【西郷南洲遺訓】

 一〜五六〜十十一〜十五十六〜二十、二十一〜二十五、二十六〜三十三十一〜三十五三十六〜四十一  

 
二十一、道は天地自然の道なるゆゑ、講學(こうがく)の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功(きょくこう)は「母意母必母固母我」(論語)と云えり。總(そう)じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵(そのことたいてい)十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希(ま)れなるは、始は能(よ)く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯(あらわ) るるなり。功立ち名顯るるに随(したが)ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎(きょうくかいしん)の意弛(いゆる)み、驕矜(きょうきょう)の氣漸く長じ、其成したる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂(しと)げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭(み)ず聞かざる所に戒愼(かいしん)するもの也。
   
「人の道というものは、天地自然の道理が示す道であるので、学問を究明する道理は、敬天愛人(人の道は天に通じるので天命に畏敬の念を払い、天は自分も他人も同じように愛するので、自分を愛する心を以って人を愛す)ということを目的とし、主体性ある自己の確立を行うためには、己に克つと言うことを常日頃から心がける必要がある。己に克つための究極の工夫は論語にある「意母し、必母し、固母し、我母し」(身勝手な心を持たず、無理押しをせず、物事に固執せず、我を張らない)という言葉の通りである。総じて人というものは、己に克つことで、物事を成就でき、己を愛する(自己保全だけを考える)ことによって失敗するものである。」
人の道は天道であるから、天の示す道に畏敬しながら、周りの自分にかかわる多くの人々と愛し、慈しみ合い一緒になって、理想的な平穏な世の中を構築するために行動しなければならない。と、西郷南洲は言っているのである。「敬天愛人」について山田準先生(故人、山田方谷の孫、二松学舎大学学長、南洲百話の著者)は、四つの意味があると述べている。一つは、天地の間には自然の道があり、それは、誠の道である、二つは、人はその道を行うものである、三つは、人は道を行うものであるから、その本尊である天道様を敬わねばならない、四つは、天道様は、人も自分も同一に愛して下さる、それであるから自分を愛するように人を愛さねば、天道様に済まないと言うように説明している。そして、南洲は、その要諦として、自分の利己心を克服することが必要であり、そのことは、前回「論語のこころ」で勉強した「意必固我」を去るということが修養の要点であるとも言っている。身勝手な心を持たず、無理押しをせず、物事に固執せず、我を張らないということは、前回のときも話をしたが、物事にとらわれない、偏らない、変わらない心を作ることができることになる。所謂、「中庸」の実践を言っているのである。王陽明は、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」といっているが、心中の賊を破るための要点でもある。なにか問題が起きたときに、この境地を自分自身で作れるように常日頃修養するということが大切である。そして、結論として前半の最後に自己保全や自己愛の強い人間は、最終的には失敗すると言っているのである。
「よく昔から現代に至るまでの人物を見てみよ。事業を創業する人が、その事業を7,8割までは大抵成し得るけれども、あとの2,3割を終了すれば、その事業が成就するのにそれを成し得る人が少ないのは、最初は、自分を慎み、事業を慎重に行うので、成功し、それに準じて、名も現れてくる。しかし、成功し、名が挙がってくるに従って、いつしか自己愛が強くなり、天を懼れる心や自分を戒め慎む思いが弛んで、驕り高ぶる気持ちが段々強く表に出るようになり、その成し得た事業を過信して、我がものとして、その中で自分の私利私欲を果たそうと思い、儲け話に乗り、してはならない仕事をしてしまい、ついに失敗するものであるが、是は皆、自分自身が招いた結果である。だから、事業を成就させようと思うならば、常に自分の私利私欲に打ち勝って、人が見ていようが見ていまいが、人が聞いていようが聞いていまいが、自分を戒め、慎むことが重要である。」
人は、事業が成功し、自分が経済界など世間で有名になってくると、天下を取ったかのように錯覚をしてしまい、自分の思うように会社や事業を操ることができると過信して、そこに働く人や協力してくれる人をないがしろにして事業を進めていこうとするが、それは、天意に反するので、必ず失敗を招くものである。そうならないためには、常時、自らを省み、自らの私利私欲に打ち勝つことが必要であり、そのためには、自分を戒め、慎む心(これを慎独という)が大切であるということを西郷南洲は言っているのである。つまり、最初の箇所に述べてある「意必固我」を去ることを実践しなさいということである。このところのライブドア事件、耐震偽造建築事件、東横イン建築法違反事件など、どれをとってもそういうことがいえるのではないだろうか。このように過去の先例に学ばない、学習能力が足りないのが人の世の常といってしまえば、それまでであるが、そうでない企業もたくさんあり、そういうことを実践するがゆえに長い間、優良企業で有り得ているということがいえよう。確かに事業というものは、それを発展させるためには、様々な投資が必要である。しかしながら、それ以前に、それにも増して、まず、大小に拘らず、その事業を発展させていくことによって、その投資が本当に社会的に意義があることなのか、社会に貢献できることなのかを判断することが必要なことであると考える。ここのところをよく考えない企業は、早晩だめになるということがいえるのではなかろうか。企業家はもちろんのこと政治家も「慎独」の精神をもって事に対処することが必要である。


 
二十二、己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て氣象(きしょう)を以て克ち居れよと也。
   
「己に克つためには、その時々の事象に応じて、場当たり的に克とうとするようでは、本当に克つことはできないものである。常日頃、己に克つための心構えを持ち、修行を積むことにより克つものである。」
己に克つという意味は、自分の卑しい心や怠け心を克服するということであるが、人間誰しも、常にそのような気持ちは起こるものでもある。だから、常にそういう心が起こったときにそれを克服できる心構えを持っていないといけないということである。王陽明は「心中の賊を破る」ためには、「去欲存理」「省察克治」「事上磨錬」を実行しなさいといっている。つまり、私利私欲を去り、天地自然の理に適う行動をするということが大切であり、そのためには自分の行動を省みて、これからどう行動していくかを考慮し、私利私欲を乗り越えて、自分の心を安定させ行動していくことが重要であり、更にそのためには、常日頃の自分にふりかかる問題を解決していく中で、心を磨き鍛え上げていくことが必要であるといっているのである。根本は、私利私欲を去るというところにある。ここで私利私欲を去るということと、無欲とは違うことを理解していただきたい。私利私欲を去るとは、自分のためにしかならない欲のことであり、人のためにとか、世の中のためにとかいう公利公欲まで去れということとは違うのであり、決して無欲という意味ではないからである。もちろん、究極は無欲になることではある。己に克つの要点は、私利私欲を去り、自分の心構えを明確にして、常に実生活の中で起こる色々な事象を体験することにより、常日頃から訓練をしておきなさいということでもある。この己に克つ工夫があれば、どんな時も、どんな状況でも自分を見失うことなく判断や決断ができるということにも繋がる。この工夫は、世の中のリーダーシップをとっていく人たちにとっては、必要不可欠なものであるように思える。


 
二十三、學に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。去りとて唯此こに偏倚(へんい)すれば、或は、身を修するに疎(おろそか)に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては濟(す)まぬものと思へよと、古語を書て授(さず)けらる。
   恢宏其志氣者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。
古人を期するの意を請問せしに、尭舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
   
「学問に志す人は、その志を大きく持って、高い理想を掲げていかなければならない。だからといって、そのようなことだけに気をとられて偏った考えでいると、一番大切である自分自身を修めるということが疎かになっていくので、常日頃から己に克って自分自身を修める訓練をすることが必要である。つまり、志を大きく、高い理想を持って、常に己に克つことを忘れずに行動し、男たるものは人を自分の懐の中に収める度量を持ち、人の懐の中に入れられて安穏としてはならないものであるといわれて、昔の言葉を書いて授けられた。」
世の中のリーダーシップをとるために学問をし、志を遂げようとする者は、高い理想を持たなければいけないが、高い理想だけでは、志は遂げることができないので、常日頃から自分の心のスタンスを明確にするために自分に克つ修養をしなければならないと西郷南洲はいっているのである。目的や目標を果たすためには、常日頃の努力が必要であり、何事も性急に達成しようと思ってもできるものではないということでもある。近年は、事業であれ、政治であれ、何事も簡単に達成できるように思っている傾向が強いようであるが、簡単に達成できたものは、簡単に崩れるということでもある。借り物のノウハウや借り物の人材では、本当に確固たる事業は成就できないということである。現在は、必要に駆られての事業や企業の売り買いが横行しているが、事業の中身についての特にオペレーションや人材についての要件を軽く見ているように思える。私もそういう業務を少しやっているので、わかるのであるが、事業を再生するためには、そこのところが一番重要なのである。事業の中には、人の血が通っているということを忘れてはならない。簡単にリストラしたり、減給したりしていると今はそれでいいかもしれないが、あとになって大きなしっぺ返しを負うことになりかねない。そういう意味からすれば、これからの経営者像は、ここで西郷南洲がいっているように、人を自分の懐に入れられる許容量の大きい、度量のある人物でなければならないのではなかろうか。
「其の志気を恢宏する者は、人の患いは、自私自吝、卑俗に安んじて、古人を以て、自ら期せざるより大なるは莫し。(そのことを成就させようと自分の意気を広く盛んにしようと思う人にとって、その人の憂えるべきことは、自分にとっていいことのみを図り、卑しく低俗なことに安んじ、昔の聖人を手本として、自らそうなることを期待し、そのための修養をしないということより他はない。)古人を期するということの意味を先生にたずねたら、堯舜をして手本とし、孔子をして教師としなさいといわれた。」
自分にとって都合のいいことだけを考え、行動し、人に施すことをやらずに低俗なことばかりに興味を持ち、いい手本になるような人物を否定するような生き方では、本当の自分の成し遂げたいことは達成できないということである。こういう人は、いつもどこかに空虚さが残り、達成感を得られないものである。こういう人にとっては、自分が本当に成し得たいことに社会的使命感を持って挑戦する、あるいは、過日、成し得たいと思ったことなどを振り返ってみて、もう一度そのことに社会的使命感を持って挑戦するということが、空虚さを取り戻す最善の手法であるように思う。ある一定の事業を成し得た事業家も多くは同じような空虚さを覚えるように思える。それは、自ら、事業をやっていく中で起こした色々な事象の中で直接、間接に拘らず迷惑をかけた多くの人たちへの反省の念もあり、また、金銭的に豊かで安定した生活の中で足りない精神的安定も求めて、もっと心を自由にしたいという意いに起因することが多いのではなかろうか。そういうことであれば目標達成ということについては、事業では達成したかもしれないが、社会的には、何もまだ達成できてないのであるから、社会的目標を掲げて、それに邁進することがその空虚さを補う一番いい方法ではないかと考える。前も話をしたこともあると思うが、幕末の志士たちの活動を支えた事業家に白石正一郎という人物がいるが、この人物は、自ら稼いだものをすべてといっていいくらい、時代を変える社会的使命感を持って、この志士たちに貢いでいる。死ぬときは、逆に借金を背負っていたようであるが、すばらしい人生をまっとうできたことに誇りを持ち、感謝をしていたと聞く。渋沢栄一も多くの事業や事業家を育てたが、私財はほとんどなかったという。渋沢栄一は、ご存知の通り、昔の聖人に倣って、事業を進めていった人物である。


 
二十四、道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
   
「道は、天地自然の理の中に存在するものである。だから、その天地自然の理に則って、人は、この道を行うものであり、そのためには、当然、人は天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も同じように愛するので、当然、自分を愛するように人を愛することが肝要である。」
天地自然の理に則って、人の道は形成されているので、人はその本にある天に畏敬の念を払うことは当然のことであり、天は、どんな人であろうと平等に恵みを与えるので、天の意思を持って、自分も他人も差別無く愛するべきである。と、西郷南洲は述べているのである。この「敬天愛人」についての解説については、二十一章でも、述べたが、山田準氏は、天地の間には自然の道があり、それは誠の道である。だから、人はその道を行うものである。そして、人はその道を行うものであるので、天道様を敬わねばならない。天道様は、人も自分も同一に愛してくださるので、自分を愛するように人を愛さなければ、天道様にすまないという解釈をしている。山田準氏は、人の道は、誠の道であると表現している。誠の道とは、どういうことかと考えると、西郷南洲の生き方そのものでもあると考えられるが、「嘘を言わない」「約束を守る」「何事にも心を尽くす」「賄賂などは受け取らない」「目的を果たすために全力を尽くす」などの言葉がイメージできる。これは、山田準氏の祖父である山田方谷にも言えることであるが、江戸時代の偉人たちに概して、いえることであるように思われる。そういう意味からしても、江戸時代の日本の教育レベルは、他国に比してもかなり高レベルなものであったように思われる。私が、かつて、もう十数年立つであろうが、武士道とは、どういうことなのかということを研究して、色々な本を読み漁った結果、「仁」であり、「誠」であるということを理解したことを思い出す。また、このことは、万国に共通する倫理観でもある。王陽明も「万物一体の仁」を唱え、それを理想社会のあり方とした。天の道は人の道であり、誠の道である。誠の道を行うために必要なことは、仁心を以って人に尽くすことである。ということがいえるのではなかろうか。現在、失われつつあるこの二つの言葉をもう一度、世の中を構築するための指針として、掲げるべき時代なのではなかろうか。


 
二十五、人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡て人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。



次へ
   
「人を相手にすることはやめて、天を相手にするように心がけよう。天を相手にして、自分の心を尽くして行動し、そのことが成就できなかったからといって人を咎めてはならない、自分の誠が足らなかったことに反省すべきである。」
天の道は、人の道であり、誠の道であるので、この道を尽くすのが自分の目的である。だから、他人の仕業で自分の思うように事が進まず、成就できなかったとしてもその人を攻めるのでなく、その道を尽くすのに努力が足りなかったと自戒するのが当然のことであり、目的達成のために次のステップを踏むべきである。と、西郷南洲は言っているのである。人生の目的が「誠の道」の達成であるのであれば、目的がはっきりしている。だから、それに突き進んでいくことが重要であり、その中で起こる様々な人間関係の歪み、確執や嫉妬は、起こるべくして起こるものであるので、そのようなことに捉われていたのでは、目的の達成ができない。そういうことを包含しながら、目的達成のために行動していこうということで「人を相手にせず」といっているのであって、人はどうでもいいということではないということを理解してもらいたい。現実には、われわれの多くの人が、自分の思うようにいかないことを人のせいにすることが多い。また、実際、その人との確執や嫉妬から、悪意に満ちた中傷をされて、自分のやろうとすることが中断されたり、中止になったりすることも多々あることである。しかし、確かによく考えてみると、そう思われるのは、自分に何らかの原因があることに気付いていないことが多いのではなかろうか。だから、西郷南洲が言うように「我が誠の足らざるを尋ぬべし」となるのである。本当にその人に対して誠を尽くしていたのか、自分が思っているほど社会に対して誠を尽くしているのだろうか、などと省みてみることが必要であろう。つまり、「誠を尽くす」ということは、人智を越えた行動であり、それが本物であれば、如何なる人間関係にも左右されること無く目的を達成できるということでもある。何回か話はしたと思うが、岡田先生が言われていた「萬化身から生ず」という言葉がある。それは、自分の身の回りで起きるいい事も悪いこともすべて自分自身に起因しているという意味であるが、この言葉を我々は真摯に受け止めて行動をしていく必要があろう。


二十六〜三十