【西郷南洲遺訓】

 一〜五六〜十十一〜十五十六〜二十二十一〜二十五、二十六〜三十、三十一〜三十五三十六〜四十一  

 
二十六、己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕慢(きょうまん)の生ずるも、皆な自ら愛するが爲(ため)なれば、決して己れを愛せぬもの也。
   
「自分さえ良ければ、人はどうでもいいなどと考えることは、人として一番良くないことである。修業ができないのも、事業が成功しないのも、自分の過失を改めることができないのも、自分の功績を自慢し、驕り高ぶるのも、すべて、人のことは考えない自己愛の強さからくるものであって、決して、自分さえ良ければいいなどと考えて行動してはならないものである。」
何でも物事を成就させるためには、自分ひとりではできない。また、自分ひとりでやり遂げたと思っても、その人の周りにいる人たちが協力してくれたから、やり遂げられたということが世の中すべてであるといっていいであろう。まず、この世に生を受けるということからして、自分でできることではない。そういうことからしても自分がすべてやったなどということは存在しないのである。だから、自分さえ良ければなどということは、元々、通用しないのが人間社会なのである。このことを理解できないで、自分の私利私欲だけに捉われている人は、どんなことをやっても反省もせず、人の力を借りることもしないので成功もしない。また、少しの自分の功績を大げさに自慢するものであり、傲慢でもある。このような人間になってはいけないと、西郷南洲は言っているのである。
結局、自己愛が強くて、人を信じることができなくて、せっかく持っていたものまですべてを失うということは、最近、よく見受けることであるが、こういう人は、自己愛が強い割には信念が無く、何事も最終的には人に任せることも無く、自分の都合のいい事に強く反応するという傾向がある。そして、そういう自分に自覚が無い場合が多い。つまり、客観的に自分を見つめることも無ければ、客観的に見て、自分のことを率直に言ってくれるような人物をも遠ざけるからである。こういうようにならないためには、やはり、人間力を磨くことであろう。また、このことは誰でもが持っている要素であるので充分に気を付けねばならないことでもある。


 
二十七、過ちを改るに、自ら過ったとさへ思い付かば、夫れにて善し、其事をば棄(す)て顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思ひ、取繕(とりつくろ)はんと心配するは、譬(たと)へば茶碗を割り、其缺けを集め合せ見るも同にて、詮(せん)なきこと也。
   
「過ちを改めるのに、自分自身で過ったと心から思えば、それでよい。そのことをくよくよといつまでも思うよりは、きっぱり棄てて、すぐに立ち直って、次の一歩を踏み出すべきである。過ちをいつまでも悔しく思い、それをどうにか取り繕おうとするのは、例えば、茶碗を割って、そのカケラを集めて、元の形にしようと合わせるようなものであって、意味のないことである。」
人間、完全ではないので必ず過ちを犯すものである。過ちを犯さない人間などというのはありえない。大切なことは、その過ちを次のステップに繋げることであり、いつまでも悔やんでいたのでは、物事に伸張がなく、自分にとっても世の中にとっても何の意味も無いことであると西郷南洲はいっているのである。ここで、間違った解釈をしてはいけないのは、過ちを犯してもほおっておけということではないということである。自分で充分に反省して、改善して次のステップに繋げよということである。前回の論語の中に「過ちて改めざる、これを過ちと謂う。」という言葉があったが、「自ら過ったとさへ思いつかば」の部分にそういう意味合いのことが含まれていると解釈をするべきである。大切なのは、それをいつまでも引きずるなということである。頭山満は「大西郷遺訓」の講演の中でこのことについて、「悪いことをしたと思うたら、今度は善いことをするのが一歩踏み出す所以じゃ。」といっている。西郷南洲も自分の人生の中で多くの過ちを犯している。そして、その体験の中で人間力を付けていったのである。というか、それを超克した結果、不動の人格が出来上がったのであろうと考える。今の教育は、過ちを犯さないように犯さないようにと仕向けている傾向が強い。また、自分はこんなに苦労したのだから、自分の息子には苦労をさせたくないとかいうのは、大きな間違いだと思う。自分が苦労したことと同じくらいの苦労をさせなければ、立派に自分の後を継ぐことはできないし、優れた人格はできないのである。また、過ちを犯さないように仕向けていると、何が過ちで何が過ちでないのかわからないようにしてしまう傾向がある。今の少年犯罪には、このようなことが反映されているのではないだろうか。いつの時代も改革者や先駆者は、過失を恐れずに信念を持って行動をしてきているということがいえるのではないだろうか。


 
二十八、道を行ふには、尊卑貴賤(そんひきせん)の差別無し。摘(つま)んで言えば、尭(ぎょう)舜(しゅん)は天下に王として萬機(ばんき)の政事を取り給へ共、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯國(ろこく)を始め、何方へも用ひられず、々(しばしば)困厄(こんやく)に逢ひ、匹夫(ひっぷ)にて世を終へしか共、三千の徒皆な道を行ひし也。
   
「天道である人の道を実行していくのは、身分が尊いとか、卑しいとか、お金持ちであるとか、貧乏であるとかの差別は無く、誰でも平等にできることである。例えていえば、尭と舜は古代の中国の国王で、諸々の善政を実行されてきたが、そのもともとの職は教師であった。また、孔子は、魯国から、各地の諸侯へ自説を説いて回ったが、どこにも用いられず、何度も困難なことに合い、苦労をして、ただ一人の普通の人間として生涯を終わられたが、三千人といわれるその弟子たちは、孔子の教えに従って、道を行ったのである。」
人の道を実行、実践するのにやっていい人、やって悪い人という規定はない。誰でもいつからでもやろうと思えばやれるものである。人の道を行うのに差別や階級などというものは、一切存在しない。尭や舜は、人民のために国王として、さまざまな良策を実行していったが元を正せばただの先生であった。また、孔子は、無駄な争いをさせないために各諸侯や部下、そこの住民たちに人の道を説いて回ったが、結局は、どこにも登用されずに無冠の人間として生涯を終えた。しかし、その弟子たちは、人の道を実践して、回りに大きな影響を与え、その教えは、東アジア全土に広がり、人間の生き方の指針となっている。このような、素晴らしいことを実践するのに何の遠慮がいろうか。と、西郷南洲はいっているのである。最近は、あまり、お目にかかれないが、昔は小学校には薪を背負って、本を読んで歩いている二宮尊徳(金次郎)の像が、必ず建っていたものである。その頃は、経済成長する日本の「勤勉さ」の象徴としての意味合いも強かったのであろう。この二宮尊徳が、読んでいる本は、「大学」であるとされているが、(もちろん、「大学」だけでなく、「論語」も「中庸」も「孟子」も他の古典も当然読んでいたのであろうが)少年時代、不遇な生活を余儀なくされていて、仕事に忙殺されている中でも寸暇を惜しんで人の道を学んでいたことがよくわかる。そして、尊徳は、成人して、日本の農村を救う、改革の第一人者になるわけであるが、そのことの根本は、この時学んだ人の道の実践に他ならなかったのである。二宮尊徳に限らず、日本の偉人たちは(世界を方眼してもそうであろうが)、すべて、人の道の実践者であったということがいえる。そして、そういう人間の出現無しには、本当の人民のための改革はできないということがいえるのではなかろうか。この、変革の時代に本当に必要なのは、そういう人の道を実践できる人材なのではなかろうか。


 
二十九、道を行ふ者は、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難(かんなん)の地にたつとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも關係(かんけい)せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れ共、人は道を行ふものゆゑ、道を蹈むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を樂(たの)しみ、若し艱難に逢うて之を凌(しのが)んとならば、彌々(いよいよ)道を行ひ道を樂む可し。予(よ)壯年(そうねん)より艱難と云ふ艱難に罹(かか)りしゆゑ、今はどんな事に出會ふ共、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合(しあわ)せなり。
   
「天道である人の道を行う人は、その誠実さゆえにどうしても困難で厄介なことに会うものであるから、どのような艱難辛苦が起ころうとも、その事の成功とか失敗、自分の生死などについて、少しも捉われないものである。どんな事でも実行するに当たっては、上手下手があり、物によっては、よくできる人、よくできない人があるので、道を行うことに対して、自然、できるか、できないかに心を動かす人もあるであろうが、前から述べているように人は道を行わなければならないのであるから、道を踏むのに上手下手があろうはずも無く、できないという人もいないものである。」
正道を歩こうとする人は、必ずといっていいくらい、その誠実さゆえ、他人の嫉妬や確執から、困難なことに見舞われるものである。しかし、そういう人は、そのようなことはものともせず、正道を踏み続けていくものである。そして、実は、そう生きることが人間本来の生き方であるので、当然、みんな実行していくべきである。それを実行するのに上手にやるという方法もなければ、当然、人としてやらねばならないことであるので、できないということもないと西郷南洲は、言っているのである。最近は、誠実に物事を実行していることに対して、なにか画策しているのではないかと、持たなくてもいい疑惑を持つ人が多くいるように感じる。おそらく、誠実に行動する人が少なくなったからだと思うが、このようなことで誤解を受けて、大変な目に遭うこともある。誠実さが仇になるということであるが、このようなことがあってはならない。現代のひとつの大きな社会問題である「いじめ」の根底にあるのは、このようなケースが多く含まれているのではなかろうか。誠実に物事に反応できない自分があり、前述のように誠実さを実行するのは、大変、苦労のいることであるので、そうできない自分の弱さとそれを実行している者への羨望が、逆に振れて、嫉妬から大勢いる自分の弱い仲間たちを集めて、同調者を増やし、そういう人に対して、嫌悪感を示すという行動に走るということが、いえるのではないだろうか。「いじめ」を解決するには、「いじめ」をする人は、実は、心の弱い人間なのだという観点から色々な手法を考え出す必要があるように思われる。具体的には、道を行うことの重要さを教え込み心を鍛えるということである。私が、中学から高校にいたる約4年間を過ごした、鹿児島の郷中教育の場である「健児の舎」の舎訓の中に、「正直な人となれ」「誠実な人となれ」「勤勉な人となれ」「同情ある人となれ」という言葉があったが、そういうことを小さい頃から、教え込むということが必要なわけである。「徳育」の重要性は、ここのところにあるのである。できれば、幼児の頃からの躾、教育が必要である。
「であるから、この道を実行し、あるときはこの道を楽しみ、そうしている中で、もし、艱難辛苦な事に出会って、これを乗り越えようと思うならば、益々、この道を深く行い、この道を深く楽しむという境地にならなければならない。自分は、若いときから、多くの艱難辛苦を受けてきたので、今はどんな難事に出会っても、心を動揺させるようなことはないであろう。それだけは、本当に幸せである。」
正道を行うのは、当たり前のことであるので、とにかく、この道を実行していかなくてはならない。そして、その中で困難なことに出会った場合は、そこで、他の道に逃げずに、この道をもっと徹底して、行っていくべきである。そう自分が実行した結果、今の自分がここにあるのであり、如何なる困難に出会っても動揺しない自分が形成されたのである。と西郷南洲はいっているのである。仕事でもスポーツでも何でもそうであるが、難題やスランプに直面したときに、それを乗り越える手立ては、他のところにはなく、今、行っていること、引いては、自分の中にあるということである。普通、人は、何か難題にぶつかったときは、他に解決策を探ったり、他事、他人のせいにしたりする傾向が強い。そうした方が楽だからである。しかし、それでは何も解決をしない。本当に自分の人格を高めようと思うならば、自分の中に解決策を見出す努力をすることが大切である。そして、自分の中に解決策を見出すための手法を導き出し、前述もしたが、それを実行するための訓練を常日頃やっておかなければならない。私は、その手法としていいのは、最低一日に一度、自分を解き放す時間を作ることであるように考える。つまり、自分のゆったりできる時間を作るということである。一日20分や30分そういう時間は作れるものである。静坐、瞑想、座禅などをやるもよし、ボケーとしているもよし、そういうときに自然に解決策が出てくるものである。自分の中に解決策を見出すことを常日頃実践していれば、今まで自分が解決できなかった事でも、自分で解決ができるようになってくるものでもあるように思う。そして、その積み重ねで、何事にも動揺しない人格が形成されていくようと考える。



三十、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(しまつ)に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、孟子に「天下の廣居(こうきょ)に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨(ひと)り其道を行ふ、富貴も淫すること能(あた)はず、貧賤(ひんせん)も移すこと能はず、威武(いぶ)も屈すること能はず」と云ひしは、今仰(おお)せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の氣象は出ぬ也。


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「命もいらない、名誉、名声もいらない、官位もいらない、金もいらないというような私心の無い人は、使命感で動くので、どう処置していいかわからないものである。しかし、このような、私心無く、使命感の強い人と一緒でなければ、国難を一緒になって切り抜けて、国家の重大な事業を成し遂げることはできない。しかしながら、このような人は、普通の一般的な人には、見抜くことができないものである。と、仰せになるので、孟子の中に{天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず}(天下の開かれた公の場所に位置し、天下の正道に基き、天下の正道を堂々と実行する。その志が一般国民に用いられたら、それを一緒になって実行し、用いられなくても自分ひとりでも実行していく。そうであれば、富や権力のある者もこれを汚すことはできないし、貧乏や卑しい身分であっても心を移さず、平然としていられるし、威厳や武力によって、これを屈服させようとしても決して屈服させることはできない。)とあるが、今申されたのは、このような人物のことでありますかと、訊ねると、まったくその通りである、真に正道を踏むものでなければ、そのような人格や人間性は創出できないものであると答えられた。」
命も、名誉、名声も、高い地位も、余分な不当な金もいらないという私利私欲の無い人は、本当に扱いにくいものである。しかし、そういう人こそ誠の道を歩ける人であり、そういう人たちと一緒でなければ、国事に携わってはいけないし、国難も乗り越えることができない。また、そういう人たちを見抜く眼力をつけるためには、自分自身の相当な修養も必要である。そうした結果、類は友を呼び、期せずして時期や場所を選び自然とそういう人たちが集まってくるものでもある(あたかも水滸伝の梁山泊のように)。そして初めて、国の政策を実行できるのである。当然、そういう人たちは、後ろ指を指されるような、やましい所はないので、正々堂々と人民の声を聞き、国策に反映させ、国策に則って、誰に邪魔されること無く、柔軟に対応しながら、物事を進行させていくことができる。と、西郷南洲は言っているのである。これは、企業においても同じことがいえるのではなかろうか。命も永らえたい、名誉も名声も欲しい、いい地位に就きたい、いっぱい金を持って贅沢したいと思っている人は、前述のように自己愛の強い人であるから、そういう人が世の中を引っ張っていったのでは、世の中が悪くなるのは、当然のことである。例えば、このところマスコミをにぎわせていることの中に村上ファンドと阪神電鉄との抗争がある。村上ファンドが阪神電鉄の株を46%くらい買占め、阪神の経営陣に村上ファンド側から9人の取締役就任の意向を示している。株主総会を控え、非常にいいタイミングである。一方では、阪急ホールデイングスが、村上ファンドに対して、阪神株のTOBを実行しようとしているが、価格交渉で前進しない。阪神電鉄の本心は、阪急ホールデイングスへの合併と連携である。村上ファンドは、経営支配も辞さないという札を切りながら、また、他にも高値で買うところがあるといって、株価を高く吊り上げ、売り切ろうとしているのが本心であるのであるが、やはり、当事者である阪神電鉄はどうしても翻弄されてしまう。さて、村上ファンドは、なぜ、株を高く売りたいのかというと、投資家に対する高利回りでの還元であり、もちろん自分自身の高収益の獲得でもある。要するに、自分たちの高収益の確保のためだけに動いているのである。そういうところが、経営にタッチした場合には、当然、いい資産の売却が始まり、経費のカットが始まる。おそらく、そこまでしなくてもいいのにというところまで収益向上のためにカットされる。多くの失業者がでる。その結果、いい人材の流出もあり、会社自体の体力も弱まってくる。その段階で新スポンサー(この場合は、おそらく外資)への売却というストーリーを描くことができる。そういう、ストーリーでは、村上ファンドを除いて、誰も救われない。そこで、重要なことは、阪神電鉄の経営陣の対応である。従業員にとって、会社にとって、阪神電鉄のユーザーにとって、そういう、ストーリーで本当にいいのであろうかということを考えてみると当然よくないということになる。それであれば、そういう私利私欲で対抗する相手に対しては、経営陣は、命を賭して、私心を捨てて、会社のため、従業員のため、お客様のため、途中で腰砕けにならないように、誠の道を進んでいかねばならないのである。そうでなければ、何事も前進しないし、いい結果も得られない。いまは、この覚悟が重要である。そうすれば、必ず、いい手段も見つかるはずである。また、そこまで、やれば、世論もついてくる。この講義のとき、また、どう推移しているかわからないが、西郷南洲が生きていれば、そのように言うであろう。TBSと楽天、フジテレビとライブドアもそうであったが、何事も最終的には、志の高さと誠実さが勝敗を決するように感じる。


三十一〜三十五