリカが、なかなか勝利できないことなどを見るとそのとおりだと思える。イラク戦争にアメリカが突入してから四年と数ヶ月が経つがなかなか結果が出せないでいるし、戦死者の数はわかっているだけで2300人を越えるらしい。それなのに一向に解決に向かう気配もない。フセインの裁判も誰のための裁判なのか、独裁者の審判もできないでいる。国と国教を守るために兵士の訓練で精鋭化しているイラク国内の勢力は、局地戦においては大きな成果を挙げている。この戦争は何のための誰のための戦争なのかもわからなくなっている。大義なき戦いに何の意味があるのであろうか。このまま続くと益々泥沼に入っていくことになるであろう。ともすれば中東の全部の国を敵に回すことにもなりかねない。長引けば長引くほど、アメリカの経済も大打撃を受ける。それに伴い世界の経済もおかしくなる。本当に世界の平安を願うのならば、即刻この戦争はやめるべきであると考える。自爆してでも自分の国、国教を守ろうとしている強い意志の人々を最後の一人まで根絶やしにすることはできない。根絶やしにしても回りが黙っていない。そんなわかりきったことを理解できないということは、何か狂っているとしかいえない。このように、虚勢を張るということが如何に回りを巻き込んで、すべてに迷惑をかけるということが明確にわかる事例はないのではなかろうか。わが国も五月などといわずに即刻、自衛隊を撤退させるべきである。


十六〜二十