【西郷南洲遺訓】

 一〜五六〜十十一〜十五、十六〜二十、二十一〜二十五二十六〜三十三十一〜三十五三十六〜四十一  

 
十六、節義廉恥(せつぎれんち)を失て、國を維持するの道決して有らず、西洋各國同然なり。上に立つ者下に臨で利を争ひ義を忘るる時は、下皆之に倣ひ、人心忽ち財利に趨(はし)り、卑吝(ひりん)の情日々長じ、節義廉恥の志操(しそう)を失ひ、父子兄弟の間も餞財(せんざい)を争ひ、相ひ讐視(しゅうし)するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て國家を維持す可きぞ。徳川氏は将士の猛き心を殺(そ)ぎて世を治めしか共、今は昔時戦國の猛士より猶一層猛き心を振ひ起こさずば、萬國對峙(ばんこくたいじ)は成る間敷也。普佛(ふふつ)の戰、佛國(ふっこく)三十萬の兵三ヶ月糧食有て降伏せしは、餘り算盤に精(くわ)しき故なりとて笑はれき。
   
「節義を以って道を行い、廉恥を以って恥を知る心を失っては、決して国を維持存続させることはできない。それは、西洋や世界中の国も同様である。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、道義を忘れるような時があれば、下の者は、これに倣うようになって、人心が皆、財利、財欲に走るようになって、卑しく、ケチな心が日に日に増長していって、節義廉恥の志や操を失って、親子兄弟も財産を争うようになり、お互いに敵視するようになるものである。このように成ってしまったら、どうして国家の維持存続ができようか。」
どんな国であっても節義廉恥は重要であり、それがない国は国家とはいえないといっているのである。大学の中に「国は利を以って利とせず、義を以って利とす。」という言葉があるが、西郷南洲が言いたいのもそこにあるのである。自分の利益、国の利益だけを考えて国の運営をするのではなく、大切なことは、道義であり、大義である。それを目的、目標として実行するならば、必ず利益はついてくるということである。目の前の私利私欲にばかりに気を取られていると、必ず後で後悔することになるということでもある。前述のイラク戦争にしても大義や道義(大量化学兵器の絶滅)をもってやったということになっているが、何も見つかっていない。本当にあったのかどうかは別として、自国の利益を最優先して、人騒がせなことをしでかしてしまったとしか今では言いようがないのではなかろうか。今の日本も投機、投資ばやりで個人の損得だけを強調しているような風潮になっているが、こんなことを増長させていって、いったい何が残るのであろうか。
「徳川家は、将士の勇猛果敢な心を殺いで世の中を治めていったが、今は、昔の戦国時代の勇猛な将士よりもなお一層勇猛果敢な心を奮い起こさなければ、西洋を始めとした世界各国と対応することはできないであろう。独仏戦争の際にフランスが三十万の兵士と三ヶ月の糧食を持っていながら降伏したのは、あまりにもそろばん勘定に詳しく財政、財利のことを考えすぎたからだといって笑われた。」
西郷南洲は、開国と同時に諸外国との接点を持たなければいけなくなったこの時は、今までのような考え方では通用しなくなるぞといっているのである。戦国時代はまだ国内の対応であったが、これからは、諸外国としかも、まだ未知の世界と対峙しなければならないのであるから、戦国の勇士よりも猛き心を持たなければならないといっているのである。その後の明治の政治家たちの中で海外との対座で活躍した人たちは、この精神を以って行動をしている。今の政治家たちにこの精神が欠けているのは、あまりにも計算高いからであろうか。世界の事情をよく知っているはずの今の政治家たちが、なぜ外交において対等に対峙できないのか疑問に思えてならない。歴史や古典の勉強が足らないのと、精神力の欠如ということであろうか。この章の最後に独仏戦争について書いてあるが、それは、あまりにも利を追求すると、戦いに勝利することはできない、また、戦いの方向性を見失う、ということをいっているのである。私利私欲なく外国と対峙するというのが外交の秘訣であるように思える。


 
十七、正道を踏み國を以て斃(たお)るるの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮(いしゅく)し、圓滑(えんかつ)を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮(けいぶ)を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。
   
「正面から正道を踏んで、国を代表して、命を賭して、倒れてもやるという精神で望まなければ、外国との交際は全うすることができない。外国の強大で強力なことに恐れ、萎縮して、円く治めることに主眼をおいて、自国の真意を曲げて、外国の思いのままに流れ従うときは、逆に軽蔑され、侮られることになり、今まで親しくしていたことがかえって反故にされ、最終的には外国に制圧されることになるであろう。」
相手がいかに強大で強力であっても、それを恐れることなく、自国の真意を明確に相手に伝えることが外交では重要であるといっているのである。現在の日本の外交はどうであろうか。常にアメリカということを意識して、まるで属国であるかのように振る舞い、そのアメリカにさえも軽蔑されているということが現実ではあるまいか。このところの外交を見ていると諸外国になめられてばかりであるという風に思うのは、私だけではないと思う。なぜ、このようなことになってしまったのか。戦後の高度経済成長は、日本の国民性の勤勉さにより支えられてきたと同時にアメリカとの商取引により拡大していったということがいえる。そういう意味ではアメリカの保護のもとでの経済発展であったということがいえよう。そしてそれは、一億、総中流社会といわれた昭和50年代に繋がり、一番のピークに到ったのである。その後、バブル期を経て、ただ、利益追求だけをしてきたかに見える日本に対して、諸外国の風当たりが強くなってきて、現在に到っている。そして、この流れの中で日本はその節目節目でちゃんと自国の真意を諸外国に伝えていないように思える。だから、ただ金儲けに従事している、自国の文化も語れない、最低の国民性しか持っていないと思われているのである。また、その背景から、脅せば、何でもするとなめられているのであろう。もうそろそろ、自分の言葉で自分の真意をちゃんと伝えることをしないと亡国の道をたどってしまうのではないかと思う。「国家の品格」ではないが、もともと持っている日本人としてのスピリットを開花させ、世界中に向け、発信させていかねばならないときではあるまいか。今こそ、西郷南洲がいうように命を賭して、自国の真意を明確に伝えられる、リーダーシップを持った政治家が必要なときである。


 
十八、談國事に及びし時、慨然として申されけるは、國の陵辱(りょうじょく)せらるるに當(あた)りては、縱令國を以て斃るる共、正道を踐(ふ)み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戰(いくさ)の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。
   
「話が国事のことに及んだとき、なげく様におっしゃるには、わが国が外国に陵辱されるようなことがあったら、たとえ国全体で取り組んで倒れるようなことになっても、正道を推し進めて、道義をつくすことが、政府の本来の勤めである。然るにいつも金融や食糧、財政のことを議論することを聞いていれば、どんなにすごい英雄豪傑であろうかと思われるけれども、戦などの血の出ることに臨めば、考え方を一緒にして、ただ、目前の気休めの平安を謀るばかりである。戦の一字を恐れて、戦わなければならないときに戦えなければ、政府の本来の任務を遂行できないことになる。それでは、商法支配所つまり商売のための総元締めであり、一国の政府であるとは言えない。」
政府は何をしなければならないのかということを西郷南洲は言っているのである。今のわが国は、様々な国から陵辱を受けているように思える。憲法問題、教科書問題、靖国問題、数えれば切がないほどたくさんの中傷を受けている。それに対して、本当にそういったことに毅然とした態度で接している政治家がいるのであろうか。そういうことに対して明確に弁明できる政府であるのであろうか。戦後、平和憲法の名の下に自国を守るという事をまるっきり忘れてしまったような国が国家といえるのであろうか。アメリカのロボットの如き、風潮を作り出した政治家たちが、いまだに闊歩しているのは、なぜなのであろうか。兵器を使えない軍隊を平気で戦地に送り出していることなどは、何のためなのか。本質の問題を別にして、あら探しばかりしている予算委員会のやり取りは、まるで子供のけんかである。それは、すべて自主独立の気風を忘れたからに他ならない。自国のことは、自国で守るという当たり前のことさえできないでいるのが今のわが国、日本である。今の政府は、まさに西郷南洲のいう商法支配所に過ぎないような気がする。今、わが国に足りないのは、自国を守るという精神でありそれに伴う行動である。そうすると、すぐ戦争とか、軍隊とか言うことになるがそうではない。自国を守るために、自主独立のために必要なことはと考えると、何が必要かは自然と導き出せるものである。その結果、自国を守るための徴兵制や官学が必要であるというならば行うべきである。そうすると、今の若者を廻るニートの問題や様々な犯罪の多くを防げるはずである。決して、戦争をするためのものではなく、自国を守り、自主独立の精神を養うためのものである。今、わが国に足りないのは、「正道を踏み、義を尽くす」ことである。


 
十九、古より君臣共に己を足れりとする世に、治功の上がりたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聴きいるるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言えば忽ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。

   
「古来より、主君、臣下共に自分自身に満足している世の中で、政治がうまくいったためしが無い。自分自身が満足しない所があって、はじめて、下の人たちの意見も聞き入れるものである。自分自身に満足している人に、人が忠告や忠言をすれば、すぐ怒るものである。そういう、驕り高ぶっている人には、賢人や君子は、それを助けようなどとは思わないものである。」
自分たちが満足しているからといって、他の人たちが満足しているとは限らないということである。また、満足しきっていると思い上がりが強くなり、自分が完全だと錯覚し、すべて、自分の判断が正しいと思うようになり、人の意見を聞かなくなり、やがてはそれが身を滅ぼすことに繋がるということである。日本の歴史をみてもわかるように、平家にしても、北条家にしても、足利家にしてもそうであるように最後は自分自身の満足の中で享楽の世界を謳歌して、滅亡して行ったのである。また、よく考えるとすべてのものがうまく治まるというようなことがあるのであろうか。いつも申し上げるように人間が生きていくということは、不安定が当たり前なのである。明日どうなるかわからないというのが人生である。だから、こうしよう、ああしようと仮定しながら毎日を生きているのである。また、いつも申し上げるように「深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」で生きているのである。自分自身には問題がないかもしれないが、自分を取り巻く世の中には、多くの問題が山積しているのである。その問題を逃げることなく対処していかなければ、人間としての使命感を果たすことができないのである。ましてや政治を司る人たちが、自分自身の生活だけに満足しているなどということは、あってはならないことである。王陽明の言葉にあるように「事上磨錬」こそが己を開き、他を導く方法である。西郷南洲は「足らざるの心」があって、はじめて、人の意見を聞き入れて、改革、改善が実行できるから、善政がしかれ、世の中が治まるものだといっているのである。人間は、満足しきって、完全だと思ったときには、成長がストップして、衰退が始まるということでもあろうか。このようなことは、よくよく注意する必要がある。


 
二十、何程(なにほど)制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行なわれ難し。人有て後方法の行はるるものなれば、人は第一の寶(たから)にして、己れ其人に成るの心懸(こころが)け肝要なり。



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「どのように制度や方法について論議しても、その論議を実行できる徳ある人物でなければ、そのことは成就できない。そういう人がまずあって、後に制度や方法が実行されるのであるから、人が一番の宝である。だから、自分自身がそのような徳ある人になるように常日頃心掛けることが何にも増して、重要である。」
論議も大切であるが、何よりも様々な事業を実行するためには、それに即応した人材が必要であるということである。確かに最近は、論議のための論議をしているような場面を多くみる機会が多い。自分の論議に責任を持たないという風潮が蔓延しているようにも思える。人間、何かに付けて論議をすることによって安心して、そのことが成就したかのように思うものである。そして今何を論議していたかさえ忘れてしまう。また、自分だけで責任を取りたくないために論議を尽くした結果こうなったというような理由付けのためにするものも多い。中国宋の時代の思想家で朱子の論敵に陸象山という人がいるが、その人の言葉に「千虚は一実に博せず」というのがある。千回議論を交わすよりも、ひとつの実行のほうがはるかに大切である、千回議論はひとつの実行を仰臥することはできないということである。将にその通りであり、実行するためには、それを突き進めて、成就させるための人材が必要である。また、常日頃どんな大きな問題があってもそれを解決できる訓練をすることも必要である。西郷南洲は、何よりも人材が必要であり、色々な問題に対応できるような人材を常に教育、訓練しておくべきであるといっているのである。また、自分たちも社会的使命感を達成するために、常日頃から心構えて、自ら学問をし、訓練をしていくことが大切であるともいっているのである。主体性なき外交、主体性なき政治が行われている現在、われわれにとって重要なことはこういう心構えであると考える。


二十一〜二十五