【西郷南洲遺訓】

 一〜五六〜十十一〜十五十六〜二十二十一〜二十五二十六〜三十、三十一〜三十五、三十六〜四十一  

 
三十一、道を行ふ者は、天下擧(こぞっ)て毀(そし)るも足らざるとせず、天下擧て譽(ほめ)るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷(はくい)の頌(しょう)を熟讀(じゅくどく)して會得せよ。
   
「人の道、誠の道を実践していく者が、世の中の人が挙って、その人の悪口を言っても、決して不満に思わず、世の中の人が挙って、その人のことを誉めそやしても満足することがないのは、自分の進んでいる道を深く信じているからである。そのような人物になるための秘訣は、唐の時代の作家、韓文公の伯夷、叔斉の頌を熟読して、自分の身に付けることである。」
天道である人の道を実践していく者は、世間から、如何に攻められようとも、如何に賞賛されようとも、泰然自若として、淡々と自分の信じる道をひたすらに歩いていくものである。そして、そのような人物を目指すのであれば、唐の韓退之の書いた「伯夷・叔斉」の誠の道を餓死してでも貫くという物語を熟読して、その本質を会得し、自分の生活の糧とし、それを身に付ける必要がある。と、西郷南洲は言っているのである。誠の道、人の道を貫くことと人の命とは同じくらいの重さであるということである。天から両親を介在して、もらったこの命は、社会的使命を終えて、また、天に戻っていく。人の道は、天の道であるから、その天の道を行って、死ぬということがあってもそれは甘受するべきであるというようなことであろうか。前々回、勉強した吉田松陰の死生観である「死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもいいし、生きて大業を成し遂げる見込みあらば、成し遂げるまで生きたらよいのである。つまり、私の観るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきをなす心構えこそ大切なのだ。」という考え方と一致するように思う。人間にとって大切なことは、世の中のために自分の持てる天命を発揮させ、貢献することであり、生きる死ぬなどというのはその結果でしかないということでもあろう。期せずして、同世代を生き、幕末の志士たちに大きな影響を与えた二人が同じようなことを言っているのである。この人の道を実践することは、自分の命にも変え難いという考え方が、多くの人間の心の中に備われば、コーポレートガバナンスとかコンプライアンスなどというものは、一切いらないように思うが、どうであろうか。


 
三十二、道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公は閨中(けいちゅう)にて語りし言も、人に對して言ふべからざる事無しと申されたり。獨を愼むの學推て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
   
「人の道、誠の道を志す者は、その道を成就させることに真剣に取り組んでいるので、偉業を成したからといって尊ぼうとしないものである。司馬温公は、寝所で妻女と語った言葉でも人に対して言えないことは無いといわれた。大切なのは、偉業ではなく、獨を慎むということであって、その教えは、司馬温公の事を知れば、よくわかることである。人の意表をついてその時だけ、偉業をなしたなどとして、一時の快適さを味わうのは、修行の足りない未熟者のすることであり、戒めなければならない。」
偉業や大業をなしたからといいって、みんなの耳目を集め、誇らしげにするのは、誠の道を実践していることにはならないし、それをやった結果でもない。その道を実践する過程の中でたまたまできたことであって、ほとんどが見せかけのものであって、そんなに自慢することでもない。それよりも、人の道、誠の道を成就させるために「慎獨」を実践することのほうが、余程、重要である。と、西郷南洲は言っているのである。小泉政権が出来で5年強、この9月で退陣が決まっている。本人は、偉業、大業を成し遂げてきたと誇らしげであるが、肝心なことは何の解決もできてないように思う。自信を持って、実行してきた郵政民営化でも、今の実行の度合いを見ていると、民間の金融機関の競争相手を増やしただけである。他との何の差別化も無いのであれば、何のための民営化であったのか、さっぱりわからないというのが、私の見解である。また、「改革」路線の継続を後継者に託すといっているが、こういう節目の時代に、改革をするのは、当然のことである。別に継承してほしいなどといわなくても、その時々に応じて、国民のために臨機応変に改革していくことが、政治家の務めであり、やって当たり前のことである。何か、さも特別なことをやっているかのように表現していることの巧みさには脱帽するが、国民のために何か本当に中身のある改革ができたのであろうか。もっと、言えば、アメリカのなすがままにされた政権だったのではないかと思えてならない。今、小泉首相がやるべきことは、後継者を任命することではなく、改革に中身を入れることであり、それに、集中すべきである。アジアを越して、アフリカや北欧に行っている場合ではない。それこそ、誠の心を持って、自分のやってきた改革をもう一度見直し、きちんとしたものにして、後継者に渡すことに専念すべきであろう。そうでないと、やりっぱなしで終わり、今後に禍根を残すことになろう。


 
三十三、平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分(しょぶん)の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生處分有る者は動揺せずして、取仕末も能く出来るなり。平日處分無き者は、唯狼狽して、中々取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非ざれば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝(つい)て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
   
「常日頃、人の道を踏み行っていない人は、何かの事象に出会うと狼狽して、その事象の処置が、なかなか出来ないものである。たとえば、近隣に火事があった場合など、常日頃、人の道を踏み、訓練をしているものは、少しも動揺せず、そのことをてきぱきと処置してしまうものである。しかし、そうでないものは、処置を施すどころか、唯、狼狽して、結局、何もできないものである。」
人の道、誠の道を目指しているものは、常日頃から、緊急への対応の心構えができており、生死を越えた観念の中で生きているので、冷静な対応ができ、例えば、近隣に難事が起きたときでも、柔軟に対応することができる。しかし、そうでないものは、自分の私財や身の回りのものにだけ目が行き、結局、大切なものを失うことになるのである。と西郷南洲は言っているのである。私の経験の中からも、こういうことには、よく出くわす。例えば、ひとつの企業があったとしよう。銀行に多額の債務があり、会社の再生、再編について、どうするか迫られており、そのことについての判断が必要であるとする。一方では、銀行主導による再生、再編、一方はこの企業に友好的なスポンサーによる再生、再編。こうなった場合、経営者が、何を考え、決断するかで大きく、その後のこの企業の行く末が変わるのである。ここで、人の道、誠の道を目指している経営者であれば、まず、自分のことよりも従業員やそれに関連する人たちのことを考えるであろう。それをベースに今後のことを考えると、自分も含めて、この企業を継続させていくためには、どうしようかと考える。そうなると、銀行主導であれば、自分は当然、経営責任をとって退陣することになり、この企業への責任は一切無くなるということになる。スポンサー主導であれば、継続して、形は変わっても、この企業の進展のために尽力をすることができる。そして、経営がわからない銀行が主導するよりも、経営がよくわかっているスポンサーと一緒にやる方が、従業員にとっても今後のこの企業の発展にとってもいいことだとわかる。おそらく、銀行主導になった場合は、有効な資産は、早急に処分され、今、現存している事業さえ、うまくいかなくなった場合は、他社へ売られるということになり、これまで、培ってきたものは、すべてが気泡に帰すことになる。そう決断することは、これまでの銀行との関係もあり、し辛く、厳しくもあろうが、そんなことは、従業員や顧客、これからの事業の進展のことを考えると関係ない。これで、推し進めようということになる。人の道、誠の道をおろそかにしている経営者は、その逆で、自分のことや自分の身の回りのことだけを考えて、どうしようかと右往左往し、結局は、自分で結論を出すことが出来なくて、判断を周りの人や周りの動向に依存して、すべてを失うということになるであろう。リーダーというものは、いいときは、誰でもできるものであるが、大変なときに十分な力を発揮できるのが真のリーダーといえるのではなかろうか。そのためには、常日頃、人の道、誠の道を求めていく姿勢が大切である。
「何事も同じことであって、常日頃、人の道を踏み行なっている人でなければ、何かの事象に出会ったときに、その事象への対策はできないものである。私が先年、出陣の日に、兵士に向かって、わが方の軍備がちゃんと整っているかどうかを、ただ、味方だけの目で見ないで、敵の考え方にたってみて、不備を指摘してみよ、これこそが、第一の軍備というものであると言ったといわれた。」
人の道、誠の道を実行いている人は、何事に対しても、その場に合った臨機応変の処置ができるものである。それは、私利私欲を超越しているので、物事を見るのに、客観的に多方面から見る目を自然に備えることができるからである。軍備についても、自己満足ではなく、客観的に多方面から見て、敵から見てもぬかりは無いというくらいにすることが必要である。と、西郷南洲は言っているのである。人間誰しも、自分のことや自分の身の回りのことばかりを優先させようとすると、本当の事が、見えなくなったり、わからなくなったりするものである。また、そう考える人は、せまい、自分の人生観の中で、世の中はこんなものだと思い込んでしまい、その域を出ようとしなくなる。自分が思っている当たり前のことが、通用しているうちはいいが、また、自分の土俵で戦えるうちはいいが、それが、取り払われて、客観的に公に見られたときに、それが大きな問題になっていることは多い。耐震強度疑惑事件にしても、建築法違反の東横インの事件にしても、また、ライブドア事件にしても、自分や自社の利益を優先した結果のことであり、客観的に多方面から見ることを忘れたことに原因があるように思われる。また、前述したように、我々は、こういう風になりやすい体質を持っているので、益々、人の道、誠の道の探求を行うことが必要であるように思われる。


 
三十四、作略(さりゃく)は、平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹(そのあと)を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戰に臨みて作略無くばあるべからず。併(しか)し平日作略を用れば、戰に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄(これまで)少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊(いささ)か濁るまじ、夫れ丈(だ)けは見れと申せしとぞ。
   
「謀は、常日頃してはならないものである。謀をもって、やったことは、その事後を見てみると、よくないことが判然として、必ず後悔をするものである。ただ、戦いに際しては、謀略が当然なくてはならないものである。しかし、常日頃、謀ばかりやっていると、戦いに際して、本当の謀略はできなくなるものである。」
謀や駆け引きは、日常はやってはならないものである。謀や駆け引きの念を持って、やったことで、いい結果をもたらすということは皆無に等しい。やられた者の恨みをかうか、仕返しをされるだけであり、友を失う。しかし、イザ戦いとなったときには、策略(謀)はなくてはならないものである。それは、国やそこに住む民衆を守るために、という大義があり、そのためには、勝つということが、必要になるからである。日常、私利私欲を満足させるためだけの謀をやっていると、イザというときに何の役にも立たず、本来の策略(謀)はできないものである。と西郷南洲は言っているのである。会社や国にも、やたら、自分のためだけに策略を用いる人は多く存在している。自分の出世のためだとか、自分を他人によく見せるためだとか、自分の意見の正当性を誇示するためだとか、色々なケースがある。しかし、こういう、策略をしている人が、世の中のため、会社のためになったためしがない。こういう人が、間違って、そういうことを差配する立場になれば、必ず、敗れる。この傾向は、非常に強いように思う。それは、やはり、私利私欲に端を発しているからである。人の道、誠の道を求めている人は、必然的にそのようなものを超越しているので、イザ、戦いとなったら、前述のように客観的に、的確に、柔軟に策略を立て、実行していくことができる。
「中国の三国時代の蜀の宰相、諸葛孔明は、普段、自分の私利私欲のために謀を用いなかったので、イザというときにあのような奇策を実行することができたのである。私は、かつて、東京を引き揚げるときに、弟の従道に向かって、これまで、私利私欲のためひとつも謀はしなかったので、東京を引き揚げた後も、少しも周りに禍根を残すようなことはないであろう。それだけは、ちゃんと見ておけと、言ったとのことである。」
劉備に三顧の礼で迎えられた諸葛孔明は、劉備とその国家に対して忠誠を誓い、蜀の軍師として、宰相として、人生を全うした至誠の人であった。そういう人であるから、普段は、穏やかで、思いやりのある人物であった。だから、もちろん、普段、謀などというのは一切使わなかった。だから、イザ、戦というときに、あのような奇策を使うことができたのである。私もそのように思うので、普段は、謀など一切しなかった。また、必要もないことである。だから、弟にそのことを告げ、弟にもそうするように諭すために、引き揚げた後、どうであるか、周りの人間関係も含めて見ておけといった。と、西郷南洲は言っているのである。その言葉の通りに、確かに、西郷従道、大山巌、東郷平八郎などは、戦いの場では、色々と奇策を弄して、日本を戦勝国に導いてはいるが、政界の中にあって自分自身が奇策を弄したことは、一度もなかったと、いっていい。また、普段、謀を使いすぎると、イザというときにいい知恵が浮かばないということも多い。常日頃、知恵をどんどん出していると知恵をためることがないので、イザというときに大きなパワーを発揮できない。大きなパワーを発揮させるためには、十分に溜め込んで、吐き出すということが自然の摂理であるように思う。地震や噴火などというのは、その類である。また、戦いは、攻めてばかりでは勝てない、退くということも大切である。そういうことの慧眼を作るためにも、人の道、誠の道を実行していく事は必要なのである。



三十五、人を籠絡(ろうらく)して陰に事を謀る者は、好し其事を成し得る共、慧眼(すいがん)より之を見れば、醜状(しゅうじょう)著しきぞ。人を推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬(と)られぬもの也。


次へ
   
「人を篭絡して、陰でこそこそと謀を企てる者は、たとえ、そのことを成し遂げることができたとしても、物事をよく見ることのできる人の眼からこのことを見れば、醜いことこの上ないものである。人に接するには、常に、公平至誠を持ってすることが大切である。公平至誠の念を持って接しなければ、慧眼を持った英雄の心を、決してつかむことはできないものである。」
陰謀を企て、人を騙し、混乱させて、そのことを実行できたとしても、人の道、誠の道を実行してきた人の慧眼から見ると、一目瞭然にそのことがわかり、如何に醜いことであったのかが、よくわかるものであり、そういうことは、二度と通用しないものである。だから、そんなことは、最初から一切やらずに、公平至誠の心で人に接することが大切である。本当の英雄は、その心を持っているものであるので、肝胆相照らし合わせることができるので、よき理解者として、付き合うことができるようになるものである。と、西郷南洲は言っているのである。確かに、人の道、誠の道を究めれば、そういう慧眼を持つことができるように思える。また、そういう慧眼を持っている人に会うと、何か、自分のことを見透かされているようで、緊張するものでもある。逆に、そうでない人に会うと、その人のことがよく見え、よくわかることがある。人間の付き合いにとって、特にこれからの時代、相手を見る目を作るということは、非常に重要なことである。それは、どうも世間で言われているように色々な人に多く会うことではなさそうである。逆に会えば、会うほどわからなくなるのではないであろうか。もちろん、人は人とのコミュニケーションの中で、生きていく社会性を持った動物なので、色々な人と出会わなければならないので、誰にも会うなということではない。その答えを導き出すためには、これまで述べてきているように、人の道、誠の道の実行をすることにより、人としての指針を探り、そこから、一定の基準を見つけ出すことにより、できてくるように思える。「易経」の考え方が将にその通りである。そういう意味からすれば、「易経」は占いの本ではなく、将に人間学の本であることがわかる。いずれにしろ、人を慧眼を持って、見れるようにするためには、多くの人と付き合うというよりは、人の道、誠の道を実践していくことの方が重要であるように思う。


三十六〜四十一